山崎の戦いで秀吉は遅参していた?――新説が事実なら、誰が光秀を破ったのか
「中国大返し」って聞いたことあるひとは、結構いると思う。
本能寺の変で織田信長が討たれた直後、備中(現在の岡山県)で毛利氏と戦っていた羽柴秀吉が、毛利と講和して東へ取って返す。
そして備中高松から畿内まで約200kmともいわれる距離を、わずかな日数で駆け抜け、明智光秀との決戦に間に合わせる。
信長の仇を討つため、秀吉が疾風のように駆け戻った――そんな「中国大返し」の物語は、秀吉の天下取りを語るうえで外せない有名なエピソードだ。
ところが2026年、この物語の「最後のワンシーン」を揺さぶる新史料が登場した。
中京大学が入手した、豊臣秀吉の書状。
分析したのは同大の馬部隆弘教授だ。
この書状が真正で、馬部教授の解釈が正しいなら、山崎の戦いが始まった6月13日の昼、秀吉本人は戦場から約12km離れた摂津富田にいたことになる。
しかも書状には、翌14日に前線へ出る趣旨の記述がある。
つまり、「秀吉は中国大返しで山崎まで駆けつけ、そのまま自ら光秀と戦った」という、これまで馴染み深かったイメージに、かなり大きな疑問符が付く。
「え、じゃあ誰が光秀を倒したんだよ?」
そう思うよな。
今回はそこを、現在出ている史料と研究をもとに整理してみたい。
ただし最初に断っておく。
これは現時点で確定した新しい定説ではない。
2026年に発表されたばかりの研究であり、専門誌や学術紀要で成果が公表されている一方、専門家からも細部について異論が出ている。
現在進行形で検証されている新説だ。
だから、ここでは「秀吉は絶対に遅参した!」と断定するのではなく、「もしこの新史料の解釈が今後定着したら、山崎の戦いはどう見えるのか?」という視点で考えてみたい。
『発見された書状が語ること』
問題の書状は、中京大学が2024年に入手した秀吉の書状だ。
宛先は姫路城の留守居役を務めていた人物。
日付は、山崎の戦いが起きた天正10年6月13日、現在の暦では1582年7月2日にあたる。
馬部教授の読みでは、この時点で秀吉は摂津富田にいて、山崎方面には池田恒興・高山右近・中川清秀らの摂津衆がすでに進出していた。
さらに秀吉自身は、翌14日に西岡方面へ出る趣旨を記している。
ところが、山崎の戦いが本格的に始まったのは6月13日の夕方だ。
つまり少なくとも、秀吉本人は合戦開始の段階には間に合っていなかった可能性が高い。
ただし、誤解しないでほしい。
これは「秀吉は中国大返しなんてしていなかった」という話ではない。
備中高松から畿内へ向けて秀吉勢が急速に移動したこと自体を、この新説が否定しているわけではない。
揺らいでいるのは、その後の「中国大返しで戻ってきた秀吉本人が山崎の決戦に間に合い、自ら光秀を撃破した」という部分だ。
「中国大返し」と「秀吉本人の山崎決戦への参戦」は、いったん別々に考えたほうがいい。
馬部教授はこの新出書状について『戦国史研究』91号で論じ、さらに同年の中京大学文学部紀要でも「山崎の合戦と池田恒興」を発表している。
少なくとも、ネット上で突然出てきた思いつきや歴史雑学という話ではない。
一方で、学術的に発表された研究だからといって、その瞬間に「新しい定説」となるわけでもない。
そこは冷静に見ておく必要がある。
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『じゃあ、誰が光秀と戦ったのか?』
ここが今回の話で一番面白いところだ。
もし秀吉本人が遅参していたのなら、山崎の前線で光秀軍と戦っていたのは誰なのか。
馬部教授が注目するのが、池田恒興・高山右近・中川清秀らの摂津衆だ。
彼らは秀吉本隊とは別に、すでに山崎方面へ進出し、光秀軍と対峙していた。
フロイスの『日本史』にも、前線にいた高山右近らが秀吉勢の到着を待っていたものの、明智方が先に動いたことで戦闘が始まったという記述がある。
つまり、少なくとも馬部説では、「秀吉が到着してから山崎の戦いが始まった」のではなく、「秀吉を待っていた前線部隊が、先に光秀軍と戦うことになった」という構図になる。
そして光秀軍が敗走したあと、秀吉が追いつき、勝龍寺城攻めなどの段階に入ったと見る。
ここで大事なのは、「秀吉軍が山崎の戦いに一兵も参加していなかった」という単純な話ではないということだ。
問題になるのは、秀吉本人とその本隊が決戦のどの段階にいたのか、そして実際に戦端を開き、光秀軍を敗走へ追い込んだ主力を誰と見るのか、というところになる。
この部分については、馬部説に異論もある。
だから現時点では、「秀吉本人が山崎の決戦を指揮して光秀を破った」という従来像は再検討する必要がある。
一方で、山崎で戦った秀吉方の部隊をすべて摂津衆だけとするのも慎重であるべきだ。
このくらいが一番フェアなところだと思う。
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『実は「秀吉は遅れた」という話、完全な新ネタではない』
今回の新説は、何もないところから突然生まれたわけではない。
宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にも、秀吉が前線に遅れて到着したことをうかがわせる記述が以前からあった。
ただしフロイスの記述は高山右近らキリシタン勢力の活躍を強調している。
そのため「高山右近の武功を大きく描いたのではないか」という見方もでき、従来はそのまま山崎の戦いの実像として扱うには慎重さが必要だった。
ところが今回、秀吉自身の6月13日付書状が出てきた。
これがフロイスの記述と噛み合う。
そうなると、「フロイスが勝手に高山右近を英雄にしただけ」では片付けにくくなる。
もちろん、それだけで全てが証明されたわけではない。
でも、以前から存在していた傍証と、新たに発見された一次史料が重なった。
これは無視できない。
今回の研究の面白さは、むしろここにあると思う。
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『秀吉、自分の物語を「編集」していた?』
さらに興味深いのが、馬部教授が指摘している別の書状群だ。
山崎の戦いから約4か月後の秀吉書状などを比較すると、山崎で誰がどの役割を果たしたのかという記述に変化が見られる。
たとえば、天王山の山手を攻めた人物について、フロイスの記録では中川清秀が挙げられている一方、後の秀吉側の書状では秀長や黒田孝高の功績として記述されているという。
これを馬部教授は、秀吉が自らの遅参を目立たなくする方向へ、戦功の語られ方を調整していった可能性と関連づけている。
もしそうなら面白いが、ここは「秀吉が歴史を改竄した」と断言するところではない。
文書の作成目的や政治的な事情、単なる戦功の整理など、別の説明も考えられる。
だから俺は、「秀吉が意図的に自分の遅参を隠蔽した」と確定させるのではなく、「後から戦功の配置が変化しているように見えること自体が重要」と考えたい。
とはいえ、秀吉に動機がなかったかというと、そんなこともない。
本能寺の変直後、織田信長が死に、織田家臣団の中で誰が主導権を握るのかが決まっていない状況で、「信長の仇を討った男」という肩書きがどれだけ政治的価値を持つか。
考えてみれば、ものすごく大きい。
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『池田恒興の「急浮上」はどう説明する?』
もう一人、気になってくる武将がいる。
池田恒興だ。
本能寺の変から約3週間後に開かれた清洲会議。
信長亡き後の織田家の後継や所領配分を話し合うこの歴史的な会議に、恒興は柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀と並ぶ重要人物として参加する。
なぜ恒興だったのか。
もちろん「山崎で大功を立てたから、それだけ」という話ではない。
恒興はもともと信長との関係が深く、摂津方面に軍事的基盤を持つ有力武将だった。
信長の乳兄弟だったとされる特殊な関係もある。
だから、本能寺後の政局で恒興が重要な位置につくこと自体は、従来説でも十分説明できる。
ただし、今回の新説を重ねると、そこにもう一枚のカードが加わる。
山崎で実際に光秀軍と対峙し、戦端を開いた側の中心人物が池田恒興だった可能性だ。
もしこれが正しいなら、「信長に近かった有力武将」というだけではなく、「信長の弔い合戦で実戦的な功績を挙げた人物」として恒興を見ることができる。
福島克彦氏も、この新説について、馬部氏の山崎合戦像そのものには異論を示しながら、山崎合戦の経過がその後の政局に反映した可能性、とりわけ清洲会議で池田恒興が存在感を増した点については重要な視点として評価している。
秀吉が山崎の決戦に遅れた一方で、その間に前線で戦った摂津衆の存在感が増し、彼らをまとめる立場にいた池田恒興が、直後の清洲会議で重要な位置を占める。
もちろんこれだけで因果関係が証明されたわけではないが、「なぜ池田恒興が、このタイミングでここまで重要な位置に出てきたのか」を考える材料としては、かなり面白いと思う。
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『そして秀吉は、結局どうなった?』
ここが一番皮肉なところだ。
仮に山崎で実際に光秀軍を打ち破った中心が池田恒興ら摂津衆だったとしても、その後の政治的勝者は秀吉だった。
ここは変わらない。
秀吉は山崎の勝利を政治的に最大限利用した。
清洲会議で存在感を増し、織田家中で柴田勝家と対立し、その後の政局を制していく。
つまり、戦場で誰が最も大きな武功を挙げたかと、その勝利を誰が最も巧みに政治的成果へ変えたかは、別の問題なのかもしれない。
ここに今回の新説の面白さがある。
もし秀吉が本当に遅参していたのなら、秀吉は「山崎で光秀を討った英雄」というより、「自分が直接決戦に間に合わなかったとしても、その勝利を自分の天下取りにつなげることに成功した政治家」として見えてくる。
これは秀吉の評価を下げる話なのか?
