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聖騎士は報告書に嘘を書く——集落を滅ぼす命令の裏で  作者: 蒼月よる


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2/6

石の箱

 冬だった。


 北の山裾に、集落があった。


 人口六十。石造りの家が山裾に寄り添うように並んでいた。十軒足らず。冬の空気が刺すように冷たく、吐く息がすぐに白くなった。道は凍っていた。馬の蹄が滑って、何度か止まった。


 おれは班長だった。三十一。班長になって二年になる。部下が三人いた。おれを含めて四人。処理班の標準編成。


 ただし、今回は処理ではない。査定だった。遺物の使用が報告され、現地調査に入る段階。査定の結果を報告書に書く。処理が必要かどうかは、その報告書で決まる。


 決めるのは上だ。だがおれの報告書が、決定を左右する。班長になってから、そのことの重さを知った。二番手のときは知らなかった。命令に従うだけでよかった。今は、おれが書いた文字がそのまま上に届く。


 五年前の北東の山地以来、おれは何度も査定に出た。何度も報告書を書いた。処理を推奨、と書いた。証拠十分、と書いた。正しい文字を、正しく書いた。——あの目が紙の上にいても。


 山道を登った。風が冷たかった。北の冬は乾いていて、風に水分がない。肌が切れるような空気だった。樹木の葉は全て落ちて、灰色の枝が空に伸びていた。枝の隙間から空が見えた。鉛色だった。雪はまだ降っていなかったが、雲の下端が山の頂きにかかっていた。近いうちに降る。


 その向こうに、煙が見えた。


 薄い煙だった。薪の煙のように白くない。もっと軽い。空気が揺らいでいるだけのようだった。煙突から出ているが、煙突の上で消えている。


 集落が見えた。


 小さかった。斜面の下に、石造りの家が固まっていた。灰色の壁。灰色の屋根。灰色の空。全部が同じ色だった。冬の山裾は色を吸い取る。家と家のあいだが狭い。寄り添うように建っていた。風を避けるためだろう。壁と壁が近い場所は、少しだけ温かい。


 どこかで子供の声がした。二つか三つ。薄い声だった。冬の空気は音を遠くまで運ぶ。声だけが、灰色の景色の中で温度を持っていた。


 家の前で女が洗い物をしていた。素手だった。赤い手で布を絞っていた。冷たいはずだ。だが手を止めなかった。


 おれは馬を降りた。部下たちも降りた。


「査定に入る。手順通りだ」


 おれの声だった。おれが命令を出した。五年前は班長の後ろで頷いていた。今は自分が前に立っている。声の出し方が変わった。低く、短く、感情を消して。班長の声は制度の声だった。おれもそうなった。


 集落に入った。


 近くで見ると、家々の古さがわかった。石壁のあちこちに苔が生えていた。屋根の石板が何枚かずれていた。修理する余裕がないのか、木の板で塞いであった。道は舗装されていない。土の道だった。凍った土が足の下で硬かった。


 住民は協力的だった。何も隠していなかった。隠すものがあると思っていなかった。聖騎士が来たことに緊張はしていたが、恐怖はなかった。調査に来ただけだ、と説明した。住民は頷いた。男が一人、おれたちを案内すると言った。素朴な顔をしていた。遺物のことを聞くと、首をかしげた。


「遺物? ああ、石の箱のことかい。あれは昔からあるやつだ」


 昔から。先祖の代から。それ以上のことは知らない。知る必要がなかった。


 遺物は三つあった。


 最初の家に入った。戸を開けた瞬間に空気が変わった。外は凍りついているのに、中は温かかった。暖炉はない。薪もない。煙の匂いもない。部屋の隅に石の箱があった。膝丈ほどの高さで、蓋はない。灰色の石を積んだだけの箱。


 手をかざすと、温かかった。冬の空気の中で、その箱の周囲だけが別の季節だった。石の表面に手を近づけるほど温度が上がる。だが石自体は赤くない。光ってもいない。ただ温かい。


 二軒目にも同じものがあった。形が少し違う。角が丸い。だが手をかざせば同じだった。温かい。


 三軒目。同じ。


 住民は「先祖が残した石の箱」だと言った。遺物だとは思っていない。暖房だとも思っていない。冬に温かいものが部屋にある。それだけだった。山裾の冬は長い。この箱がなければ、凍える。六十人のうちの何人かは、冬を越せない。それだけの話だった。


