エピソード8 約束の地、再会の魔法
フランス、アルザス地方。
石畳の道と木組みの家が並ぶ美しい村の片隅に、かつての天才パティシエ、ジャン・ピエールはいた。
「お父さん……!」
シャロンの声に、小さな工房の椅子に座っていた男がゆっくりと振り返った。
かつての精悍な面影はあるものの、その瞳にはどこか諦念の影が差している。
「シャロン……。それに、キミがショウコか。わざわざこんなところマデ……」
再会を喜ぶ間もなく、ジャンは自嘲気味に笑った。
「セッカク来てくれたガ、ナニももてなせなくてスミマセン。今のワタシには、砂糖の甘さモ、バターの香りモ、泥のようにしか感じられないンダ。味のわからぬ職人ナンテ、ただの抜け殻ダヨ」
ジャンは、使い古されたボウルやホイッパーを寂しそうに見つめた。
味覚障害という呪縛は、彼の職人としての魂を凍りつかせていた。
「……いいえ。魔法は、まだ解けていません」
静かな、だが決然とした声で翔子が言った。
彼女はシャロンと目配せをし、持参した保冷バッグから「あるもの」を取り出した。
「お父さん。今の私の味……いいえ、日本で待ち続けているお母さんの名前を冠した『樹』の味を、食べてください」
シャロンが差し出したのは、フランスへ向かう直前に焼き上げ、大切に運んできた『プロメス』だった。
ジャンは力なく首を振った。
「ムダだよ、シャロン。ワタシにはもう――」
「味覚で食べないでください」
翔子が遮る。
「思い出で、心で食べてください。お父さんがお母さんのために作った、あの日の記憶を。そして、お父さんが私に託してくれた『約束』を!」
ジャンは震える手で、その一切れを口に運んだ。
最初は、何も感じなかった。
しかし、ゆっくりと咀嚼するうちに、鼻腔を抜ける香りが彼の記憶の扉を叩いた。
それは、若き日に日本で出会った妻・樹の、穏やかな微笑みの香り。
幼いシャロンが、小さな手で小麦粉をこねていた時の、温かな光の匂い。
「……ッ、これは……」
ジャンの目から、熱いものが溢れ出した。
味覚という神経を超えて、シャロンと翔子が積み重ねてきた「想い」が、彼の凍てついた心を溶かしていく。
「バニラの……わずかなニガミ。そして、キンモクセイの……ニッポンの、秋のカオリか。……ああ、ワカル。ワカルよ、シャロン」
彼が感じたのは「味」だけではなかった。
自分のレシピを単に再現するのではなく、新しい解釈を加え、翔子という相棒とともに店を守り抜いてきた娘の、揺るぎない「強さ」だった。
「ゴメンナサイ……。ワタシは、自分のホコリばかりを気にしテ、シャロンたちが繋いでくれた愛を見失っていたヨ」
ジャンは立ち上がり、数ヶ月ぶりにホイッパーを手に取った。
その手は、もう震えていなかった。
「シャロン、ショウコ。……手伝ってくれルカ? 今のワタシにしか作れナイ、新しい『樹』の味ヲ、ここで完成させタイ」
「はい、シェフ!」
二人の少女と、一人の天才。
小さな工房は、瞬く間に芳醇な香りと、笑顔に包まれていった。
一ヶ月後。
東京、路地裏の喫茶店「樹」。
そこには、シャロンと翔子、そしてフランスから帰国したジャンの姿があった。
ジャンは店の奥で、かつてのように楽しげに生地を練っている。
入り口の黒板には、翔子の手でこう記されていた。
> 『おかえりなさい。私たちの魔法は、海を越えてもっと強くなりました。
> 今日のおすすめは「再会のガトー」。大切な誰かと、半分こして食べてください。』
>
店は満席だった。
窓際の席では、高城が満足げにコーヒーを啜りながら、忙しく立ち働く娘の姿を、誰にも気づかれないような優しい目で見つめていた。
シャロンと翔子。
職人と軍師。
二人の少女が紡いだ物語は、これからも多くの人々の心に、温かな「魔法」をかけ続けていく。
喫茶店「樹」の新メニュー
「再会のガトー」
大切な誰かと半分こして食べて下さい…
シャロンの喫茶店 完
あとがきにかえて…
ジャンが戻ってやっと一区切りつきました。
でも頑張る女の子ストーリーはこれからが本番です。
シャロンや翔子のエピソードをスイーツと共に描いていきますので、よかったら、またお付き合い下さいませ。




