〈最も名誉ある貴族〉ビューラー1世
元レインラント帝国皇帝
(――ついに、ここまで来た。
万感の思いを胸に、私は自分の名が呼ばれるのを待つ。
20年前、革命によってビューラー皇帝は退位し、レインラント帝国はレインラント共和国へとその名を変えた。
だが革命継承戦争における諸外国との熾烈な戦いの中で、その軍事的な存在感を見せつけた元貴族たちは、法的には一般市民と平等な権利を持つことになったが、資産と肩書を保つことに成功した。
結果、貴族の地位だけを頼りに権勢を誇っていた者達は急速に没落したが、高い教育を受け、困難な政治的状況を何度もくぐり抜けてきた歴戦の貴族たちは、むしろ帝国時代よりもその権勢を伸長させた。
この状況にあって、ビューラー皇帝は独特の立場を得た。
皇帝という肩書の代わりに共和国から授与された〈最も名誉ある貴族〉という称号は、ビューラー家のみが持つ新しい――だがそのルーツは紀元前にまで遡り得る――称号だ。
ビューラー皇帝が退位したことで、正確にはその称号は皇帝の孫であるアーデルベルト3世が有することになっている。だがアーデルベルト3世はいまだ幼く、現状において〈最も名誉ある貴族〉と言えば、事実上ビューラー先帝陛下を指すというのが一般的な理解と言えるだろう。
〈最も名誉ある貴族〉となったビューラー先帝陛下は、社交界との交わりを絶ち、芸術家のパトロンとしてのみ、その存在を示している。
これはビューラー先帝陛下の、巧みな処世術と言えるだろう。
もしレインラントで反革命闘争が起きれば、そこで担ぎだされるのはビューラー先帝陛下だ。そしてその先にあるのは、あまりにも暗い未来でしかない。
そういった最悪の事態はもちろん、共和国政府からそのような嫌疑をかけられることすら避けるため、先帝陛下は自発的な謹慎に踏み切り、その謹慎は20年に及ぼうとしている。
ゆえに、先帝陛下に面会するというのは、至難の業だ。
唯一の機会は、なんらかの芸術的価値を世に示し、それを先帝陛下に顕彰される、そのときのみ。
私は、なんとしても先帝陛下に会う必要があった。
ゆえに私はオチェナーシェク老に、アーシェの死を証明する代わり、先帝陛下と面会させてもらえるよう、提案した。
オチェナーシェク老はこの申し出に対し、アーシェの死を誰にでも明らかな方法で証明することを求め、もしそれを成し遂げたならば先帝陛下と対談できる時間も確保しようと語った。
私は老の提案を受け入れ、誰の目にも明らかなようにアーシェの死を証明する仕事に、とりかかった。
いま、その仕事は成った。
あとはそれを、文章にするだけだ。
最悪、私がその途中で死んだとしても、私と証拠を共有するオンドルフ閣下は、理路整然とアーシェの死を公表するだろう)
リュシール・アルダン嬢。
最も名誉ある貴族であるビューラー1世殿が、お呼びです。
(名前が、呼ばれた。
私は待合室に置かれた椅子から立ち上がると、〈謁見の間〉とでも呼ぶべき応接室に向かう。
豪奢だが嫌味さのかけらもない、おそろしくセンスの良い応接室には、ビューラー先帝陛下が座っていた。周囲はコール傭兵と元伝書使が固めている。先帝陛下の背後を固めるのは、当然のように、伝書使ヴォルグだった。
私は、半泣きになりながらクラリッサから学んだ、“最新式の淑女の礼”をする。
先帝陛下は鷹揚に頷くと、手で着席を促した。
私はその招きに応じて、先帝陛下と向い合うように着座する)
君が、アルダン君か。想像より随分と若いね。
君の活躍は、聞いている。
新時代に相応しい「報道」なる領域において、傑出した仕事を成し遂げたのだね。
同じ共和国の人間として、君のような素晴らしい才能と同時代に生きていることを、誇りに思う。
イングリット。リュシール嬢に、報奨金と、勲章を。
(年季の入った貴婦人が、華麗な装飾のなされた封筒と、金の獅子をあしらった勲章を捧げ持って、一歩前に出た。
それを見た私は椅子から滑り降りるように、膝をつく。
伝書使だけが伝える、皇帝への敬礼だ)
「ビューラー先帝陛下。
