sea drop
少年は不思議な世界にいた。
その世界は空の色のように青く、南国の海のように澄んでいた。
実際にここは海なのだろう。周りには小魚が群れをなして泳いでいた。
その全てが紙を切り取ったようにペラペラで、子どもが描いたような模様がついていた。
水玉模様やチェック柄、花柄、迷彩柄……どれもこれも現実にはありえない模様と色。
だがまったく同じものは一つとしてなかった。同じ模様であっても細部が違う。
ああ、これは夢の中か。少年は覚醒した直後の働かない頭で思った。水の中なのに不思議と息苦しさは感じない。
なんでオレは制服のまま海底に立っているのだろう、疑問に思ったのはそんなことだった。
少年は一歩足を踏み出してみて、それから足場が確かにあることを確認するかのようにゆっくりと歩き始める。
海底といっても地面はタイルのように表面がなだらかでその上に岩や海藻がおかれているようかのようだった。
「まるで水槽みたいだな」
少年の声はくぐもることなく、静かな水中に響いた。
目的も無く、ただ歩き続ける。
魚たちは少年との距離が近くなると警戒しているのかスーッと避けていった。少年は少し寂しい気持ちになったがそれまでだった。
ずっと歩き続けてもあまり変化がない景色に、少年は溜め息を一つ吐いた。
そのとき、腹部に何かがあたった。
「おおっと……」
痛みは無かったにしろ、なかなかに重い衝撃に少年は少しよろけてしまった。
目をやるとそこにはウミガメがいた。黄緑の水玉模様の甲羅をもつ一匹のウミガメが浮かんでいて、何かを言いたそうに少年を見上げていた。他の魚とは違い、厚紙で作られた箱を組み合わせたようにちゃんと肉付きがあった。
少年はウミガメが何を訴えかけているのかわからず、じっと見つめた。その間ウミガメも少年をじっと見つめ返す。
どうしてもわからない少年はウミガメに直接聞いてみることにした。
「オレはどうしたらいい?」
ウミガメはゆっくりと首を左に向けてまた少年を見つめた。 それだけしかしなかった。
「……どけ、ってことか?」
ためしに少年が一歩分横にずれてみると、ウミガメは少年の前を通って泳いでいってしまった。振り返って少年を見ることもせず、真っ直ぐに進んでいった。どうやら本当にどいてほしかっただけらしい。
何だか偉そうなやつだったなと、少年はウミガメの後ろ姿を見ながら思った。だがすぐに思い変えす。
いや、実際にあっちの方が偉いのか。だってここはあいつの住んでいる世界なんだから。
少年はまた歩を進め始めた。もうだいぶ歩いたというのに不思議と疲れは感じない。
どこまで行っても果ての見えないこの不思議な海に、少年はある歌のフレーズを思い出し、そしてつい口ずさんだ。
「海は広いな、大きいな……」
続きを歌おうとしたところでどこからか高い鳴き声が聞こえてきた。笛のような鳴き声で、声というより音のほうが近いような気がした。
「なんだ? ……うわぁ!」
少年の目の前に、また箱のようなものが現れた。鼻先一寸。近すぎて何なのかわからない。
またあの音が聞こえた。どうやら目の前にいるのがその音の正体らしい。
箱が上に伸びる。伸びるといっても胴体が見えただけなのだが少年にはそう思えた。
箱が一回転すると、ようやく全体を見ることができる距離になった。
「次はイルカか」
少年をとり囲むように三匹のイルカが彼を見ていた。瑠璃色の線が斜めについたイルカとさくら色のぶち模様、クリーム色のボーダー。少年と同じくらいかそれより少し大きいくらいだった。
三匹は少年の周りをぐるぐると泳ぎながらあの音を出す。
「今度はなんだ?」
ぶち模様のイルカが口で少年の頬をさすった。何度も優しくこすられるので少年は、
「や、やめろよ。くすぐったいだろう?」
と、はにかんだ。
三匹は楽しげに鳴いた。まるで笑っているかのように。
「もしかして遊んでほしい、とかか?」
そう言った途端にボーダー柄のイルカが少年の脚の間に入り込み彼を持ち上げた。
急に地から足の離れた少年は危うくバランスを崩しかけイルカの背から落ちそうになってしまった。慌ててイルカの背ビレを掴むと、三匹は確認するかのように頷き合いそして泳ぎ始めた。
「どこに連れていくつもりなんだ?」
