エピソード7 約束の香りと、父の背中
裏庭から掘り出した「秘密のエッセンス」と、シャロンが守り続けてきた父のレシピ。
それらが融合し、喫茶店「樹」の厨房からは、これまで体験したこともないような芳醇な香りが漂っていた。
「寝かせ時間は……あと三十分。シャロンさん、準備はいいですか?」
「ええ。オーブンの温度も完璧よ。翔子ちゃん、いよいよだね」
焼き上がった新作、『プロメス(約束)』。
それは、幾層にも重なるアーモンドの香りと、熟成された洋酒の余韻が喉の奥で踊る、宝石のようなパン・ド・ジェンヌだった。
一口食べれば、まるでフランスの古い街並みに迷い込んだような錯覚に陥る。
翔子がこの物語をSNSに投稿すると、反応は爆発的だった。
「音信不通の父から届いたレシピ」というドラマ性は、人々の好奇心と食欲を、これ以上ないほどに刺激したのだ。
開店と同時に、路地裏には長い列ができた。
行列の中には、都内から駆けつけた有名なスイーツブロガーや、かつて父ジャンのファンだった年配の夫婦の姿もある。
「美味しい……。これ、本当にピエールの……ジャンの味だわ」
「いいえ、奥様。ジャンさんの味をベースに、さらに優しさが加わっている。これは娘さんの味ですよ」
客たちの称賛の声に、シャロンの頬が赤らむ。
その活気あふれる店内の一角。
深く帽子を被り、眼鏡をかけた初老の男性が、静かに『プロメス』を口に運んでいた。
変装は完璧だった。だが、翔子の目は誤魔化せない。
その背筋の伸び方、フォークを持つ指の動き。それは紛れもなく、彼女の父・高城だった。
「……お味は、いかがですか? お客様」
翔子がわざと事務的な声で近づき、テーブルに水を置く。
高城は顔を上げず、小さな声で、だがはっきりと言った。
「……悪くない。いや、私の計算を超えている」
「あら、大手飲食チェーンの企画部長さんが、そんな弱気でいいんですか?」
高城は苦笑し、眼鏡を少しずらして娘を真っ直ぐに見つめた。
「効率やシステムでは、この『時間』を再現することはできない。ダイナー・グローバルはこの店への買収計画を正式に撤回したよ。……これほどの味を無理に管理下に置けば、ブランド自体が死ぬと判断された」
高城は最後の一切れを惜しむように食べ終えると、立ち上がった。
「翔子。お前は私に勝ったな。……いや、シャロン君という最高のパートナーを見つけた、お前の運命の勝ちだ」
父はレジで支払いを済ませると、シャロンに向かって小さく会釈をした。
シャロンもまた、その客が誰であるかを察し、深く、深く頭を下げた。
夕暮れ時。
行列が途絶えた店内。
翔子は、父が残した領収書を眺めていた。
そこには印字された金額の横に、ペンで小さく一言だけ書き添えられていた。
『次はフランスで、ジャンを驚かせてこい。旅費は、お前の給料から出すには高すぎるだろう。……これは、私からの投資だ』
領収書の下には、航空会社のロゴが入った二名分のeチケットの控えが挟まれていた。
「シャロンさん、見てください!」
「えっ……これって……」
二人は顔を見合わせ、言葉にならない歓喜を分かち合った。
路地裏の小さな喫茶店から始まった物語は、今、国境を越えて、遠いフランスの地へと繋がろうとしていた。
「行きましょう、フランスへ。お父さんに、今の『樹』の味を届けに!」
「……うん、翔子ちゃん。一緒に行こう!」
冬の風は冷たかったが、二人の胸には、春の訪れを告げるような温かな希望が満ち溢れていた。
喫茶店「樹」からのお知らせです。
暫くお店はお休みします。
フランスに「樹」の味を届けに行ってきます。
あとがきにかえて…
書いた私が言うのもなんですが…
翔子父、格好良過ぎですね。
最初の設定は、翔子に厳しく冷酷無比な人間だったのですが…
今はこの性格(翔子ちゃん溺愛バージョン)で良かったと思ってます。




