ラウラ・クリムコヴァ
レインラント共和国大統領
(歴史を感じさせる大きな扉を前に、私は深くため息をつく。
今日は、アレンカもクラリッサも、同行していない。ほんの1ヶ月前はそれが当たり前だったというのに、今となっては彼女らを伴わずに人と会うということに若干の恐怖を感じている自分に、人間の業のようなものを感じる。
衛兵による呼び出しとボディチェックを数回くりかえしてたどり着いたこの扉の向こうに、今日の――そして予期せぬ――面会相手が待っている。内心は帰りたい気持ちで一杯だが、オチェナーシェク老が推薦する形での面会とあっては、そうもいかない。確かに、人と会って話をするのは、私の仕事ではあるのだが……。
足掻くように少しだけ逡巡してから、私は意を決して、ドアを開いた)
ようこそ、はじめまして。
あなたが巷で話題のリュシール・アルダン君だね?
本日はお呼びだてしてしまって、大変に申し訳ない!
けれどボクとしては、是非一度あなたと話をしておかなくてはと思ったのでね。
(扉の向こうは、壁一面に本棚がしつらえられた部屋だった。
ショーシュ少将の執務室も相当にアレだったが、この部屋はさらに筋金入りだ。窓は厚いカーテンで閉じられ、その前にまで本棚が並んでいる。それだけでなく、本棚の前には本棚に収まりきらなかったのであろう本が、乱雑に積み上げられている)
改めて、自己紹介しよう。
ボクがレインラント共和国の初代大統領を務める、ラウラ・クリムコヴァだ。よろしく。
まぁ、まずはそちらの椅子にでも。
お茶も用意させているから。無論、お酒がよければ、お酒でも。
ただ、この部屋は火気厳禁にしてるから、タバコはご遠慮頂こうかな。
(埃に弱い人なら、入っただけで咳とクシャミを連発しそうな部屋。
この部屋の、やけにフレンドリーな喋り方をする主人が、レインラント共和国の初代大統領だ。
彼女は、私の知覚外の人物だった。一国の大統領は、いくらなんでもハードルが高過ぎる。
もちろん私は、個人では極めて接触が困難な相手に取材してきたし、個人的なパートナーとして伯爵を得るにまで至ってはいる。
とはいえこれは、タネを明かせば、オチェナーシェク老による「投資」の効果が大きい。軍の高官に渡りをつけられたのは、オチェナーシェク老の紹介があればこそだ。そしてフィッツ伯のような超大物にコネができれば、そこから先は雪球を転がすのと同じ要領でしかない。
無論、もし私が最初から大統領を目標に雪球を転がしていれば、大統領ともっと早い段階で面会することも、あり得た。
だが私から見た大統領は、その労力を払う価値のない人物だ。
はっきり言えば、彼女はただの傀儡でしかないからだ。
大統領の最大のスポンサーはオチェナーシェク老だし、実行部隊はオンドルフ閣下に頼り切りだ。彼女に会ったところで、箔はつくかもしれないが、それ以上でも以下でもない。そして箔という面でいえば、私は必要十分にパワフルな箔を獲得した。
だからこの面会でも、私から何かを聞くことはない。そう、思っていた)
さてさて。わざわざボクの私邸に来てもらったのには、もちろん理由がある。
オチェナーシェク老から「リュシール嬢が次に書く本は、政権をひっくり返すだけの力がある。だが立場上、君は内容を検閲できんだろうから、一度どこかでリュシール嬢に会っておいたほうがいい」と言われてね。オンドルフ君にも似たようなことを言われていたから、これはどうも本物だなと思ったのさ。
(震源地は、あの2人か! いったい人をなんだと思っているのか)
公邸だと、話せる内容にどうしても限界がある。
でも私邸なら、聞いているのは伝書使くらいだ。
さて、君ならボクに、何を聞く?
