大山勝三:『一歩を踏み出す意味』(大山勝三教授 退官記念講演);2018
あるいはエピローグとして
えー、本日はこのようなマニアックな講演に多数のご来場者を賜り、大変にありがとうございます(会場笑い)。最初に申し上げますが、諸君、途中で寝るなよ! 眠った者には単位はやらん!(会場大笑い)
さて。私が主な研究領域としてきたのは、レインラント共和国の短い栄華に終止符を打った、レインラント10年戦争であります。
7年戦争によって奇跡的にも――あるいは予定調和的に――緩やかな市民革命を成し遂げたレインラント共和国は、国内に多くの矛盾を抱え込むことになりました。それがやがて10年戦争という酸鼻を極める内戦を通じて崩壊したのは、やむを得なかったことやもしれません。
はい、そこ! 寝るなら寮に帰れ!(会場笑い)
まったく、諸君らはなぜ揃いも揃って枕を持ち込んでいるのですか。はいそこ、君が毛布まで持ち込んでいるのは確認しております。なに? これは着る毛布だ? なるほど、訂正いたしましょう。なぜ諸君らはわざわざ寝具を持ち込んだのか(会場笑い)。
なんとも、昨今における情報流通力の偉大さには、感嘆の念を禁じえません。僕も恩師の退官記念講演には仮装して出席いたしましたが、当時ではここまで統一感のある行動は不可能でした。
(背後のスクリーンに、若き日の大山助手(当時)が、謎の仮装をしてピースサインをしているモノクロ写真が投影される。会場、大いに笑い)
この写真が、僕が仮装で退官記念講演に出席したという、歴史的資料となります。
さて。おっと、「さて」を言うのは、本講演ではこれが2回めとなりますね。いや今これで3回になりました。今日はなるべく「さて」を減らそうと思っていたのですが、口癖というものはなかなかに御しがたい。
さて(会場笑い)。
自然権の制定と普及という観点において、レインラント共和国は特異点とも言える国家でありました。
それゆえに、「早すぎた理想国家」として、レインラント共和国が持て囃されるという傾向は、未だに観測できます。かの時代における稀有なる思想家であり、かつ共和国の初代大統領を務めたクリムコヴァ女史を、自由と民主主義の母と評する意見は、今も――いや、近年になって特に――あちこちで語り継がれています。
しかしながら、現代の歴史学研究においては、クリムコヴァ女史が清廉潔白な政治家からは程遠かったことが、定説となっております。女史は自らの論敵となり得る政治学者を謀殺し、ときには学生すら絞首台に送りました。すべては、女史が「この時代のレインラントにおける最高の政治思想家」という評価を維持するためであります。
このように、人口に膾炙している説と、歴史学上の定説は、食い違うことがあります。
実際、僕が講義中に寝た学生にことごとくD判定を下したという説は広く人口に膾炙しておりますが、歴史学的事実とは異なります。こちらの表を御覧ください。
(背後のスクリーンに、「昨年度の実績」と書かれた表が表示される。
左の欄には「起床を促した発言の回数」、右の欄には「単位を得られなかった学生の総数」が示されている。
左の数のほうが、右の数よりも、圧倒的に多い。
会場からは、笑いと拍手が沸き起こる)
えー、僕が起床を促した発言の回数は、研究室の院生に数えさせた――のではありません。僕の学生時代ではあるまいし、そんな非人道的かつ無意味な研究に院生を動員したりはいたしません(会場笑い)
昨年度、僕の講義はすべて、MOOCで放映されておりました。そこから音声データを取得し、「起きろ」「寝るな」といった言葉を機械的に抽出した結果が、この数値となります。処理系は本学でMOOC担当をされておられる藤井先生に、無理をいって書いて頂きました。
藤井先生いわく「まだバグがあるかもしれない」とのことですが、僕の体感としては、かなり正しい数値に収まっています。藤井先生、大変にありがとうございました(壁際で立って聴講していた藤井准教授、姿勢を正して一礼する。聴衆、笑いと拍手)。
さて、本年はレインラント10年戦争が終結して、150年にあたります。
10年戦争によって共和国の理念はズタズタに引き裂かれ、レインラントには帝政が復活します。この第2帝政は、ご存知の通り、実に1946年まで続くことになります。
これをもって、レインラント10年戦争は「市民の自由の死」、そして1946年に誕生した民主レインラント共和国をもって「市民の自由の復活」と評する言論もまた、数多く存在します。民主レインラント共和国がその独立宣言において「レインラント共和国の理念を受け継ぐ」と宣じているのも、有名な事実であります。