私には、報奨金も、勲章も、必要ありません。
ですがなにとぞ、陛下へのご報告をひとつ、お許し頂ければと」
(場の空気が、一変した。
イングリットと呼ばれた貴婦人は憤慨の意を表情に出し、ヴォルグは不謹慎にも、先帝陛下の背後で苦笑いを隠そうともしなかった。コール傭兵たちは、あからさまに臨戦態勢に入る。
先帝陛下は、たっぷりと時間をかけて考えると、重々しくその口を開いた)
いいだろう、伝書使リュシール。
君の報告を、聞こう。
「ありがとうございます。
ですが私見ながら、私の報告は、公の場では避けたほうが望ましいかと考えます。
お人払いが必要であることに同意頂けましたら、是非、お人払いを」
(コール傭兵たちが一斉に抜刀すると、一歩前に踏み出した。
圧倒的なまでの威圧感を、感じる。
だが、それは予定のうちだ。
先帝陛下は、私の要求を、必ず、認める)
武器を収めたまえ。
ヴォルグを除き、この部屋を出よ。
これは命令である。この命令の責任は、私が負う。
(先帝陛下の穏やかな声の効果は覿面だった。
コール傭兵たちは武器を収めると、整然と部屋を去っていく。
最後にイングリット女史が扉を閉め、応接室の中は私とヴォルグ、そして先帝陛下だけになった)
これで良いかな?
しかしまあ、どこでその服を手に入れたものやら。
いや、よく似合っているよ、リュシール君。
(この謁見の場に、私は伝書使の制服を着て来た。
私の体にフィットした制服を用意してくれたのは、他にあらん、ヴォルグだ)
では、君の報告を聞こうか。
伝書使リュシールは、我が元にいかなる知らせを持ってきた?
(ひとつ、深呼吸をする。
半生に渡って、何度も何度も心のなかで練習してきた、報告。
今更、間違えようもない)
「陛下の忠実な下僕であった伝書使アーシェの任を引き継ぎ、アグノー侯ミレーユ閣下より、ビューラー皇帝陛下に連絡をお持ちしました。
なお、アグノー侯ミレーユ閣下の命令により、連絡事項は口頭にてお伝えします」
(それまで子供の悪戯につきあうような顔をしていた先帝陛下の表情が、完璧に凍りついた)
「怪物が潜む闇を覗き込むとき、怪物もまた私達を見ています。
その視線に耐えられる私たちは、本当に人間なのでしょうか?
あなたも、私も、幾多の無辜の民を踏みつけて、ここまで来ました。
今の私に必要なのは愛ではなく、懺悔です。
先に、あちらで待ちます。あなたのことを、愛していました」
「――伝言は、以上です。受領のサインは不要と聞いております」
(先帝陛下は、ぴくりとも動かなかった。
ヴォイグは天井を見上げ、静かに瞑目する。
私は膝をついたまま、先帝陛下の言葉を待った)
伝書使アーシェより任を引き継ぎし伝書使リュシールの報告を――確かに受け取った。
……楽にせよ。
(どれくらいの時間が経っただろうか。
先帝陛下は、嗄れた声で、そう告げた。
私は一旦立ち上がると、再び着座する。
しかるに、このままでは無駄な時間を膨大に消費しそうなので、私のほうから口火を切ることにした)
「先帝陛下は、母のことをアーシェと呼んで頂けていたのですね。
レインラント発音の、アーシュではなく」
……ああ。やはり君は、アーシェと私の子だったか。
もしかしたらと――だが……
「母は私を身ごもった体で、アグノー侯のもとにたどり着きました。
ですが母といえども、それが限界でした。
ミレーユ様はすべてをお察しの上で母を匿い、母は私を産みました。
私はミレーユ様の養女として、母は下働きの女中として、ミレーユ様の館で暮らすことを許されたのです」
そうか――ミレーユが、か。
……そうか。悪いことを、した。
(悪いこと!? これをあなたは、「悪いこと」で済ます気か!?
――その叫びが、喉元までせり上がった。
敵国の侯爵と文通で密やかな愛を育みながら、その手紙を運んでいた母を何度も手籠めにした男。母はもちろん、ミレーユ様も深く傷つけた、最低の男。
この言語道断な悪行をもってして、この男にとっては「悪いこと」程度でしかないのか!?)
