海神の灯
春だった。
東の沿岸に、港町があった。
山を越えて海に出ると、空気が変わった。乾いた冬の空気ではない。潮の匂いがした。湿っていた。風が重かった。霧がかかっていて、海の色が見えなかった。波の音だけが、霧の向こうから聞こえていた。
港町の漁村。人口百十人。前回の六十人の倍近い。報告書に書いてあった数字だった。
おれは三十二。班長三年目の春。部下は入れ替わっていた。去年までの班員が一人抜け、新しい班員が入った。若い。二十を少し過ぎたくらいの顔をしていた。真面目な目をしていた。報告をきちんと出す。敬語で話す。任務に忠実だった。
前回の嘘は通った。
あの冬、北の山裾の六十人。証拠不十分。報告書は受理され、処理は見送りになった。誰にも疑われなかった。
おれは今、百十人の集落に立っている。
次があるのか、と山道を下りながら考えた。その答えが——もう出ている。おれはここにいる。査定の命令を受けて、筆と紙を持って、ここに来ている。次がないなら、ここにいる意味がない。
だが次があるのかどうかは、まだ知らない。この集落を見てからだ。
霧が薄くなった。
集落が見えた。港に沿って家が並んでいた。石と木の家。漁師の家は木造が多い。船板の余りで壁を張ってある家もあった。干物の匂いがした。網が干されていた。石の埠頭に小さな船が何隻か繋がれていた。
海が見えた。灰色だった。春の海は、この地方ではまだ冬の色をしている。波は穏やかだったが、沖のほうに白い波頭が見えた。水平線は霧に呑まれて、空と海の境目が見えなかった。
子供が何人か走っていた。路地の間を駆け抜けて、埠頭のほうに消えた。笑い声がした。魚の腸を猫に投げて遊んでいた。
岬の先端に、灯台が立っていた。
古い石造りだった。高さは二十メートルほど。灰色の石が積まれて、途中から苔に覆われていた。上部に窓があり、そこから光が見えた。昼間なのに。
蜂蜜色の光だった。
霧の中で、その光だけが色を持っていた。灰色の空、灰色の海、灰色の石壁——その中で、灯台の上だけが温かい色をしていた。
査定に入った。手順通りに。
住民は協力的だった。漁村だった。聖騎士が来ることは珍しいらしく、物珍しそうにこちらを見ていた。女たちが網を繕う手を止めて、こちらを見た。子供が指をさして何か言った。だが敵意はなかった。ここは山地の閉じた集落ではない。港町だ。旅人も来る。外の人間に慣れている。
「あの灯台の灯りについて聞きたい」
おれが言うと、村長格の男が頷いた。日焼けした顔に深いしわが刻まれていた。
「海神の灯のことかい。あれは昔から灯っている。わしらの祖父の祖父の代から」
海神の灯。住民はそう呼んでいた。遺物だとは思っていない——あるいは知っていても、それを問題だとは思っていない。海を照らす灯り。嵐の夜に船を導く灯り。それがなかった頃を、誰も覚えていない。
「嵐の夜はどうしている」
「灯りがあるから大丈夫だ。あれが灯っている限り、船は迷わん」
村長格の男の声には、一片の疑いもなかった。灯りは灯っている。当たり前のことだった。空に月があるように、灯台に灯りがある。それだけのことだった。
灯台に向かった。班員と二人で岬を歩いた。他の二人は集落で聞き取りを続けていた。
岬は風が強かった。潮風が顔に当たった。足元は岩で、苔が滑った。灯台の扉は古い木だった。開けると、石の螺旋階段があった。
上った。螺旋が狭く、鎧の肩が壁に擦れた。石段は海水で濡れていた。潮の匂いが上に行くほど強くなった。班員の足音が下から響いていた。
灯りは最上部にあった。
部屋は円形で、石の壁に四つの窓が開いていた。東西南北。どの窓にも蓋はない。風が四方から吹き込んでいた。
部屋の中央に石の台座があり、その上に何かが乗っていた。掌ほどの大きさの、丸い石のようなもの。表面がなめらかで、蜂蜜色に光っていた。触れてはいない。近づくだけで、温かかった。光と一緒に、微かな熱が出ていた。蜂蜜色の光が石の壁を染めていた。班員の顔が、その光の中でわずかに金色に見えた。
光は揺れなかった。
四方から風が吹き込んでいるのに、揺れなかった。蝋燭なら消える。松明なら消える。だがこの光は——風の中で、動かなかった。蜂蜜色のまま、ただ灯っていた。
おれはそれを見ていた。わかっていた。これが何であるかは、灯台に入る前からわかっていた。風で消えない光。蝋燭でも松明でもない。百十人の漁師の命を支えている光。
目を閉じた。
開けた。