そして今、市民の自由と権利という問題が、我が国においても幅広く議論されております。哲学、文学、歴史学、政治学、法学、経済学、あるいは理科学系の先生方におかれましても、我が国の現状に関する議論が絶えぬ――あるいはそのような活動に参加される先生方が日々増加傾向にあるというのは、覆せぬ事実であると考えます。
(背後のスクリーンに、「大学教員がインターネット上で行った政治批評の件数」のグラフが表示される。
この数年の間に、このグラフは急激に右肩上がりになっている)
これらは先生方それぞれの意志に従っての権利行使でありますから、僕としては、何も言うことはございません。
もちろん、引くべき一線はありますが、少なくとも、インターネットに限らず公共の場で己の見解を示すことまで制限されるべきだという意見には、賛同いたしかねます。
ですがその一方で、歴史学に対する「何百年も前の数字ひとつ、文字ひとつに拘って、現実の社会へのコミットを避ける態度」「白亜の塔に籠もり、机上の学問に拘泥し続ける態度」という評価と、その評価に基づく批判には、首をかしげざるを得ません。
(スクリーンに、『伝書使の帰還』という本の表紙が表示される)
これは、レインラント10年戦争終結150年を記念して発行された、僕の現役最後の論文になります。
失礼、嘘をつきました。まだ発行されておりません。担当編集の木村君と、版元の弘道社様には大変に申し訳ないことをしております。明日には! 明日の朝には必ず! 8章の草稿をメールいたします! あ、いえ、本日はこれからどうしても避けられない宴席がありますので、明後日には!(会場大笑いと拍手)
さて、肝心なところで実に締まらない展開で恐縮なのですが、本書は5年前にマーショヴァー家が公開しました『エルシュペー伯爵夫人の取材手記』の検討と研究、そしてそれに関係するレインラント共和国研究の最新状況解説が中心となっております。
まあ、自分で言うのもなんですが、まるで売れそうにない、お硬い本です(会場大笑い。「Kindle版が出たら買います!」という野次が乱れ飛ぶ)
諸君らはいつもそう言うが、電子書籍化する費用を僕が全額受け持って電子書籍にしても、諸君らはまるで買わないじゃないか! 「マクドナルドのヘルシーなハンバーガー」のことを、諸君らは笑えんぞ!
あ、いや、それを笑えないのは僕でしたね。猛省します(会場大笑い)。
特に我が細君には、毎回毎回「これからは電子化だ、電子化すればたくさん売れる」と言い訳しては、毎回毎回家計に赤字を垂れ流してきた件、深く謝罪します(最前列で聴講していた和服の女性、立ち上がると、聴衆に向い、丁寧に一礼。聴衆、これまでにない大きな拍手)。
――さて。
本書のタイトルを『伝書使の帰還』としたのは、この分野に詳しい方ならご存知かと思いますが、レインラント共和国における屈指の名著であり、歴史学に新たな展開をもたらした偉大な研究でもある、エルシュペー伯爵夫人リュシール女史の『伝書使は還らず』に範をとったものであります。
『伝書使は還らず』は、7年戦争における不世出の英雄である伝書使アーシェ――何度言っても「アーシュ」と書いてくる愚かな学生が絶えぬのですが(会場笑い)――が果たしてきた任務と、彼女の死について、実に見事な筆致で書かれた研究書です。
かの本は、「伝書使アーシェはビューラー皇帝から隠し財産を託され、その行方を秘匿したまま、今なお影で皇帝に仕えている」という市井の噂……あるいは人口に膾炙している説を、地道な調査と関係者への聞き取り、そして史料の追跡を通じて、完全に否定します。このような緻密な研究は、従来の「歴史学」にはなかったものでした。
ですが時代を経るにつれ、『伝書使は還らず』には、意図的に伏せられた事実があることも、分かってきました。
リュシール女史が『伝書使は還らず』において成し遂げた、執念すら感じさせる綿密な手法によって、後世の研究者たちは『伝書使は還らず』が敢えて書かなかった事実を、発掘していったのです。
ですので、リュシール女史と親交があったアレンカ・マーショヴァー女史が託されたという『エルシュペー伯爵夫人の取材手記』は、我々にとってさほど大きな驚きとは成り得ませんでした。
というのも、そこに書かれていた取材記録のほとんどは、これまでの研究によって明らかにされていたからです。『エルシュペー伯爵夫人の取材手記』は、それらの研究をさらに裏付ける強力な史料ではありますが、それ以上のものではない。そう、思われました。
ですが1つだけ、かの手記によって、新たに得られた知見があります。
それは、伝書使アーシェが、何回任務に成功したかという、その回数です。
従来これは、106回であるとされてきました。そしてあらゆる史料は、それを裏付けてきました。
