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聖騎士は報告書に嘘を書く——集落を滅ぼす命令の裏で  作者: 蒼月よる


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1/6

崩れた壁

 秋の終わりだった。


 山地に入って三日目。道は狭く、馬は使えなかった。おれたちは徒歩で登った。石と枯葉を踏む音だけが続いた。朝から歩いていた。空気が冷たく、吐く息がわずかに白んでいた。


 班長が前を歩いていた。おれはその背中を見ていた。大柄な男だった。おれより十は上で、処理班の班長を何年やっているのかは知らない。この男の名前は書かない。もう死んだ。理由も書かない。


 他の班員が二人、後ろにいた。四人。処理班の標準編成。


 任務だった。

 旧文明の遺物——使用を禁じられた技術の残滓。それを使っている集落が報告され、査定が済み、命令が下りた。おれは二番手だった。二十六。処理班に入って四年になる。初めての処理は二十二のときで、それから何度目かの任務だった。覚えていないのは、数えなかったからだ。数える意味を知らなかった。


 山道が緩やかになった。樹木の密度が下がった。風が変わった。谷から吹き上げてくる風に、人の暮らしの匂いが混じっていた。煙と、家畜と、穀物を煮る匂い。


 視界が開けた。谷の向こう側に斜面が見えた。


 集落があった。


 石造りの家が斜面に沿って並んでいた。十軒か、もう少しか。灰色の石壁に木の屋根。煙突から白い煙が上がっていた。薪の匂いが風に乗ってきた。秋の終わりの薪は、少し湿っている。煙が重く、低く流れていた。


 どこかで犬が吠えた。一声、二声。それきり止んだ。


 洗濯物が風に揺れていた。石壁の間に渡された紐から、布が下がっていた。白い布、灰色の布、茶色い布。風が吹くたびに膨らんで、しぼんだ。


 遠くから子供の声が聞こえた。二つか三つ、重なっていた。何を言っているかはわからなかった。笑い声だったかもしれない。ただ声だけが山の空気を抜けて、おれたちのいる尾根まで届いた。


 八十人。

 それがこの集落の人口だった。報告書に書いてあった。


 班長が足を止めた。尾根の端、木の陰。集落を見下ろす位置だった。


「見えたな」


 おれは頷いた。


 班長が振り返った。表情はなかった。いつもなかった。この男の顔から感情を読んだことは、四年のあいだ一度もない。あるのかもしれない。だがおれには見えなかった。


「段取りを確認する」


 班長の声が命令を復唱した。査定結果。遺物の種類と数。使用されていた場所。集落の配置——家屋の位置、道の幅、袋小路の有無。住民の行動パターン——朝は畑に出る、夕方に戻る、子供は日中は家の外にいることが多い。退路。


 おれは聞いていた。聞きながら、別のことは何も考えていなかった。手順だった。訓練と同じだった。教練場で何百回と繰り返した段取り。実地ではそれを地形に合わせて微調整する。手順に従えばいい。感情は要らない。


 下の集落では、誰かが戸口に出て空を見上げていた。天気を確認しているのだろう。雲が低く、明日は雨かもしれなかった。その人間は空を見て、家の中に戻った。戸が閉まった。


 おれは石壁の影から、その戸を見ていた。何も思わなかった。任務の対象だった。八十人のうちの一人だった。


「処理に入る。手順通りだ」


 おれは頷いた。他の二人も頷いた。


 集落を見下ろした。八十人。少なくはない。だが多くもない。報告書の数字だった。それ以上の意味を、おれは読み取らなかった。煙突から煙が上がっていた。薪の匂いが、風に乗って上がってきた。


 ——処理の詳細は書かない。


 書けないのではない。覚えている。覚えているが、書かない。いつかそれを語る日が来るかもしれないが、今日ではない。


 訓練がそうさせた。身体が動いて、頭は止まっていた。手が何かを握っていた。何を握っていたかは覚えている。足が地面を蹴った。走った。斜面を下りた。石畳を踏んだ。戸を開けた。声を出した。


 声が聞こえた。

 おれの声ではない声が。


 声が遠くなった。


 時間がどれだけ経ったのかはわからなかった。長かったような気もするし、短かったような気もする。訓練は時間の感覚を消す。手が動き、足が動き、目が動き、それが全てだった。判断はあった。ただし思考はなかった。訓練が判断を自動にする。考える必要がないように、何百回と繰り返したのだから。


 音があった。さまざまな音があった。


 それから、音が減っていった。一つずつ。段階的に。犬の声が止まった。子供の声が止まった。大人の声が止まった。走る足音が止まった。何かが倒れる音がして、それも止まった。