(私はしばし、沈黙する。
大統領は射程外だったとはいえ、その人となりや業績、噂といったものまでノーチェックだったわけではない。それに、今日のご招待が大統領だと知った段階から、こういうこともあるだろうとは予測してきた。
ともあれ、まずは最も無難そうな質問から切り出すことにする)
「クリムコヴァ大統領は、市民の権利という概念について、この国では最も進んだ思想家でもいらっしゃいます。
ですが現状、人権――特に自然権という概念は、まだまだ普及しているとは言い難い状況にあるように思えます。これに対して、何か対策はお考えでしょうか?」
随分と穏当な質問だね。
もっとはっきり聞いたらどう? 「各種人権を自然権として設定しながら、言論を封殺したり、思想信条を理由に市民を拘束したりするのは、矛盾していないか」と?
(すうっと、部屋の温度が下がったような気がした。
なるほど。伊達に魑魅魍魎が跋扈する共和国政界の、大統領を務めているわけではないということか。一般に流布する「世間知らずの、元貴族の学者お嬢様」という評価は、カモフラージュだろうとは思っていたが、どうやら実態はそんなレベルではなさそうだ。
私は気を引き締める)
「私はそこに、大きな矛盾を感じてはおりません。
理想を掲げる人物と、現実を采配する人物は、分かれていたほうがいい。
それは国王と教皇が争った時代に遡って、自明であるように思えます」
ふむ。それも一つの考え方だね。
オンドルフ君は、実にナチュラルに憎まれ役を引き受けてくれるしね!
あれは彼の持つ、最大の才能じゃないかな。
(私は必死で苦笑を堪える)
ま、ボクの考え方も、根本的なところでは、あなたの考え方に近いのかもしれないね。
ボクは、レインラント革命を通じて、「自由」のお試し版を市民に体験してほしいと思っているのさ。
もちろん、「自由」ともなると、市場の試食品みたいなわけにはいかない。「自由」の価値を信じた人たちの血が、そうじゃない人たちの血と一緒に、大量に流れた。
でもそのおかげで、いまのレインラント市民は、税金さえ払えば「自由」を体験できる。まだ完全ではないけれど、今のレインラントには、間違いなく自由があるんだ。
(大統領の話を聞きながら、私は自分が恐ろしく危うい状況にあることを直感していた。
公式に言えば、レインラント共和国が達成した「市民の自由」は、完全な権利としての自由だ。
もちろん共和国市民はそれが公式見解でしかないことを暗黙のうちに理解しているし、私が話を聞いてきた人々にしても「そのお題目をどう利用するか」ということに集中するというタイプが多数派だ。要は、共和国の住人はみな、「市民の自由」がお試し版でしかないことを、熟知している。
だが、共和国の思想を支える支柱にして、その精神を体現する共和国大統領が、「共和国が達成した自由はお試し版でしかありませんし、最初からそれが目的でした」と言ってしまうとなれば、それはまた自ずから異なる物語だ。
誰が「市民の自由」を暗に否定しようとも、彼女だけはそれを否定してはならない。
そういう立場にいるのが、クリムコヴァ大統領のはずだ。
なのに彼女は、私の目の前で、共和国の理念を明確に否定してみせた。
私は素早く思考を巡らせ、自分に残された選択肢を模索する。
1つは、彼女の発言を聞かなかったことにして、さらに当たり障りのない方向へと会話を誘導するという選択肢。好みのお茶やお酒の銘柄に始まり、懇意にしている仕立屋や、注目している流行などなど、「一人の女性としての大統領」に迫るようなインタビューが取れれば、これはこれで大きな成果だ。何かとお堅いイメージが先行するクリムコヴァ大統領のイメージアップを果たし得る記事として、共和国政府にも好意的に受け取られる可能性が高い――相当ズタズタに検閲されるだろうが、それはそういうものだと割り切るしかない。
もう1つは、彼女の発言を踏まえ、更に先へと踏み込んでいくという選択肢。こちらを選べば、恐ろしく危険で、公にすることなど決してできない仕事になる。
そこまで考えて、私は内心で軽く苦笑する。選択肢など、あってなきがごとしだ。
そもそも「当り障りのない会話」をするのが目的なら、私をわざわざ私邸に招待する必要などない。大統領は私に、危険な話を聞かせたいのだ。
彼女の誘導に乗るのは微妙に不本意だが、とりあえずは一歩、踏み込むしかないだろう。私は腹をくくって、大統領の「危険な告白」に対し、「危険な問い」を返すことにする)
「ですが、市民は自由を求めてなどいないのでは?