班員が一歩近づいた。光を見ていた。風を感じていた。自分の顔に当たる風と、揺れない光を、同時に見ていた。
「班長」
声が報告の調子だった。だが語尾が、わずかに上がっていた。確認ではない。問いかけだった。
「この光は——風で消えませんね」
おれは何も言わなかった。
班員の目がおれの顔を見た。それから灯りを見た。そして自分の手を見た。おれの背中を見た。口を開きかけて、閉じた。
三秒。五秒。それ以上だったかもしれない。
おれは何も言わなかった。否定しなかった。肯定もしなかった。「風防構造がしっかりしているからだ」と言えた。一言、そう言えばよかった。班員は納得するだろう。若い。班長の言葉を疑う段階にいない。
だが言わなかった。
沈黙が答えだった。
風が吹いた。灯台の窓から海風が入り、おれの外套の裾を揺らした。光は揺れなかった。班員の目がおれの顔を見た。それから灯りを見た。また、おれの顔に戻った。
班員の唇が動いた。何かを言いかけた。閉じた。もう一度開きかけた。また閉じた。
目が変わった。わずかに。驚きから、理解へ。理解から——沈黙へ。身体が先に理解した。背筋がわずかに強張って、それから——力が抜けた。班長は知っている。知っていて、何もしない。この灯りが何であるかを、班長は知っている。
おれはこの男の目を見ていた。真面目な目だった。まだ若い。任務に忠実で、敬語で話し、報告をきちんと出す。正しい騎士だった。おれもかつてそうだった。
「……了解しました」
小さい声だった。おれを見なかった。灯台を見なかった。自分の足元を見ていた。声が少し震えていた。おれの声ではなく、班員の声が。
おれは班員を巻き込んだ。
一言も嘘をついていない。一言も命令していない。ただ黙っただけだ。だが沈黙が、この班員を共犯にした。
去年の冬、おれは一人で嘘を書いた。あのとき部下は何も知らなかった。報告書はおれが書き、おれが封をし、おれが提出した。嘘はおれの中に閉じていた。
だが今回は違う。この若い騎士は見た。風で消えない光を見た。そしておれの沈黙を見た。この男は今後、灯台のことを上に報告するか、おれと同じように黙るか、二つに一つだ。
報告すれば、おれの嘘が発覚する。黙れば、共犯だ。
おれはこの男に選択を強いた。強いたことすら、言葉にしなかった。班長命令ではない。脅迫でもない。ただの沈黙だ。だがその沈黙が、命令よりも重かった。
灯台を下りた。螺旋階段を降りるあいだ、班員は一段後ろにいた。足音が二つ、石の壁に反響していた。一言も交わさなかった。
扉を開けた。海風が顔に当たった。潮の匂いと、魚の匂い。灯台の中の、あの無風の空間から出ると、世界が一気に動き出した。
漁師の息子がいた。十代の前半だろう。日焼けした手で目庇を作って、灯台を見上げていた。沖を見た。それからまた灯台を見上げた。手が目の上にあるまま、下ろさなかった。
「あれが消えたら、父さんは帰れない」
おれに言ったのではなかった。独り言だったのか、隣にいた別の子供に言ったのか。声は低く、不安ではなかった。事実を言っていた。消えないと信じていた。消えたことがないから。祖父の代から灯り続けている光が、明日消えるなどと思うわけがない。
少年はおれに気づいた。聖騎士の鎧を見て、少し背筋を伸ばした。おれは頷いた。少年も頷いた。それだけだった。
だが百十人の命が、一つの灯りにかかっていた。嵐の夜に、あの光が消えたら。船は帰れない。漁師は帰れない。父は帰れない。少年の声が、波の音に混じって、耳の奥に残った。
宿に戻った。
漁師の家を借りていた。魚の匂いが染みついた小さな部屋だった。机は低く、椅子の代わりに木の箱があった。窓から海が見えた。灯台が見えた。蜂蜜色の光が、窓枠の中で静かに灯っていた。
机に向かった。
報告書を広げた。白い紙。罫線。前回と同じ書式だった。同じ欄。同じ余白。だが中身が違う。
百十人。六十人のときとは規模が違う。「証拠不十分」で通すのは——難しい。灯台に灯りがある。村人も旅人もそれを見ている。風で消えない光を「知らなかった」とは書けない。調査に来た班が灯台を見て、灯りに気づかなかったなどと書けば、かえって疑われる。
省略では足りない。書かないだけでは、済まない。
筆を持った。窓の外で灯台の光が灯っていた。おれの手に、あの光の色が映っていた。
おれは書いた。
「灯台の灯りは自然発光鉱石の可能性あり。遺物との確証なし。灯台の風防構造は良好であり、灯りが風で消えにくい環境が確認された」
