エピソード3 守りたい物
「……よし、これで完璧!」
翔子が誇らしげに掲げたのは、手書きの温かみと読みやすさを両立させた新しいメニュー表だった。
父のメモにあった「フォントが小さい」という指摘を受け、文字を大きくし、シャロンの描いたお菓子のイラストを添えたものだ。
さらに、父が指摘した「コーヒーの温度」についても、二人は試行錯誤を繰り返した。
「シャロンさん、あと2℃だけ下げて抽出してみて。カヌレのバターの甘みを、コーヒーの苦味が追いかけるくらいのバランスが理想なんです」
「2℃……。やってみるわ、翔子ちゃん!」
シャロンは、母「樹」の名を冠したこの店を、プロの視点からも認められる場所にしたいという一心で、温度計とにらめっこを続けた。
数日後。店には劇的な変化が訪れていた。
ブラインドの角度を変えたことで、店内には穏やかな木漏れ日のような光が満ち、午後のティータイムを過ごす高齢の客が一人、また一人と増えていった。
「ここのカヌレやマドレーヌは、昔フランスで食べた味を思い出すねぇ」
「あら、今日のおすすめはマドレーヌなのね!メニューの字が大きくて助かるわ!」
客たちの笑顔を見て、シャロンの表情にも自信が戻り始めていた。
そんな中、翔子のスマートフォンが震えた。
父からの短いメッセージだった。
『明日、ダイナー・グローバルの開発チームが周辺の市場調査に入る。私が行かせる形にした。変に構えるな。』
翔子は息を呑んだ。
父は「樹」を潰しに来るのではない。むしろ、会社が本格的に動き出す前に、翔子たちに「プロの厳しい目」を経験させ、対策を立てさせるための時間を稼いでくれたのだ。
翌日。
店に現れたのは、三人のスーツ姿の男女だった。
彼らは高城(父)のような静かな威圧感ではなく、獲物を値踏みするような冷ややかな視線を店内に向けていた。
「……なるほど、これが噂の『スフレパンケーキ』か」
リーダー格の男が、運ばれてきたパンケーキを無機質にスマートフォンで撮影し、一口だけ食べて横に避けた。
「味はいい。だが、この立地とキャパシティでは、うちのブランドで展開した方が効率的だな」
あからさまな買収・統合を匂わせる言葉。シャロンの手が、トレイの上で小さく震える。
その時、翔子が凛とした声で割って入った。
「効率、ですか。では、その効率には『思い出』や『歴史』の維持費は含まれているんですか?」
男は不機嫌そうに翔子を睨んだ。
「お嬢ちゃん、ビジネスに感情は不要だ。ここは我々のチェーン店の一部になれば、もっと利益が出る」
「いいえ、出ません。ここのパンケーキは、シャロンさんの父――ジャン・ピエール氏の技術と、亡き母への想いがあるからこの味なんです。あなたがたがシステムでコピーした瞬間に、この店に毎日通ってくれる常連さんは全員離れます。利益を出すどころか、ブランドを傷つけるだけですよ」
翔子の言葉には、父・高城から学んだ「マーケティングの真理」が宿っていた。
男は鼻で笑ったが、その直後、リーダーの端末に一本の電話が入った。
「……はい、部長。ええ、調査中です。……えっ? 中止ですか? 理由を伺っても……『競合他社に情報を流したスパイの疑いがある』……!? 誰がですか? ……私たちが、ですか!?」
男たちの顔色が土気色に変わった。
「失礼する!」
彼らは逃げるように店を飛び出していった。
静まり返った店内で、翔子はふぅ、と深い溜息をついた。
父が裏で動いたのだ。
部下たちを「スパイ容疑」という無理な名目で呼び戻し、ダイナー・グローバルの攻勢を強制的にストップさせたのだ。
「翔子ちゃん……今の、何だったの?」
「……さあ? でも、これでしばらくは静かになるはずですよ」
翔子は窓の外を見やった。
遠くで、見覚えのある黒いセダンがゆっくりと走り去っていくのが見えた。
「シャロンさん、今日は早めに閉めて、新しい焼き菓子の試作をしませんか? お父さんの思い出の味、もっともっと広めていきましょう」
「うん! 私、頑張る。お母さんのこの店を、絶対守り抜くわ」
二人の絆は、大手企業の冷たい論理をも跳ね返すほどに強まっていた。
しかし、翔子は知っていた。父がいつまでも守ってくれるわけではないことを。
次に父が来るときは、おそらく「敵」としてではなく、「この店を認めた一人の客」として、さらに高い壁を提示してくるはずだ。
喫茶店「樹」の珠玉のフランス焼き菓子
コーヒーや紅茶に合う、本格的な焼き菓子です。
季節のマドレーヌ
春は桜、夏はレモンなど、店主の優しい感性が光る一品
あとがきにかえて…
喫茶店「樹」の由来
店名は、若くして亡くなったシャロンの母親の名前「樹」から取られたもの。
シャロンの父ジャンが、愛する妻がいつでも安らげる場所として、そして彼女の生きた証として名付けました。
シャロンにとって、この店を守ることは「母の居場所」と「父との絆」の両方を守ることを意味しています。