無論、口では自由を求めますが、その自由という概念は、大統領のような方々が作り、彼らに与えた概念ではありませんか?
市民が――私も含めて――自由とは何かを本当に理解しているとは言えませんし、それゆえに、私達が自由を得たならば、いつかその自由から逃亡するのではないでしょうか?」
オチェナーシェク老は、そう考えているね。
実はそれにはボクも同感だ。
自由は、素晴らしいものだけれども、とてつもなく重いものでもある。
自由を手にした人の中には、自由から逃げ出す人も出るだろうね。
でもね、勘違いしちゃいけない。
「自由から逃げ出す人が出る」ことと「全員が自由から逃げ出す」のは、話が別だ。
現に君は、共和国が提示した自由を最大限に活用しているし、そこから逃げ出すどころか、むしろ自由の持つ限界に挑もうとしているようにすら見える。
「――分布の問題、ということですか?」
それは違う。
人は自由から逃走する権利を有する。なぜならそれは、人が自由だからだ。
実際、可能だと思うよ? 自由から逃げることを絶対に許さない社会を作る、というのは。
でもそれは、自由な社会とは言えない。
むしろ、最悪のディストピアのひとつだろうね。
(重すぎるほどに重い驚愕が、私の心臓にズシリと突き刺さった。
この発言は、「自由のために不退転の決意で戦う」共和国大統領として、あってはならない発言だ。
しかもこれは、「自由のお試し版」などといった半ば冗談めかした言い回しとは、レベルが違う。
だが、もしこれが大統領の本音だとすれば。
だとしたら、それはつまり――)
けれど一度も自由を手にしたことがなければ、自由から逃走するという発想すら生まれない。
これはね、新大陸の発見のようなものだよ。
新大陸が発見されるまで、大西洋の果ては滝になっていて、すべての船を飲み込んでいくと、教会も教えていた。
そしてそう信じている限り、現実もまたその確信に左右された。
でも新大陸が発見されたが最後、もはや新大陸をなかったことにはできない。
新大陸に行かないという選択は可能でも、新大陸など存在しないと言い張り続けることは、不可能だ。
自由も、それと同じだよ。
自由などいらない、という選択は可能だ。けれど自然権として自由権が認められたいま、「そんなことは実現不可能だ」ということは、誰にもできない。
(目の前に広がりつつあるねっとりとした暗闇を前に、私は思わず立ちすくんでいた。
いや、立ちすくもうとした。
それでも騎兵は、走り続けねばならない。
そしてそれは、伝書使も同じだ。
だから私は、核心へと一歩踏み込む)
「質問を、させてください。
大統領は、共和国と自然権を天秤にかけたら、どちらを取りますか?」
自然権を取るよ。
国家なんてものは、放っておいても勝手に生まれて、勝手に滅びる。
万人の万人に対する闘争を説いた政治学者もいるけれど、あれはフィクションだよ。自然界を観察すれば、自明だ。秩序なき世界にある生物は、群れを成すことで生存の確率を高めようとする。人間だって、同じ選択をしてきた。
もちろん、住みやすい群れもあれば、住みにくい群れもあり得る。住みやすいからといってその群れが繁栄するとは限らないし、住みにくい群れが帝国にまで至ることもある。
でもそういう、今の人間が生存している空間をどうコーディネートするか、あるいは、すべきかという論点には、興味はないね。そもそもそれは、ボクの手には余る。
ボクにとって大事なのは、人間が生存する理論上の範囲を広げることだ。
そのためなら、なんだってする。
(今や、「核心」は眼前にある。
それは、踏み込んではいけない泥沼だった。
腐臭と瘴気を撒き散らす、怪物の棲家だった。
けれども、その闇に飛び込まねば、私は私であり続けられない。
闇に飛び込み、帰還する。それが伝書使だから。
私は意を決して、最後の問いを発する)
「では、もう1つ聞かせてください。
先ほど仰られた『自由から逃げることを許さない社会』という概念と、その陰惨さは、革命政府が成立したときの副大統領である、ベネシュ公が提示した説ではありませんか?
