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フィッツ伯クレーメンス

元レインラント帝国陸軍大将、現レインラント共和国市民軍最高顧問

 さて、何から話したものかね――ふむ。

(彼は小さなグラスにブランデーを注いだ)

 これくらいは容赦して頂きたい。平民のような……失礼、今では「市民」か。市民たちのような言い草だが、「飲まずに話せるものか」というのが、率直なところなのでね。「貴族と言えど、同じ人間には違いない」、か。まさに!


 今でも忘れん。忘れるものか。

 あれは1823年、6月12日の、深夜のことだ。乏しい兵糧を兵と分かち合って、ささやかながらも最後の晩餐を終えたところだった。

 我々が守っていたのは、ウルム要塞だった。帝国の南北をつなぐ、唯一の幹線道路に面したこの要塞が陥落すれば、反乱軍――いや、革命軍は、帝国南部の支配をほぼ確定させてしまう。

 あの要塞は、帝国が帝国であるための、生命線だった。だからこそ私と、帝国陸軍の最精鋭たる第1親衛騎兵隊が送り込まれたのだ。


 我々は、必死で戦った。

 革命軍を侮る気持ちは、最初の3日で消え失せた。

 個々の練度はどうにもならないが、士気が極めて高い。

 それになにより、軍として必要最低限のまとまりを保っている。

 緒戦は我々が勝利を重ねたが、撤退のラッパにあわせて全速で後退していく革命軍を見た我々は、無様な逃げっぷりを笑うより、ラッパにあわせて後退できるという事実に、慄きを隠せなかったものだ。

 戦場という修羅場において、合図にあわせて集団として動くということは、想像するよりずっと難しい。たとえそれが、どんなに簡単な命令であったとしても、だ。


 嫌な予感は的中した。

 我々は勝ち続けたが、革命軍に決定的な一撃を与えることはできずにいた。深追いが危険なのは、目に見えていたからな。

 だがボラス伯は――ウルム要塞の太守だった男だ――私とは違う見解を示した(彼はブランデーを一気にあおると、次の一杯を注いだ)。


 ボラス伯は、こう言ったよ。

(声色を変えて)「あの臭い貧民どもを、とっとと皆殺しにせよ!」


 我々は挑発的な攻撃を仕掛けてくる革命軍を野戦で撃退し続けたが、その「勝利」はボラス伯の嫉妬と恐怖を焦げ付かせた。このままでは、私に手柄をすべて奪われてしまう、とな。

 結局、ボラス伯は私の制止を無視して、手勢を率いて出撃し、無理な追撃を繰り返した挙句、逆に包囲され、革命軍の捕虜となった。彼の手勢は散り散りになって、その多くは革命軍に鞍替えする有り様だ。


 ここに至って、ウルム要塞の戦いは、事実上、終わった。

 ボラス伯はどうでもいいが、彼の手勢を失った以上、我々は要塞に釘付けだ。帝国最強を誰もが認める我が精鋭騎兵隊が、要塞を守らねばならない。こんな戦争に、勝てるはずがない。

(彼は再びグラスをあおり、次の一杯を注ごうとしたが、そこで手を止めた)


 ……医者に、酒を減らせと言われているのを、思い出したよ。

 今更、健康に気を遣ったところで無意味極まりないが、つい先月、孫が生まれてな。

 あの子に、栄光ある第1親衛騎兵隊の、在りし日の姿を教えるまでは、生きねばなるまい。


 知っているかね? 戦争は、強い軍隊が勝つのではないのだ。

 戦争に勝つのは、より「ダメではない」軍隊なのだよ。

 我々だけがどんなに強くても、戦争には勝てない。

 革命軍は、総じて言えば弱かったが、我々よりも弱点が少なかった。

 その結果が、ウルム要塞の屈辱だ。


 要塞が包囲されて、最初の1ヶ月は何の問題もなく持久できた。

 だが外部との連絡は完全に遮断されていたし、備蓄が尽きるのは時間の問題だった。

 唯一の希望は、革命軍が要塞を包囲したまま、動かなかったことだ。

 要塞を包囲する革命軍の規模から見て、彼らの兵站負荷も相当高いはずだと判断できた。このまま包囲が続けば、我々が飢えに苦しむ以上に、彼らもまた飢えに苦しむはずだ。

 だが、革命軍から降伏を勧める最初の使者が来て、彼らと会見したときに、その希望は打ち砕かれた。使者は胸を張って言ったよ。「ご存知かと思うが、我々は飢えに慣れている」、とね。


