イェルハルド・オーケソン(通称:不死の死神)
ファールン王国陸軍少尉(第8狙撃師団第11連隊所属)
やあ、こんにちは。君の国から、僕に話を聞きにくるとは、実に珍しいね。
大丈夫だ。何を聞きたいかは、事前に把握してる。君に出してもらった書類、あれは実にわかりやすかった。うちの参謀本部の連中にも見習わせたいね。
そうそう、記録してもらっては困ることを僕が喋ったときは、隣にいるこの恐い人が指示するから、それに従ってください。恐そうに見えるけど、本当は気のいい奴だから、あんまり緊張しないでね?
あ、ただし賄賂は絶対にダメだ。ビタ1文でも出そうものなら、ここから生きて帰れないと思ったほうがいい。そのあたりの常識は、君の国と僕らの国では、決定的に違うからね。
(冗談めいた口調だったが、彼の目には明確な殺意があった)
前置きとしては、こんなものかな。
さて、「ヘデガルド村の幽霊」の件だったね。
厳密に言えば、あれはヘデガルド村とベルヴィー村をつなぐ、ちっぽけな街道沿いで起きたことだった。
いやまったく、それこそ村の中で起こってくれていたなら、もっと楽だったんだけどね。現実は厳しいものさ。周囲数キロに渡って、見渡す限りの大雪原と、申し訳程度の丘に林だ。
風を遮るものが何もなかったから、寒いとか寒くないとか、そんなレベルじゃなかった。それに遮蔽がないってことは、狙われたら隠れようもないってことだ。身も心も震える状況ってやつだったよ。
先に発見したのは、僕だったと思う。
定時パトロールに出ていた僕は、あの寂しい雪原のただ中を、帝国軍――あの頃はもう共和国市民軍、だったかな? まあいいや、そのなんちゃら軍伝書使の制服を着た誰かが歩いているのを見つけた。
まぁ、特に深く考えることはなかったね。風は少しあったけれど、狙撃の条件としては申し分ない。あの伝書使が、任務に向かう途中だろうが、帰途だろうが、さっさと殺して、持っているであろう文書を奪う。これでこそ、パトロールに出たかいがあるってものだ。
でも、あの伝書使は、只者じゃなかった。
これは確実に殺した、と思った瞬間のことだったよ。
引き金を引く、そのほんのすこし前に、標的が姿を消したんだ。
しまった、と思った時には、もう引き金を引いていた。銃声が響き渡って、僕は自分の迂闊さを呪うハメに陥った。
いやね、あれはもう、完全に油断だった。そうとしか、言いようがない。
伝書使が、ライフルを背負ってたのは、確認していたんだ。ライフルは帝国軍標準のものだったから、よほど小柄だったんだね。ほとんど身長と変わらないくらいの、大きなライフルに見えた。
彼女が――彼女でいいんだよね? 彼女が狙撃手としてどれくらい有能なのか、僕には知るすべがない。けれど彼女は、ギリギリのところで僕の殺気を掴んで、射線上から姿を消した。そのレベルの手練だってことだ。
寒くて仕方ないのに、背筋に冷や汗が流れ始めたのを、覚えてるよ。
あっちは、僕の位置を把握したと思って間違いない。周囲に信頼できる遮蔽はないし、僕らはヘデガルド村に進駐してまだ7日だった。パトロールには出ていたけれど、地形を知っているとは言いがたい。なのに相手は伝書使で、ということは、周囲の地形は完璧に把握してる。
僕の唯一の利点は、帝国軍制式ライフルが単発式で、一発外してくれさえすれば、確実に勝てるってことくらいだ。
そこまで考えて、思い直した。
いやいや、相手はたかが伝書使じゃないか。
殺気は読めたとしても、狙撃の腕まで確かとは限らない。
それに、当時から僕は、狙撃には自信があった。狙撃教官から「お前は的当てだけは上手いな」と皮肉られるくらいには、命中率が良かった。今だって、僕なら確実な距離だけれど、そこらの狙撃手が命中を期待できる距離じゃあない。
だから、ここは強気に出ても大丈夫なはずだ。
(彼は怒涛のように続く言葉を、ふと止めた。テーブルの上に置かれた真鍮製のマグカップを手に取り、湯気を上げるお茶を少し飲むと、イタズラっぽい笑顔を浮かべる)
悪いね、つい早口になった。記録は追いつけてる?
