妹君との婚約を解消したら、あなたに求婚してもいいだろうか
「先方へ行ってくる」
父がそう言ったのは、妹エミリアの婚礼を翌日に控えた朝だった。
明日は、長く関係の悪かった我が伯爵家とグランツ辺境伯家が、正式に手を結ぶための大切な婚礼だ。
そしてエミリアは、グランツ辺境伯家の嫡男ヴィクトル様へ嫁ぐことになっていた。
そのエミリアが、三日前から高熱を出している。
医師によれば、数日安静にしていれば治るとのことだった。
けれど、とても明日の婚礼に出られる状態ではない。
「私も連れていってください」
父が振り返った。
「クラリス?」
「明日は大勢の招待客が集まるのでしょう? お父様は辺境伯閣下と婚礼について話し合わなければなりません。その間の対応は、私にも手伝えます」
私は伯爵家の長女だ。
父に同行して、式典や会合を手伝ったこともある。
父は少し考えてから頷いた。
「分かった。支度をしなさい」
「はい」
ベッドからエミリアの声がした。
「お姉様……ごめんなさい」
「あなたが謝ることじゃないでしょう」
私は妹の額に手を当てた。
まだ熱い。
「私たちが戻ってくるまでに治すこと。それがあなたの仕事よ」
「……はい」
妹が小さく笑った。
半年前、この婚姻の話が決まったとき、長女である私には別の縁談が進んでいた。
だからヴィクトル様の婚約者には、妹のエミリアが選ばれた。
私の縁談はその後、条件が折り合わず取りやめになったけれど、その頃には二人の婚約は正式に成立している。
だから当然、そのまま話は進んだ。
そして明日。
妹はヴィクトル様の妻になるはずだった。
◇
グランツ辺境伯邸へ着くと、婚礼の準備はすでに整っていた。
町には両家の旗が並び、遠方からの招待客も到着している。
明日の婚礼だけを延期して、すべて終わり。
そんな状況ではないことは、見れば分かった。
私と父はすぐに応接室へ通された。
ほどなくして、グランツ辺境伯とヴィクトル様が入ってくる。
挨拶もそこそこに、父が事情を説明した。
「エミリアが三日前から高熱を出している」
最初に口を開いたのはヴィクトル様だった。
「容体は?」
私は少し驚いた。
婚礼の話ではなかった。
「医師によれば、数日安静にすれば問題ないそうです」
「そうですか。それなら、まずはよかった」
父が頭を下げた。
「こちらの事情で、明日の婚礼を予定どおり行えなくなった。申し訳ない」
「頭を上げてくれ」
辺境伯が答える。
「病人を無理に連れてくるわけにもいかん。婚礼は延期すればいい」
「恩に着る」
「問題は明日だな」
すでに大勢の招待客が集まっている。
父が口を開いた。
「婚礼は延期する。しかし宴は中止せず、両家がこれからも協力していくことを示す式典に変更するのはどうだろう」
「いいだろう。婚礼の延期についても、我々二人で説明する」
話はすぐに決まった。
辺境伯が息子を見る。
「ヴィクトル。明日の式典はお前が取り仕切れ」
「承知しました」
父も私を見る。
「クラリス。お前も手伝いなさい」
「はい」
こうして私は、妹の結婚式になるはずだった日の準備を、妹の婚約者と一緒にやり直すことになった。
◇
それからは大忙しだった。
招待客への説明。
席順や式次第の変更。
教会や町への連絡。
やることはいくらでもある。
「この三家には、先に事情を説明した方がいいと思います」
私は招待客の名簿を指した。
「昔から両家を知る方々です。婚礼延期だけを聞けば、関係が悪化したと思われるかもしれません」
「なるほど」
ヴィクトル様はすぐに使用人を呼んだ。
「この三家には使者を。エミリア嬢の病気による延期で、両家の関係には何も問題がないと伝えてくれ」
「かしこまりました」
使用人が出ていく。
「助かった」
「そのために来ましたから」
「君が来てくれてよかった」
何気ない言葉だった。
それなのに、少し嬉しかった。
