閑話:ヴージェ出立まで
(警察本部での決戦が終わって、なぜか私も黒騎兵隊の隊舎に連れ込まれ、祝勝の乾杯をしたところで、意識が飛んだ。なんのかんので、やはり緊張していたらしい。
そのまま伯爵の館に運び込まれた私は、高熱を出して寝込んだ。医者いわく原因は過労ということで、静養すればすぐに治るという見立て。で、静養しているうちに、伯爵との間で起こるべきことが起こったのは、仕方ないことだと思う。体が弱っているときは、心も弱るものだ。
そんなこんなで、いつのまにか館には女中が新たに雇われ――5年ほど前、伯爵が長年連れ添った奥方が病気で亡くなられてからこのかた、この館に女官はいなかったそうだ――私は彼女に世話されながら、伯爵の館を拠点として仕事をするようになった。
かくして名実ともに伯爵の愛人となった私だが、伯爵の方はと言えば放置プレイ気味で、私としてはどうも居心地が悪い。試しにメイドのクラリッサに相談してみたら、要約すると「女子力が低すぎて論外。仕事に夢中でお館様の帰宅を出迎えないとか超あり得ない。夕食の席にパンツルックのまま出向くのも話にならなさすぎて泣く」という言葉を丁寧語で拝領した。
なるほどと感じ入った私はクラリッサの指導のもと、清楚系のワンピースを着て伯爵の帰宅をお出迎えしたのだが)
お前、世界一スカートが似合わない女だな。
(……左様ですか)
腹が減った。晩飯にしよう。
それとも、寸暇を惜しんで働くか?
「本当は今日中に片付けたかった案件があります。
ですが、ちょっと時間がうまく合わなかったので、本日のところはジャーナリストとしての営業時間は終了、という感じですね」
(ブーツの泥を手早く落とした伯爵は、ごく自然に私の肩に手を置いた)
ならば良い。
続きは食事をしながらだ。
(伯爵のエスコートでダイニングに向かう。
この館に来てまだ数日なのに、まるで自分の家のような気がしてくるのが、とても不思議だ。
ダイニングには、肉と野菜を中心にした食事が、既に用意されていた。
伯爵家の食事としては質素と言わざるを得ないが、エルシュペー伯ならさもありなん、というところだ。
私たちは向い合って席につくと、暖かな夕食を食べ始めた)
……それで、お前が言っていた「時間がうまく合わなかった相手」ってのは、誰だ? そいつに何の用がある?
言えないなら言わなくてもいいが、言えるなら教えろ。
お前に任せておくと、またオンドルフとミコラーシュが胃を痛くしかねん。
(肉をあらかた片付けた伯爵は、ナプキンで口元を拭うと、赤ワインのグラスを片手にそう聞いてきた。
私はナイフとフォークを置き、少し考えてから、口を開く)
「リンタートのベアリット司教が、いま首都に来ていらっしゃいます。
滞在予定は、今週一杯。
ヴージェに行く前に、彼から一筆頂く必要があります」
あの好々爺と、知り合いなのか?
「ちょっとしたツテがありまして」
やはり、聞いておいて良かった。
お前、今度は宗教改革でもやらかすつもりか?
「……閣下は私を何だと思ってらっしゃいます?」
違うのか?
何が目的だ?
「ベアリット司教は、ヴージェに亡命したセヴェール大司教と同期です。
ヴージェでセヴェール大司教に面会して、便宜をはかって頂けるよう、一筆を頂かねば」
本命はセヴェールか!
宗教改革のほうがまだマシだな。
あの腐れ坊主に、何をさせたいんだ?
(少しだけ、ためらう。
この会話を誰にも聞かれていない保証など、どこにもない)
それは言えない、か。賢い判断だな。
この館は並の密偵には入れんようになっているが、手練の伝書使が相手となると、保証の限りではない。
そもそもこの館の防諜を任せているのが、元伝書使だしな。
(そう。そこが現在の伝書使の、真に恐るべきところだ。
彼らは諜報と防諜、そして謀略のプロフェッショナルとして、共和国の中枢でしのぎを削るプレイヤーたちに雇われている。
それゆえに、彼らが伝書使というつながりで横に連絡を取るようになった場合、現状の共和国の内情を最も把握しているのは伝書使だ、ということになる)
話は分かった。セヴェールには俺から手紙を出す。
俺の女がそっちに行くから、最高の待遇で迎えろと書いておく。
お前の要望の内容次第では、ベアリット司教の一筆があっても、セヴェールの豚野郎は首を横に振る可能性がある。ベアリット爺さんは、人が良すぎるからな。セヴェールは爺さんに山ほど借りがあるはずだが、自分の命と天秤にかけたら、爺さんにさらに借りを作ることを選ぶはずだ。
俺の要請なら、セヴェールは何があろうとお前の要望を叶えるだろう。それに、これならベアリット爺さんをこの件に巻き込まずに済む。
それでいいな?
