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ひとり分の奇跡

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/11

 死ぬとき、私は何も残せなかったことを後悔した。


 十七年間、ただ生きるだけで精一杯だった。施設の小さな部屋で目覚め、学校へ行き、また施設に戻る。そんな日々の繰り返し。誰かに愛されることも、誰かを愛することもなく、ただ時間が過ぎていった。


 先天性の心疾患。それが私の名前よりも先に私を定義していた。


 病室のベッドで、薄れゆく意識の中、私は小さな温もりを感じた。


 ──あの子だ。


 三年前、雨の日に道端で震えていた子犬。誰も拾おうとしなかったあの子を、私は施設に連れて帰ろうとした。けれど施設では動物を飼えなくて、結局、近所の優しいおばあさんに引き取ってもらった。


 半年後、あの子は車に轢かれて死んだと聞いた。


 その温もりが、今、私の手のひらにある。

 暗闇の中で、小さな舌が私の指を舐めた。


 『大丈夫だよ。もう一度、生きていいんだよ』


 犬の言葉が聞こえたわけではない。でも、確かにそう伝わってきた。


 次に目を開けたとき、医師たちが慌ただしく動き回っていた。


「心拍が──戻った!?」


「ありえない、完全に停止していたのに」


 ──奇跡。


 周囲はそう呼んだ。


 でも私は知っていた。これは奇跡なんかじゃない。あの子が私にくれた、もう一度のチャンスなのだと。




 退院まで二週間かかった。


 その間に、私は自分に何が起きたのかを理解し始めた。


 最初に気づいたのは、隣のベッドの老婦人が倒れる三分前だった。胸が締めつけられるような感覚。視界の端で、彼女の姿が淡く光って見えた。


 私は無意識に手を伸ばしていた。

 老婦人の方へ。


 その瞬間、彼女の呼吸の奥に、わずかな歪みを感じた。


 三分後、彼女は何事もなく笑っていた。


 二度目は、廊下で転びそうになっていた車椅子の少年だった。車椅子の車輪が段差に引っかかろうとしているのが、まるでスローモーションのように見えた。


 私は思った。『転ばないで』。


 少年は不思議そうに首を傾げながら、車椅子を止めた。段差に気づき、迂回していった。


 三度目。四度目。五度目。


 そのたびに、私の体から何かが抜けていくような感覚があった。疲労とは違う。もっと根源的な、命が削られるような。


 でも止められなかった。


 なぜなら、これが私の二度目の人生の意味だと分かっていたから。




 能力には限界があった。


 老衰で眠るように亡くなる患者さんには、力が発動しない。余命数日と宣告された末期癌の患者さんにも。


 最初は戸惑った。なぜ助けられないのだろう、と。


 けれど、ある夜、その理由が分かった。


 九十五歳の患者さんが、家族に囲まれながら静かに息を引き取った。その顔は穏やかで、満ち足りていた。


 この人は、生き切ったんだ。


 私の力は、生きる時間が残されている人、生きることを望んでいる人にしか届かない。


 それは残酷なようで、でも優しいルールだった。


 私は小さく頷いた。


「これが、生き残った理由だ」


 声に出して言うと、不思議と心が軽くなった。




 彼と出会ったのは、退院から一週間後だった。


 施設に戻った私は、以前と同じ生活を送っていた。学校へ行き、授業を受け、施設に帰る。


 ただ一つだけ違ったのは、街を歩くとき、常に周囲の「気配」を感じ取るようになったことだ。


 その日、私は図書館の音楽室の前を通りかかった。


 ピアノの音が聞こえてきた。


 ショパン。ノクターン。


 音色が美しくて、思わず足を止めた。でも次の瞬間、胸が締めつけられた。


 これは──。


 扉を開けると、ピアノの前で一人の男子生徒が倒れかけていた。


「危ない!」


 私は駆け寄り、彼の体を支えた。


「あ、ありがとう……ちょっと、立ちくらみがして」