 風の音だけが残った。


 静かだった。


 何の音もしなかった。さっきまで音があった場所が、何も聞こえなくなっていた。犬も鳴かない。鳥も飛ばない。虫もいない。風の音だけがしていた。


 おれは立っていた。集落の中央あたりだった。石畳の上に立っていた。足元に何かがあった。見なかった。


 煙が出ていた。


 さっきの煙とは違う煙だった。色が違った。匂いが違った。薪の煙は白くて軽い。この煙は灰色で、重くて、地面を這うように広がっていた。


 匂いがあった。知らない匂いだった。知らないはずの匂いだった。


 だが身体が知っていた。


 身体のほうが先に知っていて、おれの膝が折れた。


 地面に手をついた。石畳の冷たさが掌に触れた。秋の終わりの石は冷たい。その冷たさだけが、はっきりとした感覚だった。膝が地面に触れていた。両手が地面に触れていた。頭が下がった。


 吐くかと思った。吐かなかった。胃の中は空だった。朝から何も食べていなかった。


 立ち上がった。


 時間がかかった。膝に力が入らなかった。二度、手をついて、三度目に立った。


 自分の手を見た。


 大きい手だった。無骨で、指が太くて、訓練で硬くなった掌。七歳から訓練を始めて、十九年この手を使ってきた。剣を握った手。薪を割った手。飯を作った手。さっきまで何かを握っていた手。


 おれの手だった。


 そのとき初めて、おれは自分が何をしたのかを理解した。命令を遂行しているあいだは、考えていなかった。訓練がそうさせる。身体が動いて、頭は止まっている。終わった後に、頭が動き出す。


 動き出すと、止められない。


 おれは手を下ろした。手の甲に何かがついていた。拭った。衣の裾で拭った。取れたかどうかはわからなかった。もう一度拭った。裾が汚れた。取れたかどうか、まだわからなかった。


 暗くなっていた。秋の終わりの山地は、日が沈むのが早い。煙と薄闇がまじって、集落の輪郭がぼやけていた。さっきまで見えていた洗濯物の白が、もう見えなかった。


 班長の声がした。遠くから。いや、近くから。距離の感覚がおかしくなっていた。


「確認作業に入る。漏れがないか見て回れ」


 おれは動いた。命令には従える。身体が命令の形に動く。考えなくていい。従うことだけは、まだできた。


 集落の端を歩いた。家と家の間を通った。足元を見なかった。前だけ見た。壁と屋根と空を見た。さっきまで風に揺れていた洗濯物が、まだ揺れていた。持ち主はもういなかったが、風は知らなかった。布は膨らんで、しぼんで、何事もなかったように揺れ続けていた。


 壁が崩れていた。


 家の壁だった。石と土の壁が半分落ちていた。処理のときに崩れたのか、元から古かったのか、わからなかった。石が散らばっていた。土埃がまだ薄く漂っていた。壁の断面から、土と藁を混ぜた内側が見えていた。


 おれはその横を通り過ぎようとした。


 止まった。


 何かが見えた。崩れた壁の下に。石のひさしがかぶさって、空間ができていた。壁が斜めに倒れて、下に三角形の隙間を作っていた。大人は入れない。子供でも這わなければ入れない大きさだった。暗かった。


 だが何かがいた。


 動いた。小さく。


 おれは瓦礫をどけた。石を持ち上げて、横に置いた。重かった。だが持てた。もう一つ。もう一つ。手が動いた。頭で考える前に手が動いていた。さっきまで別のことに使っていた手が、今度は石をどけていた。庇を支えている大きな石を慎重にずらした。崩れないように。空間が広がった。


 子供がいた。


 四つくらいだった。小さい体が石の空間に収まっていた。膝を抱えて、座っていた。


 無傷だった。


 八十人の集落で。処理が終わった後に。この子供だけが、石の下の空間に守られて、傷一つなく座っていた。埃が髪についていた。頬にも土がついていた。だが血は出ていなかった。


 おれは手を伸ばした。抱き上げようとした。


 子供はおれの手を見た。


 おれの手。さっき拭った手。さっき何かを握っていた手。その手が、子供のほうに伸びていた。


 子供が顔を上げた。


 おれの顔を見た。


 泣かなかった。


 叫ばなかった。


 ただ、こちらを見ていた。


 おれの顔を。おれの手を。おれの目を。


 四歳の目が、おれを見ていた。暗がりの中で、その目だけがはっきりと見えた。顔の形は覚えていない。髪の色も覚えていない。男か女かも——暗かったから、よくわからなかった。四つくらいだということだけ。


 ただ、目だけを覚えている。


 理解しようとしていた。


 四歳の頭で、この場所で起きたことを。静寂を。煙を。匂いを。さっきまで聞こえていた声がなぜ聞こえなくなったのかを。そして目の前にいるこの大きな男が何者なのかを。この男の手が何をしてきたのかを。