少年がそう訊ねても帰ってくるのは高い声のみ。あっちに自分の言葉がわかっても自分が相手の言葉がわからなければ意味がない。イルカにも少年の言葉が理解できているのかわからない。ただ少年の発した音に対して音を返してるだけかもしれない。
イルカたちは少年を振り落とさない程度のスピードで進んでいく。それにつれて魚の種類や数も多くなっていった。
長い間水中ドライブをしていたが見るもの一つひとつが新しく、少年の目はずっと開きっぱなしの動きっぱなしだった。
イルカたちはだんだん減速し、少年をそっと降ろした。
「ありがとう。おかげでいろいろ見ることができた」
少年はイルカたちの頭を撫でた。何度も頷く動作を繰り返す彼らは「どういたしまして」と言っているかのようだった。
「少し、深いところまで来たのか?」
少年は辺りをぐるりと見渡す。だがこれといった大きな変化はない。紙のような魚の数と造り物のような岩が増えただけだった。遠くを見ると相変わらず、海底がどこまでも続いているのがわかる。
突然、少年を巨大な影が覆った。
何事かと少年が見上げてみると、そこにはクジラが一頭、陽の光を遮るようにゆったりと泳いでいた。少年からクジラまでかなりの高さがあったが、クジラの大きさが遠近感覚を麻痺させた。
「まるで飛行船みたいだ」
少年は感嘆の声をもらした。夢らしく、とても幻想的なこの世界。
「なぁ、この世界って――」
少年がイルカたちに問いかけようとしたところで、大量の魚たちが彼と彼らの間を泳ぎ抜けていった。
驚きの声をあげる間もなく次々に魚の大群が通り過ぎていく。
普通の反応ではない。何があったのか疑問に思った少年は魚たちの来た方へ首をまわした。
少年の目に写ったのは大量の色水だった。絵の具を溶かしたような、着色料を混ぜたような、そんな自然には絶対にありえない強烈な色をした洪水がすぐそこまで来ていた。
なんとも言えない恐怖で脚のすくんだ少年は逃げることができず、少年は目を瞑った。そしてその場で色水に飲まれてしまった。
無音の闇が続き、少年はたまらなく不安にかられた。
冷たく気持ちの悪い感情が心の中を支配していくような感覚だった。
自分がどうにかなりそうな暗闇に耐えられなくなり、少年は恐る恐る瞼を開けた。
そこには変わらぬ景色があった。
安堵した少年はさっそく、海の住人であるイルカたちに聞いてみる。
「今のはなんだったんだ……? この海ではよくあるのか?」
返事はない。先程までの無邪気な姿はどこへいったのか、イルカたちは急に黙るようになってしまった。
何か様子がおかしいと感じた少年はイルカの頬に触れようと手を伸ばした。だがその手はかすることもせず中をかき、イルカたちは少年を無視するかのように上へと昇り始める。
おい、まってくれよ――そう言おうとしたが少年は声が出せなかった。
さっきの色水のせい? 少年は考えながら既に手の届かない高さまで上がってしまったイルカたちになおも手を伸ばし続けた。
太陽の光が水との境界で輝き、丸い形が歪んでいた。
イルカたちはそこを目指すかのように浮力に身を任せて上がっていった。よく見ると彼らだけではなく他の海の住人たちも同じ場所を目指していた。
光が強くなっていき、白い世界が顔を見せたと同時に、暗転。
暑苦しさを覚え、少年は目を覚ました。
居間の窓に付けられた風鈴が、風を受けて申し訳程度に涼しげな音を鳴らしていた。
学校から帰ってきてそのまま寝てしまったらしく、少年の制服は寝汗でビッショリと濡れていた。
「テレビ見ながら……寝ちまったのか」
テレビ画面では女性のニュースキャスターが今日起こった事件の数々の内容を淡々と述べていた。左上を見ると『6:48』と今の時刻が表示されている。
「不思議な夢だった……ような気がする」
少年はそう呟きながら立ち上がった。汗で制服が身体にまとわりついて気持ちが悪い。
風呂に入ってすっきりしよう、制服も洗わねばならない。
そう思った少年は居間を出て風呂場へと向かった。
誰も居なくなった居間のテレビには、大量の魚たちが海で白い腹を浮かべている映像が写しだされていた。
今回のお題は友人Yより
『青』『学生』『時計』でした。
三人称を目指してみたのですがやはり慣れていないのは難しいですね。