 彼は申し訳なさそうに笑った。整った顔立ちに、柔らかな笑顔。クラスは違うけれど、見覚えがあった。音楽科の生徒だ。


 私の手が彼の手首に触れた瞬間、分かった。


 この人は、死ぬはずだった。


 いや、正確には「死ぬところだった」。


 彼の体の中に、 血の流れが濁って見えた。脳の血管の奥深く。破裂寸前の動脈瘤。


 迷いはなかった。

 私は静かに目を閉じ、力を流した。


 温かな光が指先から溢れ、彼の体へと染み込んでいく。黒い影が少しずつ薄れていく。


 そして──消えた。


 同時に、私の体から大きな何かが抜けた。膝が震え、視界が揺れる。


「ねえ、大丈夫?顔色悪いよ」


 彼が心配そうに私の肩を支えた。


「平気です。ちょっと貧血で」


「無理しないで。保健室、一緒に行こうか?」


「いえ、本当に大丈夫ですから」


 私は笑顔を作って、その場を離れようとした。


「待って」


 呼び止められた。


「名前、教えてくれる?僕は瀬川蓮。音楽科の二年」


「……橘、春です。普通科の二年」


「橘、さん。ありがとう。助けてくれて」


 彼は人懐っこく笑った。

 その笑顔を見て、私は思った。


 この人を救えてよかった。




 それから、蓮とよく会うようになった。


 いや、正確には彼が私を見つけると話しかけてきた。


「春!昨日の数学のテスト、どうだった?」


「春、お昼一緒に食べない?」


「春、ちょっと聞いてよ。今日、先生にすごい曲紹介されたんだ」


 最初は戸惑った。私には友達と呼べる人がいなかった。必要ないと思っていた。


 でも蓮は、私の遠慮も躊躇もお構いなしに、太陽のように近づいてきた。


「春って、いつも一人だよね」


 ある日、屋上で二人で昼食を食べているとき、彼が言った。


「友達、作らないの?」


「別に……必要ないので」


「そっか」


 蓮は私の答えを否定しなかった。ただ、にっこり笑った。


「じゃあ僕が友達になるよ。必要なくても、いてもいいでしょ?」


 そんな理屈があるだろうか。


 でも、嫌じゃなかった。


 彼と話していると、自分が普通の高校生になったような気がした。悩みがあって、笑うことがあって、明日を楽しみにできる、そんな普通の人間に。


「春は、将来何になりたいの?」


「分かりません。考えたこともなくて」


「そっか。僕はピアニストになりたいんだ」


 蓮の目が輝いた。


「ピアノを弾いているとき、世界中の人と繋がれるような気がするんだ。言葉が通じなくても、音楽なら伝わる。すごいと思わない?」


「……はい」


「春にも聞かせたいな。僕の演奏」


「聞いてみたいです」


 嘘じゃなかった。本当に聞きてみたかった。


 彼の音楽を。彼が愛する、その音色を。




 季節が移り変わった。


 秋が深まり、冬が訪れた。


 その間、私は静かに力を使い続けた。


 交差点で信号無視をしそうな子供。階段から転げ落ちそうな老人。突然倒れそうなサラリーマン。


 見えてしまう。感じてしまう。

 だから、救わずにはいられなかった。


 そのたびに、私の体は少しずつ軽くなっていった。


 鏡に映る自分の顔は、日に日に透明になっていくようだった。


 蓮は気づいていた。


「春、最近痩せた?」


「気のせいですよ」


「ちゃんと食べてる?」


「はい」


 嘘だった。食欲はなくなっていた。でも心配させたくなかった。


 ある雪の日、蓮が私に言った。


「今度、コンクールがあるんだ」


「コンクール?」


「うん。全国大会。これに優勝したら、音大の推薦が決まる」


「すごい……」


「春にも聴きに来てほしいな。聴衆席から、僕を見守っててくれる?」


 彼は照れくさそうに笑った。


「行きます」


 私は即答していた。


「絶対に、行きます」




 コンクール当日の一週間前。


 私は蓮の異変に気づいた。


 いつものように音楽室の前を通りかかったとき、胸が締めつけられた。


 また──。


 扉を開けると、蓮がピアノの前で座っていた。でもその表情は苦しげだった。


「蓮?」


「春……」