「回復した母は当初、陛下の元に帰り、ミレーユ様の言葉を伝えようと考えていたようです。
ですが当時のミレーユ様は、ヴージェ皇国において、四面楚歌の立場でした。新教徒に対する融和的な態度を、攻撃されていたのです。母が身辺を守らねば、ミレーユ様は早晩暗殺されていたでしょう。
ミレーユ様と陛下の間で交わされる書簡を何度も運び、書簡を受け取ったミレーユ様が喜ばれる様子を見てきた母は、陛下の元に帰るよりも、ミレーユ様の身を守ることこそが自分の使命であると考えたようです」
……さすが、アーシェだな。
私は、伝書使はみな、帝国の至宝であると考えていた。
だがアーシェはそんな伝書使の中でも、明らかにずば抜けていた――いや、異様ですら、あった。
(先帝陛下の背後で、ヴォルグが静かに頷く)
「母は、ミレーユ様を狙った暗殺者を、ことごとく撃退――いえ、殺戮し続けました。
私がギリギリ物心つくかという頃、進退窮まった暗殺者が、私を人質に取ろうとしたことがあります。
私は、あれ以上に人間が早く動くところを、見たことがありません。次の瞬間には、私は暗殺者の喉からほとばしる血に塗れていました。
恐ろしさのあまり泣きだした私をあやすでもなく、『静かに。まだ敵がいる』と説教した母の凛々しい姿は、今でもはっきりと脳裏に描けます」
(先帝陛下は目を閉じ、追憶の中にいる母の姿を追っているようだった。
ヴォルグは私が語る母の武勇伝に、苦笑していた)
「革命継承戦争が正式に終結して5年後、ヴージェ皇帝が崩御し、新皇帝は新教徒への対応を緩和する方針を打ち出しました。ミレーユ様を襲う暗殺者はめっきりと数を減らし、新皇帝が即位して5年ほどで、むしろミレーユ様の立場のほうが多数派となりました。
ですが、ようやく平穏な日々が訪れたある夜、母は突然、倒れました。そして、二度とベッドから起き上がることなく、死にました。
医者曰く、『若い頃に無理をしたツケが祟った』ということです。栄養失調に陥りながらの度重なる長旅、拷問を受けてなお歩き抜いた一件、鎮痛剤の過剰摂取、そして妊娠を押しての無理な旅。母の体は、とうに限界に達していたのです。
ベッドの上で急激に死に貪り食われていった母は、私に伝書使独自のサインを伝えました。そして、自分が最後に陛下から受け取った手紙に対する、ミレーユ様の返事を、必ずや陛下に届けるようにと語り――その言葉が、母の最後の言葉となりました」
そうか――それで、君は……
だが、だったら――
「陛下。これは、そんな簡単な話ではありません。
私はミレーユ様の養女として、ヴージェ貴族としての教育を受けました。
ですがレインライト共和国に赴くとなれば、この教育はことごとく、私の隙になります。
レインラント市民として違和感のない言動を身につけるまで、5年かかりました。その間、ミレーユ様はレインラント市民としての私の身元を、固めてくださいました。
それでも、それから3年、ミレーユ様は私の出立をお許しになりませんでした。当然です。15の小娘に、何ができましょうか。
ですが2年前、ミレーユ様は病に倒れられました。
かくして私は、ミレーユ様の遺言を携え、レインラントに向かったのです」
リュシール君。いや、リュシールと……呼ばせてもらえるか?
確かに、ミレーユが死んだのは、2年前だ。
ならばなぜお前は、すぐに私のところに、来てくれなかったのだ……?
(またしても、怒りが爆発しそうになる。
この男は、馬鹿か? 馬鹿なのか!?)
「陛下。考えてみてください。
どこの馬の骨とも知れぬ女が、『私は先帝陛下の庶子で、母は伝説の伝書使アーシェだ』と喚いたところで、誰が真に受けますか?
18歳の小娘が伝書使の印章を持ちだしたところで、『それをどこで拾った』と問いつめられ、奪い取られるだけだとは思いませんか?
