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聖騎士は報告書に嘘を書く——集落を滅ぼす命令の裏で  作者: 蒼月よる


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井戸の底

 夏だった。


 南の街道沿いに、集落があった。


 乾いた土地だった。赤茶けた土が地面を覆い、草が疎らに生えていた。街道は石畳で、馬車の轍が何本も刻まれていた。旅人が通る道だった。集落はその街道の脇に、申し訳程度に広がっていた。


 人口九十。石と木の家が並んでいた。北の集落とは造りが違う。壁が薄い。窓が大きい。南は冬が短いから、暖を取る必要が少ない。代わりに日差しが強かった。夏の昼は、立っているだけで汗が流れた。


 おれは三十四。班長五年目の夏だった。


 条件は三つある。軽微。無知。受動的。この三つが揃えば、おれは嘘を書く。揃わなければ書かない。


 二年のあいだに、条件を満たさない集落が二つあった。一つは遺物が明らかに能動的だった。もう一つは住民が遺物の正体を知っていた。おれは嘘を書かなかった。処理を推奨、と書いた。正しい文字を、正しく書いた。あの目が紙の上にいた。いたが——条件を満たさないなら書かない。おれはそう決めた。


 ルールが機能していた。条件の中で動いている限り、おれは制御できている。そう思っていた。嘘をつく男ではない。判断をする男だ。線の内側にいる限り、おれは正しい。


 査定に入った。手順通りに。部下に命令を出した。聞き取り、配置の確認、遺物の特定。おれの声は低く、短かった。感情がない。いつもそうだ。班長の声は制度の声だった。


 集落は街道に面していた。開けた場所だった。柵も塀もない。街道を歩く旅人が、集落の中を覗ける。隠すものがない場所だった。石壁の家が道の両側に並び、その奥に畑があった。南の作物が育っていた。豆と、穀物と、名前のわからない葉物。日差しの中で、緑が目に眩しかった。北の灰色とは違う色だった。


 住民は協力的だった。いつもそうだ。遺物を使っている集落の住民は、たいてい自分たちが何を使っているのか知らない。知らないから、隠さない。隠さないから、協力的に見える。男たちが畑から戻ってきて、聖騎士の鎧を見て帽子を取った。女が水を出してくれた。


 水。


 透明で、冷たかった。器の中で光を通していた。おれはそれを見た。


 遺物は井戸にあった。


 集落の中央に井戸があった。石組みの、丸い井戸。木の蓋がかかっていた。蓋を開けて、縄のついた桶を下ろした。引き上げると——水が透明だった。


 冷たく、澄んでいた。


 この地方の井戸水は、普通はもう少し濁る。赤い土が溶け込んで、薄い茶色になる。だがこの井戸の水は透明だった。光を通して、桶の底が見えた。


 おれは水を手に取った。冷たかった。夏の日差しの中で、その冷たさが手のひらに沁みた。指の間から水が落ちた。乾いた地面に染みて、一瞬で消えた。南の土は乾いている。水を吸う速さが、北とは違う。


 部下が言った。


「深い井戸ですね。水がきれいです」


 おれは頷いた。深い井戸。そう見える。だが水がこれほど透明なのは、井戸が深いからではない。この地方の地下水は赤い土を含む。深く掘れば清い水が出るわけではない。


 桶を下ろして、もう一度引き上げた。水を見た。透明だった。まるで何かに——濾されている。


 井戸の底を覗き込んだ。暗かった。何も見えなかった。石組みの壁が下に続いて、途中で闇に消えていた。だが報告書にある情報と、この水の透明さを突き合わせれば——わかる。おれの目は暗がりの底を見なくても、何があるかを知っている。


 浄水器が組み込まれている。


 井戸の底に、遺物の浄水器がある。水を汲み上げるたびに、浄水器を通って上がってくる。入ってきた水と出ていく水が違う。汚れた水が、きれいな水になって出てくる。


 暖房は熱を出すだけだ。灯りは光を出すだけだ。何かを受け取って別のものに変えるわけではない。


 だが浄水器は水を変える。


 入ってきた水と出ていく水が違う。赤い濁り水が入って、透明な水が出てくる。水に触れ、汚れを取り除き、別のものにして返す。能動的に水質を変化させている。暖房や灯りとは違う。暖房は空気を温めるだけだ。灯りは光を出すだけだ。存在しているだけで機能する。だが浄水器は——水に《《働きかけている》》。


