エピソード2 父と娘の無言の会話
「樹」の看板メニュー、フワフワのパンケーキと伝統的なカヌレがSNSで話題になり始めて一週間。
路地裏にひっそりと佇んでいたこの店には、これまでにない活気が生まれていた。
「シャロンさん、Bテーブル、追加でフィナンシェとブレンド二つ入りました!」
「は、はい! すぐに準備しますっ」
シャロンが厨房で忙しく動き回る中、翔子は制服の袖を少し捲り、テキパキと注文をさばいていく。
メイド服を着る余裕などないという経営状況が生んだ「現役女子高生が働く店」という図式は、図らずも店に新しい客層を呼び込んでいた。
そんな喧騒が少し落ち着いた午後二時。
カランコロン、とドアベルが鳴り、一人の男が入ってきた。
仕立ての良いダークグレーのスーツに身を包み、目つきは鋭いが、どこか品格を漂わせている。
男は入り口に立つ翔子を一瞬だけ見ると、すぐに目を逸らし、一番隅の目立たない席に座った。
「……ご注文、お決まりですか?」
翔子が平静を装ってメニューを差し出す。
その男、高城――翔子の実の父親は、メニューも見ずに静かに言った。
「カヌレ一つ。それと、コーヒーを」
「かしこまりました」
翔子の背筋に緊張が走る。
父がここに来ることは予想していた。だが、これほど早く、しかも客として現れるとは。
厨房へ戻ると、シャロンが不安そうに小声を漏らした。
「ね、ねえ翔子ちゃん。あのお客様、すごく厳しそうな雰囲気だけど……私のカヌレ、気に入ってもらえるかな?」
「大丈夫ですよ。シャロンさんのカヌレは、世界一なんですから。自信を持って出してください」
翔子はシャロンの背中をポンと叩く。
自分に言い聞かせるような言葉だった。
運ばれてきたカヌレを、高城は無言でナイフで割った。
外側のカリッとした音、中のしっとりとした質感。
一口食べ、コーヒーを啜る。その動作に無駄はなく、まるで一流の査定員のようだった。
十五分後。男は伝票を持ってレジへ向かった。
翔子が会計をする間、二人の間に会話はない。
ただ、小銭を受け渡す指先がかすかに触れたとき、高城はボソリと呟いた。
「……焼き加減は悪くない。だが、コーヒーの温度がわずかに高い。これではバターの香りを殺してしまう」
「っ……」
言い返す間もなく、高城は店を出て行った。
翔子がふと彼が座っていたテーブルに目をやると、紙ナプキンの裏に、走り書きのメモが残されていた。
> 『午後の日差しが強すぎる。カヌレの表面が乾燥する前に、ブラインドの角度を三度下げるべきだ。それと、入り口のチラシのフォントが小さい。老眼の客を逃しているぞ。』
>
「……何よ、相変わらず一言多いんだから」
翔子は呆れたように笑った。
冷徹な指摘の裏にあるのは、紛れもないプロのアドバイスだ。
そして、娘が選んだこの場所を、彼なりに「評価」しようとしている証拠でもあった。
「翔子ちゃん? そのメモ……」
「あ、これ? なんでもないです。ちょっとした『経営コンサルタント』からの、無料のアドバイスですよ」
翔子はメモをポケットに仕舞い、店のブラインドの角度を調整した。
窓から差し込む光が、少しだけ優しくなる。
シャロンが母から受け継ぎ、父を待ち続けるこの場所を、大手企業の論理で塗りつぶさせはしない。
「さあシャロンさん、次の仕込みをやりましょう。次は『お年寄りにも読みやすいお品書き』を作りますよ!」
「えっ、あ、はいっ!」
二人の少女の戦いは、まだ始まったばかりだった。
喫茶店「樹」の珠玉のフランス焼き菓子
コーヒーや紅茶に合う、本格的な焼き菓子です。
カヌレ・ド・ボルドー
外はカリッと香ばしく、中はラム酒が香るしっとりとした伝統の味。
あとがきにかえて…
登場人物など…
シャロンの父:ジャン・ピエール
かつて日本で腕を振るった一流のパティシエでした。シャロンの母と出会い、この「樹」という店を構えました。彼女の死後、ある事情を抱えてフランスへ帰国。その後、手紙も途絶え、現在は音信不通となっています。
シャロンの母:樹
若くして亡くなる。喫茶店「樹」は彼女の名前から。
翔子の父:高城
表の顔: 大手飲食チェーン「ダイナー・グローバル」の企画部長。市場を読み解く圧倒的な能力を持つ。
裏の顔: 娘の翔子を溺愛しており、彼女が「樹」でアルバイトを始めたことも実は知っている。翔子のSNSも密かにチェックしており、彼女のマーケティング能力の成長を眩しそうに見守っている。
葛藤: 会社が「樹」のある一帯の再開発や買収を計画した際、彼は責任者としての立場と、娘の笑顔を守りたい父親としての立場で板挟みになる。しかし、彼の心はすでに決まっており、陰で会社を牽制したり、買収を回避するためのアドバイスを(匿名や間接的な方法で)送る準備をしている。
翔子の母:恵子
穏やかで家庭的な専業主婦。
翔子が時に見せる、家庭料理へのこだわりや「誰かのために」という根本の優しさは母親譲り。