あいにく、ミレーユ様は私の身元を固めきる前に亡くなられました。
私は、ただのレインラント市民でしかなかったのです。
最も名誉ある貴族である先帝陛下に、ただの平民が面会するには、入念な下準備が必要でした。それに2年もかかったことをお怒りであるのでしたら、己の非力を謝罪するほかありませんが」
だ、だが、ミレーユからの使いだとさえ言ってもらえれば……
「共和国の象徴たる〈最も名誉ある貴族〉である陛下のもとに、ついこの前まで戦争していた敵国の貴族の使者を名乗る人間が訪れたら、衛兵より先に公安警察がすっ飛んできます。彼らに逮捕された私の言葉がそのまま陛下に伝わることを願うのは、神の奇跡を願うのとそこまで変わらないでしょう」
――そうだな。すまなかった。
お前のことは伝書使アーシェと私の間に生まれた娘として、きちんと公表して……
(この言葉に、さすがに私の忍耐力にもヒビが入った。
思わず声を荒げてしまう)
「陛下! 何をおっしゃるのですか!
冷静になってください。今、この混迷を極めるレインラントの政情にあって、陛下は広く敬意を集められておられます。過激な政治思想の持ち主が、その心のままに暴走しないでいる、その大きな理由のひとつは、先帝陛下のお人柄ゆえです。そのご自覚が、ありませんか!?
その陛下が、よりによって、触れることすら穢らわしいとされてきた流浪民との間に庶子を成していたなどということが明らかになれば、陛下の威光にケチがつきます。最悪、内戦の引き金にすらなりかねません。
どうか、それだけはご容赦ください。
私は、そんな理由でレインラント共和国に内戦をもたらした女には、なりたくなりません」
そうか……そうかも――しれん。
いや、お前が言うからには、そうなのだろう。
ならばせめて、良い縁を紹介させてはくれぬか――?
「私はいま、エルシュペー伯と交際させて頂いております。
結婚するかどうかは、まだ分かりません。
伯爵はそのつもりのようですが、身分の差が大きすぎます。
ですが私のプライベートは、十分に、幸せです」
エルシュペー伯か。いささかお前には年上過ぎるようにも思うが――
だが、伯は良い男だ。私よりずっと、しっかりとした男だ。
いかなる立場であれ、お前を粗略にすることは、あるまい。
リュシール――おめでとう。心から、祝福しよう。
残念だが、私にできるのは、それしかないようだ。
「いいえ、まだ陛下にお願いしたいことはございます。
願わくば、今日のこの個人的な面会は、なかったことにして頂きたく。
伝書使アーシェの最後の任務は、今日この場で完遂されました。でもそれはどうか、陛下の御心の中にのみ、留めおきください。
さもなくば、おかしな勘ぐりをする人間が増えます」
……しかし、それではアーシェの名誉が――
「母は褒章や名誉のために、任務に出たのではありません。
母はただ、戦地を征きて還る、それを愛し、それに命を賭けました。
それゆえに、公式な発表などなくとも、母はきっと満足していると思います。
私にとっても母は不可知の人でしたが、それでもなお、母がいま心から満足していることと、次の任務に飛び出したがっていることだけは、分かります」
――わかった。
伝書使アーシェは、還らず。
記録は、そのように。良いな、伝書使ヴォルグ?
(ヴォルグは「アーシェなら仕方ない」と言わんばかりの顔で、頷く。
そしてこれで、伝書使リュシールの任務も、終わりだ。
伝書使を名乗るには何もかも足りない私だが、征きて還る、その半分は、なんとか果たした。
よろめきながら。惑いながら。
無数の協力者の助けを借りて、かろうじて。
ようやくここに、私は、辿り着いた)
しかし……本当に、これでいいのか、リュシール?
私がお前にしてやれることは、何もないのか?
(心の中に、「あなたに自己満足な罪滅ぼしなどしてもらいたくないし、そんな機会など絶対に与えるものか」という雄叫びが響く。
だが、それをそのまま口にしてしまうほど、私は子供ではない。
だから私は、レインラント共和国という魔界に蠢く怪物見習いの1匹として、取り引きを口にする)
「でしたら父上。ひとつだけ私的なお願いがあります。
これから3ヶ月ほど、この屋敷のどこかの部屋を1つ、お借りしたく。
私は母の死を証だてる本を、これから書かねばなりません。
ですがその本が発行されることを望まない勢力も、あります。
この屋敷であれば、不埒な侵入者が私の暗殺を試みることなど、あり得ません。
3ヶ月だけで構いません。お願いできないでしょうか?」