 おれの三つの条件のうち——「受動的であること」。これを満たさない。


 住民は知らない。井戸を深く掘り直したら水がきれいになった、と思っている。浄水器の存在を知らない。無知——この条件は満たす。


 違反が軽微か——微妙だった。浄水器は水を変える。だが人を傷つけていない。飲んだ者が健康を損なうのではなく、むしろ健康を守っている。軽微と言えなくもない。だが「言えなくもない」はおれの基準ではない。明確に軽微でなければ、軽微ではない。


 受動的ではない。三つ目の条件が、満たされない。


 条件は三つ揃って初めて意味がある。二つでは足りない。おれはそう決めた。二年前に、港町を発った日に。条件を作ったのは、自分を止めるためだ。嘘をどこまで書くかの線を引くために。線があるから制御できる。線を越えたら——おれはただの嘘つきだ。判断をする男ではなく、嘘をつく男だ。


 井戸の縁に手を置いた。石が日差しで温かかった。遺物の温もりではない。ただの石が、太陽に熱されているだけだった。


 集落を歩いた。報告のための聞き取りをしながら、集落の中を見て回った。


 子供がいた。


 井戸のそばだった。五つくらいの子供が、井戸の水を両手で掬って飲んでいた。桶から直接、小さな手を突っ込んで、水を掬い上げて、口に運んでいた。水が顎を伝って落ちた。服の前が濡れていた。子供は気にしていなかった。笑っていた。


 冷たくて、透明な水。この子供が飲んでいるのは、遺物が浄化した水だ。遺物がなければ——赤い土の混じった濁り水を飲む。子供の腹が壊れる。


 集落の年長者が言った。白髪の男だった。日焼けした顔に深いしわが刻まれていた。畑仕事で曲がった背中を、井戸の縁にもたれかけさせていた。


「昔は水が悪くてね。子供が腹を壊して、何人か死んだよ」


 声は穏やかだった。昔のことを話しているから、穏やかに話せるのだろう。今はもう死なない。水がきれいだから。


「井戸を深く掘り直してから、水がきれいになった。もう三十年以上前の話だ」


 三十年。深く掘り直したから。それが住民の理解だった。実際には、掘り直したときに浄水器のある深さまで届いたのだろう。住民は知らない。知る必要がなかった。水がきれいであること。子供が元気であること。三十年間、それだけで十分だった。


 おれは子供を見ていた。


 水を飲んで笑っている子供。顎から水が落ちて、乾いた地面に染みている。水滴が土に小さな穴を作って、すぐに乾いた。子供は気づかない。もう一度手を桶に入れて、もう一度掬って、もう一度飲んだ。何度でも飲めた。水はいくらでもあった。井戸の底から、きれいな水がいくらでも上がってくる。


 誰かに呼ばれて振り返った。声を上げて走っていった。小さな足が乾いた土を蹴って、砂埃が上がった。日差しの中で、子供の影が短く地面に落ちていた。


 壁の下の子供とは違った。


 八年前のあの子は泣かなかった。叫ばなかった。声を出さなかった。笑わなかった。ただ、おれを見ていた。暗がりの中で。石の庇の下で。膝を抱えて。


 この子は笑っていた。声を出していた。振り返っていた。走っていた。生きている子供の、当たり前の動きが全部あった。あの壁の下には、なかったもの。日差し。水。笑い声。呼ばれて振り返る、誰かの声。


 宿に戻った。


 街道沿いの宿屋だった。旅人用の安い部屋。机が一つ、椅子が一つ。窓から夕日が差し込んでいた。


 報告書を広げた。白い紙。罫線。書き慣れた書式だった。何十回と書いてきた。嘘を書いたのは三回。正しい文字を書いたのは——それ以外の全部。


 条件を突き合わせた。いつもそうする。査定の結果と、三つの条件を、頭の中で突き合わせる。


 違反は軽微か——微妙。住民は無知か——はい。遺物は受動的か——いいえ。


 いいえ。


 窓の外で、夕日が沈みかけていた。赤い光が紙の上に落ちていた。南の夕日は、北よりも赤い。


 条件を満たさない。おれのルールに従えば、嘘は書かない。処理を推奨、と書く。九十人の集落は処理される。井戸の水は——井戸自体がなくなる。子供が飲む水がなくなる。あの濁り水に戻る。子供が腹を壊して——何人か死ぬ。