しばらくして、今度は料理長がやって来た。
「明日の料理ですが、予定どおりでよろしいでしょうか」
ヴィクトル様が私を見る。
「どう思う?」
「そのまま出しましょう。婚礼のために用意したものだからと捨てれば、料理人や商人にまで損をさせます。祝いの内容が変わるだけですから」
「私も同意見だ」
料理長がほっとした顔をする。
「ただし費用は、予定どおり両家で負担してくださいね」
「こちらの事情で変更したのですから、我が家が多く負担しても――」
「それは駄目だ」
ヴィクトル様が遮った。
「病気は君の家の落ち度ではない。それに、両家の式典として開くと決めたのは父たちだ。ならば費用も両家で負担する」
私は少しだけ目を瞬いた。
こちらが申し出たのだから、そのまま受けても誰も責めないだろう。
でも、この人はそうしなかった。
「では、そのように」
料理長が頭を下げて去った。
「ありがとうございます」
私が言うと、ヴィクトル様が首を傾げた。
「何が?」
「……何でもありません」
◇
午後になると、予定変更を聞いた招待客の一人が、困った顔で私たちのところへやって来た。
「つまり、明日は何を祝えばいいのですかな?」
もっともな質問だった。
婚礼のために来たのに、花嫁はいない。
ヴィクトル様が答えるより先に、私は口を開いた。
「私たち二つの家が、明日もその先も争わないことを祝っていただければ」
相手が目を瞬く。
「花嫁は元気になれば、改めて嫁いでまいります。でも両家が手を結ぶのは、明日からでも構いませんでしょう?」
「なるほど。それなら祝い酒も無駄になりませんな」
「ぜひ飲んでいってください」
笑って答えると、相手も笑って去っていった。
隣を見る。
ヴィクトル様がこちらを見ていた。
「何ですか?」
「いや」
「何か?」
「君は、ああいうことをすぐに言えるのだな」
「困っている方に、明日を楽しみにしていただきたかっただけです」
「そういうところだ」
「どういうところですか?」
「いや。何でもない」
今度は私が首を傾げる番だった。
◇
夕方。
中庭を通りかかると、使用人たちが大量の花を運び出していた。
「その花、どうするんですか?」
私が尋ねると、一人が足を止めた。
「明日の婚礼用です。式典では使えませんので、片付けようかと」
「捨てるのか?」
私とヴィクトル様の声が重なった。
顔を見合わせる。
「……使えますよね?」
「使えるな」
また重なった。
思わず二人で笑った。
ヴィクトル様が花を見る。
「婚礼ではなくなっただけで、明日が祝いの日であることは変わらない」
「ええ。せっかく育てて、今日ここまで運んでもらった花ですもの」
「では広場に飾ろう」
「両家の紋章の周りにも使えそうです」
使用人たちが顔を見合わせる。
「では、そのようにいたします」
花が再び屋敷の中へ運ばれていく。
その背中を見送りながら、ヴィクトル様が言った。
「同じことを考えていたな」
「そうみたいですね」
「君とは仕事がしやすい」
「私もです」
口にしてから。
ほんの少しだけ、恥ずかしくなった。
「クラリス嬢」
「はい?」
「少し休もう」
「まだ仕事が――」
「さっきから君はそればかりだ」
「ヴィクトル様もでしょう」
「私は大丈夫だ」
「先ほど二人分の席を三人分で計算していました」
「……見ていたのか」
「見ていました」
「それは忘れてくれ」
「嫌です」
ヴィクトル様が困った顔をする。
私は笑った。
彼も笑った。
昨日までほとんど知らなかった男性と。
私はいつの間にか、こんなふうに笑っていた。
そしてたぶん。
それは彼も同じだった。
◇
翌日。
婚礼の代わりに開かれた式典は、無事に成功した。
父たちが婚礼の延期と、両家の関係に変わりがないことを説明すると、大きな拍手が起こった。
料理も酒も無駄にならず、昨日捨てられそうになっていた花も、広場を華やかに飾っている。