「感謝します」
(……これが、権力か。
なるほど、世のプレイヤーたちが権力の奪い合いに汲々とするのも、分かる。
そして後宮の女たちが皇帝の寵愛を巡って陰惨な戦いを繰り広げてきたというのも、分かる。ちょっと「おねだり」しただけで、自分で動いたら数ヶ月はかかるような成果以上のものが、何の労力もなく手に入るのだから。
これは、危険だ。麻薬のような危険さが、ある)
また、難しいことを考えている顔だな。
俺からすると、不吉な顔だ。
お前は簡単にできることを、わざと複雑なルートから達成しようとして、関わった人間に甚大な被害を発生させるタイプだからな。
その自覚があるか?
(反射的に言い返そうとして、ぐぐっと声がつまる)
「そ、それは、その……で、ですが!
持たざるものが持てるものと戦うには、正面から行ったら勝負にならないですから――」
お前は馬鹿か? それは持てる者とやらが、迂回も陽動も機動防御もしないという前提での話ではないか。
そんな愚図は、持てる者とは言わん。ただのデブだ。
無様に肥え太った雑魚を背後から撃つのは楽しいか?
(こ、ここまで酷評されねばならないのだろうか……
とはいえあまりに正論ど真ん中すぎて、どうにもならない。
悔しさのあまり少し泣きそうになったのが、また悔しさを煽る)
権力に溺れる奴は、ただの馬鹿だ。
だがそれを恐れるあまり、手にした権力を使わないというなら、それもまた同じくらい愚かな選択だ。
恐れるなら、権力を実際に行使した結果を恐れろ。
真に恐れるべきものを見誤れば、勝てる勝負にも勝てなくなる。
(私は神妙な顔で、伯爵の話を聞くことしかできない)
新兵への訓示は、以上だ。
心配するな。お前の選択は、大筋では間違っていない。
根拠は、俺の直感以外に何もないがな。
ただあえて理論的に言えば、お前の選択が何か一つでも本当に間違っていたなら、お前はとうの昔に死体だ。
お前は、生きている。それが、お前の正しさの、証明だ。
「……はい」
(褒められているのか褒められていないのか、判断しにくい褒められ方だが、それでもぐっとテンションが上がるのを感じる。
簡単にいえば、すごく、嬉しい。
この希代の英雄に――そして、成り行きとはいえ自分のすべてを預けた男に――認めてもらうことは、言葉に出来ない喜びがある)
座学の時間はここまでにしよう。
せっかくの料理が冷える。
その肉、食わないなら俺によこせ。
(四分の一くらいで諦めた肉の皿を、伯爵の手元に押しやる。
私は決して小食なほうではないが、これはさすがに手に余る量だ。
エルシュペー伯は、安定したペースで私のお残しを食べ続けた。
見ていて、惚れ惚れとする食べっぷりだ。
それから30分ほどで、夕食の時間は終わった。
コーヒーを飲みながら、まったりとした時間を堪能する)
……それで、ヴージェ行きの準備はできたのか?
まさか一人で行くつもりじゃないだろうな?
「え、ええと、一人で行くつもり……でしたが?」
馬鹿者。未来の伯爵夫人が女の一人旅など、あり得るか。
クラリッサを連れて行け。護衛も用意する。少なくともオンドルフは露骨なくらいに監視を貼り付けるだろうから、味方は一人でも多いほうがいい。
ああ、そうだ。週末には息子夫妻がこの館に来る予定だ。ヴージェに行く前に、挨拶くらいはしておけ。
「伯爵の息子さんって、確か……」
お前より年上だ。連中の長女が、確か、12歳だったはずだ。
仲良くしてやってくれ、“お祖母ちゃん”。
「愛人1号のままのほうがいい気がしてきました」
好きにしろ。どういう肩書にも、メリットとデメリットはつきまとう。
俺は、お前を手元においておければ、それでいい。
「手元に置いたコマでありさえすれば、ご満足ですか?」
……ほんのちょっと前まで乙女だったくせに、なかなか言うじゃないか。
いいだろう。それだけでは満足できないことを、教えてやろう。
(私は伯爵に促されて、席を立つ。
ニヤニヤ笑いのクラリッサを軽く睨みつけてからダイニングを出た私は、この後、朝までたっぷり伯爵のベッドルームで過ごすことになる)