 全部を、理解しようとしていた。


 理解できるはずがなかった。四歳だ。だがあの目は——理解できないことを理解しようとする目だった。諦めていない目だった。泣くことも叫ぶことも忘れて、ただ見ている目だった。


 おれは何も言えなかった。手を伸ばしたまま、動けなかった。子供の目がおれを見ていた。おれの手を見ていた。この手が何をしたかを、この子供は知らない。知らないはずだった。


 だが目は知っているように見えた。四歳の目が、おれの手の上にあるものを見ていた。


 拭ったはずだった。


 おれは子供を抱き上げた。軽かった。人間がこんなに軽いのかと思った。七歳の訓練生でさえもっと重い。この子供は、おれの両腕の中にすっぽり収まって、重さをほとんど感じさせなかった。


 腕の中で、子供は暴れなかった。泣かなかった。声を出さなかった。ただおれの顔を見上げていた。あの目で。至近距離で。おれの顎の下から、おれの目を見ていた。


 おれは歩いた。子供を抱いたまま、班長のいるほうへ歩いた。子供の体温が腕に伝わっていた。温かかった。この集落で温かいものは、もうこの子供だけだった。


 足が重かった。子供は軽いのに、足が重かった。


 班長が来た。おれの腕の中を見た。


「生存者か」


 おれは頷いた。声が出なかった。


「処理後の孤児は騎士団が引き取る。規定だ」


 班長の声にはいつもと同じ温度があった。温度がないという温度。特別なことは何もない。処理後に生存者がいることは、稀だが前例がないわけではない。手順がある。規定がある。


 おれは子供を班長に渡した。


 渡す瞬間、腕の中の重さが消えた。子供の目がおれから離れた。班長の顔を見た。そしてまた、おれの顔に戻った。


 班長の腕に移っても、あの目はおれを見ていた。


 腕が軽くなった。空になった。あの手で子供を抱いて、その子供を手放した。腕の中に残ったのは、軽さだけだった。人間一人分の重さが消えた後の、空白。


 名前も知らない。男か女かもわからない。四つくらいだということだけ。それと——あの目。


 集落を去った。


 振り返らなかった。班長も他の班員も、何も言わなかった。通常業務だった。山道を下りた。石と枯葉を踏む音が続いた。来たときと同じ音だった。四人の足音。同じ道。同じ枯葉。行きと帰りで、何も変わっていなかった。


 おれだけが、何かが違った。


 何が違うのかはわからなかった。任務を遂行した。命令に従った。訓練通りだった。間違ったことはしていない。手順に不備はなかった。報告書には「処理完了。生存者一名。規定に従い騎士団に引き渡し」と書けばいい。事実だ。嘘はない。


 だが——手を見た。


 何も持っていない手だった。拭った後の、何もない手だった。歩きながら、おれはその手を見ていた。暗くなっていく山道で、自分の指の輪郭だけが薄く見えていた。


 何かが植わった。


 あの子供の目が、おれの中の、どこか深いところに入り込んだ。名前はなかった。まだ名前のつかない何かだった。痛みでもない。罪悪感でもない。信仰が揺らいだのでもない。教義を疑ったのでもない。もっと小さくて、もっと硬くて、言葉にならない場所にある何かだった。種のようなものだった。土の中に落ちて、見えなくなったが、消えてはいない。


 おれは歩いた。黙って歩いた。枯葉を踏んだ。


 五年のあいだ、あの目が消えなかった。


 任務をこなした。命令に従った。処理班の二番手から班長に上がった。二十九だった。報告書を書くのが、おれの仕事になった。


 日常は変わらなかった。朝起きて、訓練して、飯を食い、任務に出た。手順通りに。訓練通りに。


 だが——飯を作るときに、あの目を思い出した。野菜を切る手を見て、あの子供の目が浮かんだ。剣を磨くときに思い出した。刃に映る自分の指を見て、浮かんだ。


 報告書を書くときに——一番、思い出した。


 処理の報告書を書くたびに、あの目が紙の上にいた。筆を持つ手の上に、あの目があった。文字を書くおれの手を、あの子供が見ていた。おまえは何を書いているのか、と。おまえの手で、また——


 五年のあいだ、何十回と報告書を書いた。処理を推奨、と書いた。証拠十分、と書いた。任務完了、と書いた。全部、正しかった。手順通りだった。嘘はなかった。


 だがあの目は、正しさの上に座っていた。おれが正しい文字を書くたびに、おれを見ていた。


 おれは鈍い。すぐには壊れない。五年、壊れなかった。


 ——六年目の冬、おれは初めて報告書に嘘を書いた。


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