もちろん。リュシール女史は彼女の母親である伝書使アーシェの任務を引き継いでおり、革命戦争後にビューラー元皇帝と面会した際に、その任務を完成させたのではないかという推測は、長らく語られてきました。ゆえに、伝書使アーシェの任務達成回数は、106ではなく、107なのではないか、と。
状況としては、十分にあり得る話です。
でも、それを裏付ける史料は、何一つ遺されていないように思われていました。
ここにおいて、『エルシュペー伯爵夫人の取材手記』は、決定的な転換点となりました。
かの手記には、リュシール女史がビューラー元皇帝に対し自らを「伝書使アーシェの任務を引き継いだ、伝書使リュシール」であると宣言し、アーシェが受けた任務――つまり、皇帝と秘密の愛を育んでいた、ヴージェ皇国のアグノー侯ミレーユからの言葉を、皇帝に伝えること――を果たしたことが、記録されていたのです。
(いつしか、会場は水を打ったように静まり返っていた。
聴衆はみな、壇上から発せられる言葉の一言一言に、集中していた)
そしてこの記録をもとに、改めてビューラー皇帝が退位したあとの記録を多方面から洗った結果――これには世界中の歴史学者が協力しました――退位後の皇帝に仕えた第一秘書のイングリットの日記や、皇帝の護衛を務めたコール傭兵の手記に、それを暗示する記録が発見されたのです。
現状、最新の学説においては、伝書使アーシェの任務達成回数は107回という説が、定説となっています。これにあわせ、民主レインラント共和国軍も、偵察活動において顕著な功績を残した兵士に授与する〈アーシュ記章〉の説明を変更しています。
これらの研究の動向をまとめたのが、目下絶賛執筆中の『伝書使の帰還』となります。興味のある方は、是非ご予約をお願いします(会場、静かな拍手)。
さて、僕自身、客観的に見たとき、この研究の意味を疑いたくなる瞬間は、あります。
一人の兵士が、戦争全体の帰趨や、あるいは社会の動きに対して重大な影響を与えるということは、伝書使アーシェが現役だった時代から、もうあり得ぬことでした。
その一人の兵士が、生涯に渡って達成した任務の数が106なのか、107なのか。
そんなことに、いかなる意味があるのでしょう?
そんな枝葉末節に拘るよりも、もっと大きな視点――レインラント共和国における自然権の発達と、共和国の滅亡、そしてその状況が現在の我が国に類似点を持つこと――から、7年戦争と10年戦争、そしてその戦間期を語るべし。それが歴史学者の現代的使命である。
なるほど、その通りかもしれません。
それでも僕は、一人の人間が一生を賭けた、その事績の結果が106であったのか、107であったのかに、拘ります。
それは決して、「とるにたらないこと」では、ない。
断じて、違う。
僕は、そう確信しています。
『伝書使は還らず』を書き上げたリュシール女史と深い親交があったアレンカ・マーショヴァー女史は、その多弁な親友と異なり、ほとんど何も記録を残していません。
無論そこには、アレンカ女史が伝書使であったという事実も、影響しているでしょう。
ですが友の早すぎる死に際し、アレンカ女史は一葉の日記を残しています。
最後にそれを引用して、この講演の締めくくりとさせていただきます。
「リュシールは、私にとってかけがえのない友であり、娘のような存在でもあった。
彼女は伝書使たる身体的素養をまるで持ち合わせなかったが、その魂は我々の誰よりも伝書使を体現していた。
彼女は、決して諦めなかった。
彼女は、決して怯まなかった。
彼女は、決して前に進むことを、止めなかった。
私は一度だけリュシールに、あなたはなぜそんなに頑張れるのかと聞いたことがある。
彼女は迷うことなく、こう言った。
『私の母は、寡黙な人でした。
私が話しかけても、微笑むだけで、滅多に返事はありませんでした。
ですがある夜、幼い私は、急に熱を出しました。
母は私をその背に背負って、医師のもとへと向いました。
子供心にも、母が無理をしているのは、分かりました。
理屈の上では、医師がいる村まで歩いて辿りつけます。
ですがそのためには、一晩中歩き続けねばなりません。
私は母に、無理しないで、と言いました。
ですが母は、何も無理はしていない、と言ったのです。
そして、教えてくれました。
簡単なことよ。
右足を前に出す。そうしたら次は、左足を前に出す。
そうするとね、次は右足が前に出せるようになるの』
伝書使リュシールは、母の教えに、最期まで従った。
私はそんな英雄に友と呼んでもらえたことを、生涯誇りにするだろう。
そして私も、右足を一歩前に、踏み出そうと思う。
左足を一歩前に、踏み出すために」
諸君らがこれからも学問の王道を歩み続けることを願いつつ、これをもって本学における僕の最後の講義といたします。
ご清聴、ありがとうございました(会場、いつまでも続く、大きな拍手)。