あーそうそう、僕はなにか、言っちゃいけないこと、言った? 大丈夫? オッケー。よし。じゃあ、続けよう。
それからすぐに、僕は考えを改めた。
なにしろ、僕にはもう、彼女の気配が読めない。まるで幽霊みたいだったよ。むしろ僕は、戦場ではよくある、ちょっとした見間違えをしたんじゃないか、と思った。
どんなに慣れたつもりでも、意外とあるんだよ。極限状態では、枯れ木が一個小隊に見えることも、そんなに珍しくはない。挙句、枯れ木に大砲を打ち込んで、「敵一個小隊を撃滅しました」と報告することもね。
戦場ってのは、そういう場所だ。
そして本当に、その枯れ木の中に一個小隊が潜んでましたってことも、ある。
それからまた、別のことを考えた。
あれが見間違えのはずがない。彼女は完全に気配を消した。そしてもうすぐ、日が暮れる。そうなったら、狙撃ではなく、近接戦を挑まれる可能性も出てくる。なにしろ地の利はあっちにあるんだ。
だとしたら逆に、今はひたすら耐えて、日が暮れた段階で撤退し始めればいい。いくら地の利があると言っても、真っ暗闇の中で二人がばったり出会うなんて確率は、ほとんどない。幸い、雲はどこまでも分厚かったから、月明かりや星明かりを気にしなくてはならない可能性も低いだろう。
それで、また、違うことを考えた。
僕は何を弱気になっているんだ。そもそも、伝書使を見つけたけれど、狙撃に失敗した挙句、反撃が恐かったので逃げてきましただなんて、報告できるものか。伝書使なんて半分民間人みたいなものなんだから、逃げるだなんてあり得ない。
むしろ明るいうちに、相手を燻り出すことを考えるべきだ。幸い、こっちのライフルは2連射できる。1発撃って、反撃を誘って、そこを捉える。僕はこの方法で、たくさんの帝国狙撃兵を倒していた。
それから、また――あはは、もう、いいよね。
つまり僕は、混乱していた。怯えきっていた、と言ってもいいかな。自分が何をすべきなのか、さっぱり判断できなかったんだ。
あれは、とても不思議な体験だった。
普通、判断ができなくなるときって、まさに「何をしていいか分からない」でしょう? えーっと、つまり、「何をするべきか」っていう、その選択肢自体が思いつかないじゃない?
あの時は、まったく逆だったんだ。次から次に、「こうすべきだ」っていうアイデアが溢れかえって、そのどれもが、とても合理的で、魅力的だった。
それでいて、ひとつだけ確信はあったんだ。
この選択を誤ったら、僕は死ぬ、ってね。
結局、僕はその場でにわか仕立ての壕を掘って、とりあえず夜の寒さで死なないことと、明るいうちの狙撃を避けることを優先した。風がしのげるだけでも、全然違うからね。
そしてそれから朝になって、味方が僕を捜索に来るまで、僕は幽霊みたいな相手と対峙し続けた。
このあたりから先の話は、詳しく説明する必要はないよね? 実に恥ずかしいけど、僕の「最大にして唯一の失敗」として、えらく有名な話になってるから。
夜が明けて、小隊の戦友たちが僕を探しに来たことに気がついたとき、僕は真っ青になった。狙撃手が待ち伏せている雪原を、のこのこ歩いて渡ってくるだなんて! 思わず僕は、「狙撃手がいる、伏せろ!」と叫んでいたよ。
で、狙撃手なんていないってことが判明するまで、それからたっぷり6時間かかった。
安全が確認された後で、僕は改めて、彼女を最初に狙撃した地点――僕のカンでは、そこにいるはずだと思っていた場所――に、行ってみた。
そこには、ライフルだけが残っていた。彼女は武器すら捨てて、その場から逃げることに全力を注いだのだろう。
パトロールに出た兵士が、俗にいう「オオカミ少年」騒ぎを起こしたからには、これは譴責どころじゃ済まないかもなと思ったけれど、小隊長もその上も、僕の判断を支持してくれたのは、ありがたかったね。
もちろん、伝書使をみすみす逃したことについては、叱責を受けたけど。
(彼は大げさに嘆息すると、天を仰いだ)
ちょっと話は変わるけど、ファールンの死神ヴァルテル、「長き腕」のヴァルテルのことは、当然、君も知ってるよね? あの戦争で、ダントツのスコアを叩きだしていた、天才狙撃手だ。
僕も、彼にはとても憧れていた。いや、崇拝してた。同じ狙撃手として、嫉妬とか、そんな感情を抱く余地なんて、まるでなかったよ。それくらい、差があったんだ。
でも、ファールン王国陸軍における現状での最多狙撃記録は、恥ずかしながら、僕が持ってる。
もし、ヴァルテルが革命戦争の途中で死ななかったら、僕がトップを取ることは、あり得なかっただろう。
彼は、死んだ。そして、僕は死ななかった。
(彼は優しく微笑んだが、その笑みにはどこか、寂しさが漂っていた)
「ヘデガルド村の幽霊」の一件は、僕にとっては、とても大きな経験になった。
自分は、自分がそう思うほど――というか、自分がそう願うほど、果断な人間じゃないってことを、思い知ったんだ。
そりゃあ、「長き腕」のヴァルテルや、「幽霊」の彼女みたいに、自分の任務を果たすにあたって何をするのがベストなのか、瞬時に判断できるようになれれば、それに越したことはない。
でも僕には、そんなことはできない。それを心底、思い知らされた。
だから僕は、自分がテンパってきたと感じたら、生き残ることに専念するようにした。
おかげで、何度も窮地を脱したよ。
ただまあ――皮肉なものだよね。
あの伝書使は、帝国でも指折りの凄腕だったそうじゃないか。革命戦争を通じて、一番ホットな地域に、情報を伝え続けた、ってね。彼女がレインラント軍にもたらした軍事的アドバンテージは、そりゃあもう、凄まじいものだろう。
でも僕は、たまたま、彼女の片鱗を知ることができた。そのことが、「的に当てるのだけは上手い」と言われていた僕を、ファールン王国のトップスナイパーに仕立てあげた。
つまり、レインラント軍からご大層な金額の賞金を懸けられるに至った「不死の死神」を作り上げたのは、彼女だったんだよ。
ねえ、どう思う? 僕がレインラント軍に与えた被害と、彼女がレインラント軍にもたらした利益、いったいどっちが大きかったんだろうね?