俺は、必ずしもそうは思わない。
むしろ別の意味で、秀吉の恐ろしさが増す。
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『で、結局これは「定説」になるのか?』
現時点では、まだ分からない。
新出書状は秀吉の書状として研究されている。
馬部教授による論文も2026年の『戦国史研究』91号に掲載され、同年には池田恒興に焦点を当てた論文も発表された。
一方で、山崎合戦の具体的な経過については、すでに専門家から異論も出ている。
だから今の段階で、「秀吉は山崎の戦いに絶対に間に合っていなかった」と断言するのは早い。
まして「秀吉は山崎の戦いで何もしていない」とまで言ってしまうのは、もっと危ない。
現段階で言えるのは、「秀吉本人が山崎の決戦に遅参した可能性を示す、重要な新史料が出てきた」ということ。
そして、その史料が真正で、馬部説が今後さらに支持されるなら、「中国大返しで戻ってきた秀吉が、そのまま山崎で光秀を直接撃破した」という従来のイメージは、大きく修正される可能性がある。
中国大返しそのものが消えるわけではない。
秀吉の東進がなかったことになるわけでもない。
変わるのは、その先だ。
誰が実際に光秀と戦ったのか。
誰が勝利の第一功を得たのか。
そして、その勝利を誰が政治的に回収したのか。
この三つを分けて考える必要が出てきたのだと思う。
秀吉という人物は、後世になるほど「人たらし」「機を見るに敏な策士」として語られるようになった。
でも今回の新説が正しかったとしたら、その評価にもう一つ加えてもいいのかもしれない。
「勝利そのものだけでなく、勝利がどう記憶されるかまで利用した男」という見方だ。
もちろん、これはまだ俺の解釈だ。
秀吉が本当に「よし、俺が遅れたことを隠して戦功を自分のものにしよう」と考えていたのか、そこまで証明されたわけじゃない。
ただ、もし実際の山崎で秀吉本人が遅れ、池田恒興らが先に光秀軍と戦い、その後に秀吉が戦功を政治的に回収していったのだとしたら――俺たちが知っている「中国大返しから山崎の勝利へ」という物語は、少し違った姿に見えてくる。
戦場で最も大きな功績を挙げた人物と、その勝利を最も大きな政治的成果に変えた人物は、必ずしも同じではなかったのかもしれない。
そして、その視点で見ると池田恒興という武将も面白くなる。
もともと信長に近く、摂津に軍事的基盤を持っていた恒興。
そこに山崎での戦功が加わり、直後の清洲会議で重要な立場に躍り出る。
その後も秀吉と行動をともにし、小牧・長久手で戦死する。
もし恒興があそこで死ななかったら、秀吉政権の中でどんな位置にいたのだろう。
これはもう、史料からは答えの出ない「もしも」の話だ。
でも、こういうところまで想像できるのが歴史の面白さでもある。
何より面白いのは、たった一通の史料によって、誰もが知っている英雄譚の「最後のワンシーン」が別の角度から見えてきたことだ。
歴史は、過去に起きた出来事そのものを変えることはできない。
でも、「何が起きたのか」を考えるための材料は、400年以上経った今でも増える。
新しい一次史料が出てくれば、これまで当たり前だと思っていた物語も、もう一度組み直すことができる。
今回の秀吉の書状が、最終的にどこまで歴史を書き換えることになるのか。
秀吉は本当に山崎に遅参していたのか。池田恒興ら摂津衆は、どこまで光秀撃破の主役だったのか。
そして秀吉は、その事実をどこまで自分の物語へ組み込んだのか。
まだ答えは出ていない。
だからこそ、俺はこの新説の続きが楽しみだったりする。
「中国大返し」という有名な英雄譚の、その先に何があったのか。
そこをもう一度掘り返してみる価値は、十分にあると思う。
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参考:馬部隆弘「山崎の合戦に遅参した羽柴秀吉」『戦国史研究』91号/「山崎の合戦と池田恒興」『中京大学文学部紀要』60-2/福島克彦「山崎合戦像の行方」(中公新書ウェブサイト特別寄稿)/東京新聞・中日新聞・日本経済新聞・共同通信 各報道(2026年3月〜5月)