「うまくいきましたね」
「ああ。君のおかげだ」
「ヴィクトル様のおかげでもあります」
顔を見合わせて笑った。
それだけで、昨日の苦労が報われた気がした。
◇
夕方。
最後の客を見送って、私は大きく息を吐いた。
「明日の朝、帰ります」
隣にいたヴィクトル様がこちらを見る。
「明日?」
「はい。エミリアの様子も気になりますから」
「……そうか」
なぜか、少し残念そうに見えた。
「クラリス嬢。少し歩かないか」
二人で庭へ向かう。
しばらく歩いたところで、ヴィクトル様が足を止めた。
「一つ、聞いてもいいだろうか」
「はい」
「君自身に、今は婚約者はいないのか?」
思いがけない質問だった。
「いません。以前は縁談がありましたけれど、条件が合わず取りやめになりました」
「そうか」
ヴィクトル様は黙った。
それから。
「私は今、かなり不誠実なことを考えている」
「不誠実?」
「エミリア嬢は何も悪くない。だから本来なら、予定どおり彼女との婚姻を進めるべきなのだと思う」
胸がざわついた。
「だが、この二日間、君と過ごしてしまった」
ヴィクトル様が私を見る。
「もっと君を知りたいと思っている」
「ヴィクトル様……」
「分かっている。私の気持ちだけで婚約を変えるつもりはない」
彼ははっきりと言った。
「まずエミリア嬢の意思を確認する。父たちとも話す。彼女が私との婚姻を望んでいるなら、今の話は忘れてくれ」
そして少しだけ困ったように笑った。
「だが、もしすべてが円満に整理できたなら」
一度、言葉を切る。
「そのときは、クラリス嬢本人に求婚することを許してもらえるだろうか」
私はすぐには答えられなかった。
「……私たち、まだ二日しか一緒にいませんよ」
「ああ」
「私はヴィクトル様のことを、ほとんど知りません」
「だから、これから知ってほしい」
ずるい答えだと思った。
「……すべてが片付いてからです」
「え?」
「そのとき、もう一度お話ししてください」
ヴィクトル様が笑った。
「分かった」
その日の夕暮れ。
妹の代わりにやって来た屋敷を。
私は少しだけ、帰りたくないと思っていた。
◇
家へ戻ると、エミリアの熱はすっかり下がっていた。
私は、この二日間にあったことをすべて話した。
「……ごめんなさい」
そう言うと、エミリアは呆れた顔をした。
「お姉様。私とヴィクトル様が、どんな関係だったと思っているんですか?」
「どんなって……婚約者でしょう?」
「一度ご挨拶して、何通か手紙を交わしただけです」
エミリアは肩をすくめる。
「嫌だったわけではありません。きちんとした方だと思いましたし、家のために結婚することにも納得していました。でも、好きになるほどお話ししたこともありません」
「エミリア……」
「だから、お姉様が私から何かを奪ったわけではありませんよ」
そして妹は笑った。
「むしろ私、お姉様がそんな顔をする人に会えたことに驚いています」
「そんな顔って何よ」
「恋する乙女」
「エミリア!」
妹が楽しそうに笑う。
「私のことは気にしないでください。ただし」
「ただし?」
「私との婚約をきちんと終わらせてからにしてくださいね」
「当然でしょう!」
「なら、何も問題ありません」
◇
それから間もなく。
両家で話し合いが行われ、エミリアとヴィクトル様の婚約は正式に解消された。
そして数日後。
ヴィクトル様が、我が家へやって来た。
「クラリス嬢」
「はい」
「約束どおり、もう一度言わせてほしい」
彼はまっすぐ私を見る。
「私の婚約者になってください」
「はい。喜んで」
迷う理由なんてなかった。
私たちは、まだ出会ったばかりだ。
知らないことだって、たくさんある。
だから、これから知っていけばいい。
もっと話して。
もっと一緒に過ごして。
そしていつか。
あの日、出会えてよかったと。
二人で笑えたら、それでいい。