 続く1ヶ月は、避けがたい破滅と向き合う毎日だった。

 何度も何度も、要塞を放棄して、騎兵隊の衝撃力を活かして包囲を突破、部隊を温存することを考えたさ。

 だが、要塞を失えば、帝国は終わりだ。

 それに、そのことは帝国中枢も分かっていた。だから、じきに援軍が来る。来ないはずがない。


 だが援軍は来ないまま、1日、また1日と、無為な日々が過ぎた。

 援軍が来なかったのは、なぜか、だと?

 フム。大変に残念だが、その質問には答えられない。その情報は、共和国市民軍においても、第一級機密なのでね。

 言えるとしたら、繰り返しになるが、これだけだ。

 戦争に勝つのは、より「ダメではない」軍隊なのだよ。


 最後の1ヶ月は、飢えとの戦いだった。騎兵隊は、軍馬も養わねばならん。馬を失えば、乾坤一擲の勝負をすることすら叶わなくなる。

(彼は空っぽのグラスを、軽く握りしめた)


 彼女が来たのは、私が最後の決断をした、まさにその夜のことだった。


「帝都からの使者が、面会を求めています」と部下が報告しに来た時は、何の冗談かと思ったね。状況のあまりの悪さに、部下が錯乱したのかもしれないとまで思った。

 ウルム要塞は、知っての通り、難攻不落の大要塞だ。城壁は高く、見張りの監視も行き届いている。とてもではないが、侵入など不可能だ。

 だのに彼女は、要塞に入り込んでいた。


 彼女がどうやって要塞に侵入したのか、いまだに想像すらつかんよ。

 革命軍の重囲をすり抜け、要塞の防御設備をすべて乗り越え、私の元まで来る。それだけではない。当時であれば、帝都からウルム要塞までの道のりも、到底、安全とは言いがたい道程だ。野犬の群れ、野盗、傭兵くずれ、ついでに帝国軍正規兵まで、一人歩きの若い女性が遭遇したら最悪の死しかあり得ないような危険が、あちこちを徘徊していた。

 それを、少女にしか見えない――実際、それくらいの年齢だったらしいが――彼女が、踏破したのだ。


 (彼はブランデーのボトルを手に取ると、グラスを満たした)

 ――彼女のことを思い出すと、やはり、飲まずにはいられんな。


 彼女に対して私は、軍人として、畏敬の念すら抱いている。

 それに、彼女が持ってきた手紙にしても、その内容に、彼女は何の責任も負っていない。

 彼女はまさに、ただの伝書使(クーリエ)でしかないのだから。


 だがそれでも、彼女のことを思い出すと、反射的に怒りがこみ上げるのだ。


 彼女が運んできた密書には、「一週間後に援軍が到着するから、それまで持ちこたえろ」という、ビューラー陛下からの命令が書かれていた。サインも印章も、まごうことなき本物だ。


 そのときは、彼女がまるで、天使のように見えた。

 戦場に勝利をもたらす伝説の戦乙女かと、思ったものだ。

 彼女の額に、流浪民――今では二等市民と言うのかね? の刺青がなければ、抱きしめていたかもしれん。

 実際、思わず手を握るところまでは行ったからな。


 ああ――手を握ったとき、一瞬、ぎょっとしたのを、思い出した。


 彼女の手も、指も、腕も、ひどい傷跡だらけだった。

 顔にも何条か、目立つ傷跡が残っていた。左目に眼帯をしていたのは、視力を失っていたのか、それとも眼球を損なっていたのか、その手の事情だろう。

 小柄な体格だったが、あれは小柄というより、やせ衰えていたようにも見えた。

 あの歳で、いったいどれだけの修羅場をくぐってきたのか! そんなことを、思った。


 だが、本当に驚かされたのは、そこからだ。

 私が陛下からの密書を読んだ直後、彼女はこう言い放った。

「受け取りのサインをください。頂き次第、帝都に戻ります」


 正気の沙汰ではない。

 要塞を出るところまでは、こちらも手伝える。だがその後、再び革命軍の重囲を抜け、帝都までの危険な道を歩いて戻ろうというのだ。要塞での、ほんの小休止すら、取ろうとせずに。