 三軒目の家を出た。部下が報告をまとめていた。遺物の種類と数。配置。住民の認識。手順通りに。おれは頷いた。頷いて——何かがひっかかった。


 胸のあたりだった。物理的な感覚ではない。だが喉と胸の間に、小さな何かがつかえているような気がした。


 五年前のことを思い出していた。


 いや——思い出していた、という言い方は正しくない。五年間ずっと覚えていた。忘れたことがない。ただ、この瞬間に、それが表に出てきた。


 あの目だった。


 だが今まで、おれはそれを無視できた。任務だ。命令だ。手順通りだ。正しい文字を正しく書く。処理を推奨。証拠十分。任務完了。あの目が紙の上にいても、手は動いた。正しい文字を書くことに、躊躇はなかった。


 ——なかったはずだった。


 三軒目の家を出て、空を見上げた。灰色だった。雲が低く、山裾を覆っていた。寒かった。手袋の中の指が冷たかった。


 老婆がいた。


 三軒目の家の隣だった。石の壁に寄りかかるように座っていた。椅子ではない。石の台の上に、毛布を敷いて座っていた。その横に——石の箱があった。四つ目の箱。報告には含まれていない。個人のもののようだった。


 老婆の手は関節が曲がっていた。指が伸びきらない。石の箱の上に両手を置いて、温めていた。曲がった指が箱の縁をつかんでいた。


 おれに気づいた。顔を上げた。


「ああ、お騎士さまかい」


 穏やかな声だった。警戒がなかった。聖騎士の鎧を見ても、怖がらなかった。


 おれは頷いた。


「調査で来ている」


「そうかい、そうかい。大変だねえ、こんな寒い日に」


 老婆は笑った。歯が何本か欠けていた。しわの深い顔が、笑うとさらにしわが増えた。


「この箱がなかったら、冬は越せないねえ」


 笑いながら言った。悪気はなかった。当たり前のことを、当たり前に言っていた。この箱が何なのかを知らない。先祖が残した温かい石。それだけだった。


 おれは老婆の手を見ていた。曲がった指。節くれだった関節。石の箱の縁をつかんでいる手。この手はもう、まっすぐには伸びない。冬が来るたびに、この箱の温もりに手を置く。そうやって何十年も冬を越してきた。この箱が何であるかなど、一度も考えたことがない。温かい。それで十分だった。


 おれは何も答えなかった。頷いて、その場を離れた。背を向けたとき、老婆の声が追いかけてきた。


「気をつけてお帰りよ。道が凍っているからねえ」


 振り返らなかった。


 宿に戻った。


 集落の中にある宿ではない。山裾を少し下ったところに、巡回騎士用の小屋がある。石造りで、暖炉がある。ここには遺物はない。薪を燃やして暖を取る。普通の暖かさだった。遺物の箱の、あの不思議な温もりとは違う。


 部下たちは別の部屋にいた。報告をまとめている。おれは一人で机に向かった。蝋燭に火を灯した。報告書の用紙を広げた。白い紙。罫線が引いてある。査定結果を書く欄。遺物の種類、数量、使用状況、住民の認識。その下に、班長の所見。ここにおれが何を書くかで、六十人の命が決まる。


 筆を持った。


 処理を推奨。


 いつも書いている四文字。手が覚えている。頭で考えなくても、筆が動く。何十回と書いてきた文字だ。手順通りの、正しい文字。


 ——書けなかった。


 筆が紙に触れる寸前で、止まった。指が動かなかった。


 あの目が見えた。


 紙の上に。白い紙の上に、あの四歳の目があった。五年前と同じ目だった。暗がりの中で、おれを見ていた目。理解しようとしていた目。五年間、何十回と報告書を書くたびに見えていた目。今まで——今までは、それでも書けた。正しい文字を正しく書くことに、躊躇はなかった。あの目が見えていても、手は動いた。


 だが今日は動かなかった。


 何が違うのか。


 老婆の手だった。あの曲がった指が目の前にあった。石の箱の縁をつかんでいた手。「この箱がなかったら、冬は越せないねえ」と笑った顔。


 おまえはまた書くのか。


 声は聞こえない。目が言っていた。おれの手を見ていた。筆を持つ手を。この手で、また——


 手が震えた。


 筆を持つ手が震えた。小さく。だが確かに。震えは指先から始まって、手首まで広がった。筆の先が紙に触れて、黒い点がついた。処理を推奨の「処」の字の、最初の一画にもなれない点。


 おれは筆を置いた。


 両手を膝の上に置いた。机の上の紙を見た。白い紙。罫線。黒い点が一つ。


 信仰をなくしたからではない。


 教義を疑ったからでもない。おれは騎士だ。教義を疑ったことはない。今も疑っていない。


 だが——あの目を、もう一度見ることに耐えられなかった。


 あの老婆の手が目の前にあった。曲がった指。石の箱の縁をつかむ手。この報告書に「処理を推奨」と書けば、あの手は箱から離れる。永久に。六十人の全員が、この冬で終わる。