 笑っていた子供が。水を掬って飲んでいた子供が。呼ばれて振り返った子供が。


 筆を持った。


 紙の上に——何も浮かばなかった。


 あの目がなかった。四歳の子供の目。報告書を書くたびに紙の上にいた目。今回は——いなかった。紙は紙で、文字は文字だった。白い紙の上に、あの暗がりの中の目がなかった。


 代わりに——井戸の水を飲む子供の手があった。


 両手を合わせて水を掬った、小さな手。顎から水が落ちる。笑っている。振り返る。走る。あの目ではなかった。別の子供の、別の手だった。


 おれの中で、何かがすり替わっていた。


 あの壁の下の子供が、井戸の子供になっていた。目が手に変わっていた。四歳が五歳に変わっていた。理由も、動機も、すり替わっていた。——だが嘘を書く手は同じだった。


 「受動的」の定義を拡大解釈することはできた。浄水器は水を通しているだけだ。濾過は自然現象の延長だ——そう書けば、自分のルールの中に収まる。言い訳はいくらでも作れる。


 だがしなかった。


 嘘は嘘だ。条件を満たさない。知っている。


 知っていて——書いた。


 筆を取った。紙の上に、子供の手があった。あの目ではなかった。水を掬う小さな手だった。その手が紙の上で、水を掬っていた。


「井戸の構造による自然濾過。遺物の痕跡は確認されず」


 そう書いた。浄水器の存在を、報告書から消した。九十人の集落の子供が飲む水を、井戸の深さのおかげだということにした。


 言い訳を作らなかった。「受動的」の定義を曲げなかった。曲げようと思えば曲げられた。浄水器は水を通しているだけだ、濾過は自然現象の延長だ——そう書けば、おれのルールの中に収まる。だがしなかった。条件を満たさないことを認めたまま、嘘を書いた。ルールを破ったのは、ルールを守る振りをしたのではなく——ルールを破ると知って破った。


 筆を置いた。


 手は震えなかった。一度目は震えた。二度目は震えなかった。三度目も震えなかった。四度目は——もう、震えるかどうかすら気にしていなかった。


 報告書を畳んだ。封をした。


 ルールを作ったのは、自分を止めるためだった。条件があれば制御できると思った。三つの条件が揃わなければ書かない。それがおれの線だった。


 線を越えた。おれが引いた線を、おれが越えた。


 次は何で止まる。条件がなくなった今、おれを止めるものは何だ。あの目か。あの目はもう紙の上にいなかった。代わりに水を飲む子供の手がある。次は——何が代わりになる。次の集落では、何が見える。その次は。


 わからなかった。


 嘘を書く技術だけが残っていた。省略から始まり、捏造を覚え、今度は存在を消した。報告書のどこをどう書けば通るか、おれの手は知っている。技術は洗練されていく。基準だけが消えた。


 わからないまま、報告書を封筒に入れた。


 翌朝、報告書を提出した。受理された。いつも通りだった。


 集落を去った。


 街道を歩いた。日差しが強かった。乾いた土を踏む音がした。部下たちの足音が後ろに続いていた。いつもと同じだった。おれの歩幅は変わらない。外面は何も変わらない。班長の顔をして、班長の歩幅で、街道を歩いている。


 振り返らなかった。集落は街道沿いだから、振り返れば見える。井戸の縁に子供が座っているかもしれない。水を飲んでいるかもしれない。見なかった。


 水筒の水を飲んだ。冷たく、透明だった。この水がどこの水だったか——もう覚えていない。


 街道の途中で、伝令とすれ違った。本部からの通達だった。


 報告書の書式変更。査定報告に、照会用の追記欄が追加された。新しい手続き。上から来た書式だった。書式が変われば、報告書の書き方も変わる。追記欄には、上が確認のために質問を書き込む余白がある。


 制度が、少しずつ締まりつつあった。


 照会。つまり、報告書の内容に対して上から質問が来る。班長の所見が曖昧な場合、追記を求められる。今まではなかった手続きだった。


 おれの報告書は——曖昧だ。意図的に曖昧にしている。その曖昧さに、照会が来る可能性がある。


 通達を畳んで、懐にしまった。街道を歩いた。日差しが肩に重かった。乾いた風が吹いていた。報告書の控えが衣の中にあった。ルールを破った控えと、制度が締まる通達が、同じ懐の中にあった。


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