ですがその説は、自由の価値を貶め市民を怠惰へと導く反革命思想として糾弾され、ベネシュ公は自説を撤回しなかった罪で、処刑されています。
大統領はこれについて、どうお考えですか?」
ベネシュ卿はねえ、優れた学者だったよ。ボクの恩師でもあるしね。
ただいかんせん、優秀すぎた。
確かにボクは、お飾りの大統領だと思われているし、実際のところ、ボクの権力が及ぶ範囲はとても狭い。
まあ、一時的に政界に対するフックを失っているオチェナーシェク老とは、上手くやっている。あるいは、皇帝に代わる最大権力者としての大統領という肩書を使ってあれこれやり遂げたいオンドルフ君とも、関係は良好だ。
けれどそれは、取りも直さず、ボクは彼らの言いなりだってことだ。
そんなことは、わかっていたよ。こうなるだろうってことは。
ボクはこの革命戦争において、「自分の最も強い部分でしか戦わない」という方針で戦ってきた。
政治実務でも、軍事でも、外交でも――当然だけど政治工作においても、ボクより上手はいくらでもいる。
けれど思想の世界においては、ボクがこの革命を完全に支配してる。
そのポジションを脅かしうる人物には、退場して頂くしかなかったんだ。
(私は、改めて確信する。
彼女もまた、怪物の類だ。
己が怪物であることを受け入れた、最悪の怪物だ。
そうやって、どこかしら怪物になり得た者だけが、あの戦争を生き残り、その後の政争を戦い抜くことができた。
だから、己が怪物であることを拒む人々は深く傷つき。
己が怪物であることを認めた人々は、怪物になった。
そのことを見せつけ、伝えさせるために、彼女は伝書使を招いたのだ。
でも、だとしたら。
だとしたら、あの革命は。
だとしたら、あの戦争は。
そこで生き、そこで死んだ人たちは。
フィッツ伯の苦悩は。
オーケソン少尉の忍耐は。
バルマー中将の恐怖は。
ミコラーシュ大将の調停は。
ヴラナー中将の惑いは。
ショーシュ少将の計算は。
エルシュペー伯の決意は。
クラマー少将の嫉妬は。
ザートペク軍曹の涙は。
マーショヴァー女史の諦念は。
ヴォイグの忠誠は。
そしてアーシェの旅は。
いったい何だったのだろう?)
「――本日伺ったお話は、これから執筆する本とは、いささか焦点がズレています。
有意義なお話をたくさん伺っておきながら恐縮ですが、本日のお話を活かす実力が私に伴っていないことを、深くお詫びします」
それならそれで、構わないよ。
オンドルフ君から、君が歴史学的手法を取ると聞いて、安心したんだ。
政治学の世界に入ってくるのだったら、また前途有望な若者を一人、消さねばならないところだったからね。
(この頃になって、ようやくお茶が到着した。
毒味に毒味を重ねたであろうお茶はすっかり冷め切っていて、何の味もしなかった。
クリムコヴァ大統領は、そんな無味無臭の液体を美味しそうに飲みながら、共和国の未来について語り続けていた)