 ——おれは何を見ているのか。


 騎士は見ない。騎士は書く。査定結果を書く。事実を書く。判断は上がする。おれの仕事は事実を正確に書くことだ。


 だが事実とは何だ。


 遺物が三つある。石の箱の形をしている。熱を発している。住民は遺物だと知らない。先祖が残した石の暖房具だと思っている。——ここまでは事実だ。


 おれは筆を取った。


 手が震えていた。構わなかった。


 書いた。


 「先祖代々の石造りの暖房具」。そう書いた。「遺物との同定は証拠不十分」。そう書いた。


 嘘ではない。


 そう自分に言った。住民は遺物だと思っていない。石の箱は古く、表面は風化している。旧文明の加工痕は——ある。あるが、断言できるほどではない。遺物との同定が確実とは言い切れない。だから証拠不十分。


 嘘ではない。書かなかっただけだ。手をかざせば温かかったこと。暖炉も薪もないのに部屋が温かかったこと。それを書かなかっただけだ。


 四文字だった。


 証拠不十分。


 その四文字を書くのに、どれだけの時間がかかったのかはわからない。蝋燭が短くなっていた。長かったのだと思う。わかっているのは、書いた後に——手がまだ震えていたことだ。


 紙の上の目が消えた。


 書き終えた途端に消えた。あの四歳の目が、紙の上からいなくなった。代わりに残ったのは、黒い文字だけだった。証拠不十分。おれの手が書いた文字。おれの筆跡。


 筆を置いた。


 両手を見た。まだ震えていた。蝋燭の光の中で、指先が小さく揺れていた。この手で書いた。この手が書き換えた。処理を推奨の代わりに、証拠不十分と。


 報告書を畳んだ。封をした。手が震えたまま、封蝋を押した。赤い蝋が紙の上に落ちて、固まった。


 翌日、報告書を提出した。


 何事もなく受理された。


 誰も確認しなかった。誰も疑わなかった。班長の報告書は、そのまま通る。査定結果は記録され、処理は見送りになった。六十人の集落は、来年の冬も石の箱で暖を取る。


 恐ろしかった。


 嘘をついたことが恐ろしいのではない。嘘がこんなに簡単だったことが恐ろしかった。四文字。たったそれだけだ。おれの手が四文字を書き換えただけで、六十人が生きる。報告書の紙一枚が、命と死のあいだに立っている。


 おれはその紙を書く手を持っている。


 その夜、眠れなかった。暖炉の薪が爆ぜる音を聞きながら、天井を見ていた。暗い天井だった。石の天井。冷たい石。集落の家の天井は、石の箱のおかげで温かいのだろう。


 集落を去った。


 山裾を下りた。冬の空気が冷たかった。部下たちは何も知らない。いつも通りの査定任務だった。班長が報告書を書き、提出し、上が判断する。手順通りだった。


 おれだけが知っていた。


 ポケットの中に報告書の控えがあった。衣の下で、紙が肌に近い温度を持っていた。「証拠不十分」の四文字が、布越しに触れていた。


 老婆の手を思い出した。石の箱の縁をつかんでいた、曲がった指。あの手は今も箱の上にある。来年の冬も、その次の冬も。おれが四文字を書き換えたから。


 山を下りながら、考えていた。


 次があるのか。


 嘘は一度で終わるのか。今回は——通った。六十人。遺物は暖房が三つ。住民は無知で、遺物は静かに温かいだけだった。条件が揃っていた。だが次も同じ条件とは限らない。


 まだ、言葉にはならなかった。何をもって「許せた」のか、自分でもわからなかった。あるのは感覚だけだった。この集落は、許容できた。自分の中の何かが、この嘘を受け入れた。


 遺物は石の箱で、ただ温かいだけだった。住民は何も知らなかった。六十人は静かに冬を越していただけだった。——だからおれは書けた。


 だが——次は。次も同じ条件とは限らない。


 山道を下りた。枯れた木の枝が頭上で鳴っていた。風が冷たかった。部下たちの足音が後ろに続いていた。誰も何も言わなかった。いつもと同じ帰り道だった。彼らにとっては。


 手を見た。


 手袋を外して、手を見た。震えは止まっていた。さっきまで震えていた手が、今は何事もなかったように静かだった。この手で報告書を書いた。四文字を書き換えた。その手がもう震えていない。


 その手が、もう知らない手に見えた。


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