 気がついたら、受け取りのサインをして、彼女を見送っていたよ。

 あっけにとられたというか――完全に……そうだな――完全に、飲まれていた。

 認めたくはないが、私は彼女の――いや彼女という存在に――飲まれていたのだ。


 ああ。彼女は無事、帝都に帰り着いたらしいな。

 彼女なら、やるだろう。

 まったくの死地にあって、僅かな気負いすら見せることなく、散歩にでも行くかのように夜暗に消えていったあの少女なら、絶対にやりとげる。

(彼はグラスの中に入ったブランデーを、燃えるような目で見つめていた)


 私はそれまで、自らの真の棲家は戦場にあると確信していた。

 そして、地位に甘んじて怠惰に生きる凡百の貴族どもと違い、戦士として生きてきたという、自負もあった。

 第1親衛騎兵隊の最高指揮官として、どんな戦場にも臆することはないし、むしろ最悪の戦場こそが己の生きる場だと、そう信じてきたのだ。


 そのちっぽけなプライドを、彼女は木っ端微塵に打ち砕いて、去っていった。

 彼女こそ、「最悪の戦場を己の棲家とする者」の、真の姿だったよ。

(彼はブランデーを一気に飲み干した)


 後はもう、誰もが知る通りだ。

 我々はくじ引きをして、負けた者は愛馬を食料として差し出すことで、食いつないだ。そうする価値が、あるはずだった。


 一週間が過ぎたが、援軍は来なかった。


 8日目の朝、我々は革命軍に対し、降伏した。

 あと1日、もう1日と耐える気力は、我々に残っていなかった。

 強烈な希望を示されたからこそ、その希望が否定されたとき、我々の心は完全に折れてしまったのだ。


 革命戦争前期において、あの一週間がいかなる意味を持っていたのか、今ではよく理解している。

 だが理解することと、納得することは、別の話だ。

 納得など、できない。できるものか。


 何より忌々しいのは、ウルム要塞の屈辱を思い出すたびに、あの勇敢な伝書使(クーリエ)に対して、無意味で理不尽な怒りを抱いてしまうことだ。


 彼女には、何の罪もない。

 罪どころか、彼女は偉業を成し遂げた。

 どう考えても実行不可能な命令を、見事、達成してみせたのだ。

 帝国軍人として、あるいは共和国軍人としてであっても、伝書使(クーリエ)の献身的な働きに感謝こそすれ、恨みや怒りを抱くことなど、あってはならない。


 それでも、私はなぜか、やり場のない怒りを覚えてしまう。

 あの夜、彼女が密書を届けに来なかったら、我ら栄光ある第1親衛騎兵隊は、その最期の戦いを輝かしき突撃で終えることができた。

 愛馬を貪り、生き恥を晒すことなど、断じて、あり得なかった。

 彼女が、あの不可能さえ成し遂げなければ、我々の名誉は最期まで守られたはずだったのだ!

(彼は、空になったグラスを睨みつけ、しばらく黙りこんだ)


 ――私は、そんなことを考えてしまう、己を嫌悪する。

 自分の内側に、こんなにも醜い人間が潜んでいたことなど、知りたくはなかった。

 戦争が、栄誉ある死と栄光の勝利に彩られた日々ではなく、そんな醜い己を直視させられる地獄だなどと、知りたくはなかった。


 願わくば、一生――知りたくは、なかった。


 間違いない。彼女は帝国史上、最高の伝書使(クーリエ)だ。

 絶望の淵に沈んだ戦場のど真ん中に、考え得る限り最悪の知らせを携えて、想像しうる限り最低のタイミングで姿を現したが、それでも……いやそれだからこそ、彼女以上の伝書使(クーリエ)は、いないと断言できる。

 そしておそらくは――あるいは望ましくは――これからも、彼女以上の伝書使(クーリエ)は、現れないだろう。


(彼は少し逡巡した後、ブランデーをグラスに注いだ。それから彼は、私が謝意と退去の意を示すまで、二度と口を開かなかった。

 だが彼の書斎を出るとき、小さくつぶやく声が聞こえたのは、決して幻聴ではなかったと確信している)


 戦乙女は、戦士に死をもたらす。

 彼女は、我々の戦士としての魂を、見事に刈り取っていったよ……


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