嘘だった。
前回は書かなかっただけだった。今回は——書いた。存在しない説明を付け加えた。自然発光鉱石。そんなものは確認していない。風防構造。灯台の窓に蓋はない。海風がまっすぐ入ってくる。風防などない。
省略ではない。捏造だった。事実を書かなかったのではなく、事実でないことを書いた。去年の冬とは違う。あのときは書かなかっただけだった。今回は書いた。存在しないものを。
手は震えなかった。
去年の冬、あの山裾の宿で震えた手が、今回は震えなかった。筆が紙の上を滑った。文字が並んだ。偽の説明が報告書の上に整然と書かれた。おれの筆跡は安定していた。
窓の外で、灯台の光が灯っていた。あの光を「自然発光鉱石の可能性」と書いた。嵐の夜に消えない光を「風防構造による」と書いた。窓から見えるあの光が、おれの嘘を照らしていた。
紙の上に、あの目が浮かんだ。
いつもと同じだった。四歳の子供の目。暗がりの中でおれを見ていた目。報告書を書くたびに紙の上に浮かぶ目。だが今回は——別の恐怖が混じっていた。
もし、あの目が浮かばなくなったら。
この目が見えなくなったら。おれは何のために嘘を書いているのかわからなくなる。あの目がおれを止めている。あの目がおれを動かしている。嘘を書く手と、嘘を許す理由が、同じ目から来ている。
その目が消えたら——おれは何になる。ただの嘘つきだ。
報告書を畳んだ。封をした。今回は手が震えなかった。封蝋を押す手も、安定していた。蝋の赤が、灯台の光に照らされてわずかに蜂蜜色を帯びた。
翌日、提出した。受理された。また。何事もなく。百十人。灯りは一つ。今夜も灯る。
集落を去った。
港を出て、街道を歩いた。潮の匂いが少しずつ薄くなった。土の匂いが戻ってきた。
班員が隣にいた。他の二人は前を歩いていた。おれと班員のあいだに、言葉はなかった。必要もなかった。灯台の上で全てが終わっていた。あの沈黙の中で、おれたちは何かを共有した。名前のつかない何かを。
振り返った。
霧の中に、蜂蜜色の光がぼんやり灯っていた。あの光は今夜も灯る。嵐の夜にも。百十人の生活が、あの灯りの上に立っている。
漁師の息子が港で手を振っていた。
おれは手を振り返さなかった。振り返す手を持っていなかった。
街道を歩きながら、考えた。
二度目は楽だった。一度目が一番重い。二度目には手順がある。手が覚えている。報告書の文面が、前回よりも早く出てきた。三度目があれば、もっと楽になるだろう。それが恐ろしいはずだった。だが恐怖すら、前回ほどではなかった。
もう一人の嘘ではない。班員を巻き込んだ。あの若い騎士は今、おれの二歩後ろを歩いている。おれと同じ沈黙を抱えて。おれの沈黙が、もう一人の沈黙を作った。
この男は次の異動で別の班に移るだろう。おれの班にはいられない。沈黙を共有した人間と、同じ班で任務を続けることはできない。互いに何も言わない。だがその「言わなさ」が、重くなりすぎる。
いずれ、この男は選ぶだろう。報告するか、黙り通すか。おれにはどちらも強いられない。もう遅い。
条件を考えた。
去年の冬、山を下りながら考えていた。今回もそうだった。歩きながら考える。足が動いている間に、頭が整理をする。
なぜ書けたのか。書ける集落と、書けない集落がある。北の山裾では——遺物は温かいだけだった。住民は何も知らなかった。違反は軽かった。今回は——灯りだった。光っているだけだった。住民は遺物だと思っていなかった。百十人は多い。だが灯りは灯っているだけだ。何かを作り変えているわけではない。何かを動かしているわけではない。ただ、光っている。
おれの中で、何かが形になりつつあった。
違反が軽微であること。
住民が無知であること。
遺物が受動的であること。
三つだ。
この三つが揃えば——おれは書ける。書いてもいい。制御できている。条件がある。条件の中で動いている。条件の外には出ない。出なければ、おれは嘘をつく男ではない。判断をする男だ。
暖房は温かくなるだけだ。灯りは光るだけだ。入ってきたものと出ていくものが同じ。何も変えない。何も動かさない。受動的な遺物。住民はそれを遺物だと知らない。知らなくていい。知らないほうがいい。
そういう集落なら——おれは書ける。
——そう思った。ルールがある限り、おれは制御できている。
街道の先で、班員の背中が小さくなっていた。
まだ、そう信じていた。




