エピソード6 遠い空からのレシピ
悪意ある書き込みの嵐を乗り越え、二人の絆がより強固になったある日のこと。
郵便受けの中に、一際目を引く青と赤の縁取りがされた封筒が紛れ込んでいた。
「シャロンさん、これ……フランスからのエアメールですよ!」
翔子の声に、厨房でカヌレを型から外していたシャロンの手が止まった。
差出人の名は、ジャン・ピエール。
シャロンの父であり、かつてこの店で母・樹とともに魔法のようなお菓子を作っていた男。
震える手で封を切ると、中には古びた便箋一枚と、少し色褪せた古い写真が一枚入っていた。
そこには、流麗な、だがどこか弱々しい筆致でこう記されていた。
> 『愛するシャロンへ。
> 長い間、音信不通だったことを許してほしい。
> 私はフランスに戻った後、職人にとって最も残酷な病――味覚障害を患っていた。
> 完璧な味を提供できない自分が、お前の母の名を冠した「樹」に戻る資格はないと思い、今日まで自分を律してきた。』
>
「そんな……お父さん……」
シャロンの瞳から涙が溢れる。
父が自分を捨てたのではなく、職人としての矜持と、母への愛ゆえに苦しんでいたことを初めて知ったのだ。
便箋の後半には、今の彼が辿り着いたという「答え」が、一編のレシピとして記されていた。
> 『今の私には、かつてのような完璧な味は作れない。だが、お前なら作れるはずだ。
> 隠し味は「時間」だ。このレシピを、お前の軍師とともに完成させてほしい。』
>
同封されていた写真には、若かりし頃の父と、幸せそうに微笑む母・樹が、まだ開店したばかりの「樹」の前で並んで写っていた。
その背景には、小さな小さな苗木が植えられている。
「シャロンさん、これ……お店の裏庭にある、あの大きなキンモクセイの木ですよね?」
「ええ……。父と母が、私の生まれた日に植えてくれた木よ」
翔子は写真の裏側に、小さなメモを見つけた。
『樹の根元を見よ』
二人は慌てて裏庭へ向かい、冬の寒さに耐えるキンモクセイの根元を掘り返した。そこには、小さな木箱が埋められていた。
箱の中に入っていたのは、フランスでも入手困難な、最高級の「バニラビーンズの原種」の種と、熟成された秘密のエッセンスだった。
「お父さんは、私たちがここを守っていることを信じて、これを残してくれたんだわ……」
「シャロンさん、お父さんのレシピ、やりましょう。ダイナー・グローバルのような大手には絶対に出せない、歳月をかけた本物の味を!」
ジャンから届いたレシピの名は、『プロメス(約束)』。
それは、数日間かけて何度も生地を寝かせ、熟成させることで、深みと香りを極限まで引き出すという…
パン・ド・ジェンヌをアレンジした「究極のフランス伝統菓子」とも言えるものだった。
翔子は即座にスマートフォンのカメラを構えた。
「シャロンさん、泣き腫らした顔を洗ってきてください! 最高の笑顔で、この『約束の味』をSNSで告知しますよ!」
遠く離れた空の下、父が娘へ託したバトン。
それは、喫茶店「樹」をただの飲食店から、唯一無二の「聖域」へと変えるための、最後の一平。
喫茶店「樹」の新メニュー
『プロメス(約束)』
アーモンドをふんだんに使ったリッチな焼き菓子、パン・ド・ジェンヌ (Pain de Gênes)を「樹」流にアレンジしました。
究極のフランス伝統菓子をどうぞお召し上がり下さい。
あとがきにかえて…
パン・ド・ジェンヌ (Pain de Gênes)
「ジェノバのパン」という意味を持つ、アーモンドをふんだんに使ったリッチな焼き菓子です。
特徴: アーモンドペースト、卵、バター、小麦粉で作られる、しっとりとしてコクのあるケーキ。マジパンが使われることもあります。
由来: 1800年代初頭のジェノバ包囲戦の際、限られた食材で栄養価の高いパンを作ろうとしたことが起源とされる歴史あるお菓子です。
作中の「何日も寝かせる…」や、「究極の…」のくだりは演出として加えていますのでお間違えなく。