 彼は私を見て、力なく笑った。


「おかしいな。また立ちくらみ。最近多くて」


 違う。これは立ちくらみじゃない。


 私には見えた。彼の体の中に、また黒い影が生まれようとしているのが。


 前に治したのに──。


 いや、違う。前に治したのは動脈瘤。今度は心臓だ。不整脈。このまま放置すれば、数日以内に心停止を起こす。


「蓮、病院に──」


「大丈夫だよ。コンクールが終わったら行くから」


「でも──」


「春」


 蓮が私の手を握った。


「大丈夫。僕、死なないから」


 その言葉が、胸に刺さった。


 あなたは知らない。本当は、あなたはあのとき死ぬはずだったことを。


 私は震える手で、彼の手を握り返した。


「……分かった」


 そして決めた。


 最後に、もう一度だけ。

 もう一度だけ、この力を使おう。




 コンクール前日の夜。


 私は蓮の家の前に立っていた。


 彼が寝静まった頃を見計らって、窓の外から手を伸ばす。


 力を流す。


 温かな光が指先から溢れ、窓ガラスを通り抜け、蓮の体へと染み込んでいく。


 黒い影が消えていく。

 心臓の鼓動が正常に戻っていく。

 胸の痛みが遠くで消える感覚があった。


 そして──。

 私の体から、最後の何かが抜けた。

 膝が崩れる。冷たい地面に倒れ込む。


 ああ、これで──。


 視界が暗くなっていく。

 でも後悔はなかった。


 一度目の人生では何も残せなかった。


 でも二度目の人生では、たくさんの人を救えた。


 そして最後に、大切な人の未来を守れた。


 それだけで、十分だった。

 意識が遠のく中、私は微笑んだ。


 蓮。あなたの音楽を、聴きたかったな。




 目覚めたのは、病院だった。


 いや、正確には目覚めていない。

 意識はあるのに、体が動かない。瞼も開かない。


 植物状態。

 医師たちの会話が聞こえる。


「原因不明の昏睡状態。脳波は正常なのに、意識が戻らない」


「家族は?」


「天涯孤独のようです。施設の職員が付き添っています」


 時間の感覚がなくなった。

 ただ、規則正しい心電図の音だけが時を刻んでいた。


 そんなある日。

 扉が開く音がした。


「春」


 蓮の声だった。


「春、いるよね。聞こえてるよね」


 ベッドの横に座る気配。


「ごめん。気づかなかった。ずっと、ずっと気づかなかった」


 彼の声が震えている。


「コンクールの日、君が来なかった。心配で、施設に電話したら、倒れて病院にいるって」


「それで、いろいろ思い出したんだ。初めて会った日。僕、倒れかけてた。でもあのあと、なぜか体調が良くなった」


「最近の立ちくらみも、あの夜、急に治った。あの夜、君は僕の家の前にいたんだってね。近所の人が教えてくれた」


「春」


 彼の手が、私の手を握った。


「君が、僕を救ってくれたんだね」


 ──ごめんなさい。

 心の中で謝る。

 黙っていて、ごめんなさい。


「コンクール、優勝したよ」


 蓮の声が明るくなった。


「音大の推薦も決まった。ピアニストになる夢、叶えられそうだよ」


 ──よかった。


「でもね、春」


 彼の声が再び震えた。


「君に聴いてもらいたかった。君の前で弾きたかった」


「だから、待つよ」


 ──待たないで。


「いつまでも待つから」


 ──もう、いいの。


「必ず目を覚まして」


 私の頬に、温かいものが落ちた。

 彼の涙だった。




 それから、蓮は毎日来るようになった。

 学校のこと。音楽のこと。他愛のない日常のこと。


 たくさん話してくれた。


 そしてある日、彼が言った。


「春。今度、デビューリサイタルをやることになったんだ」


「音大の教授に認められて、特別に機会をもらえた」


「そこで、君のために弾くよ」


「君が守ってくれた僕の人生で、君のために」




十一

 リサイタルの日。


 病室は静かだった。


 窓から柔らかな光が差し込んでいる。

 規則正しい心電図の音。


 そして──。


 遠くから、ピアノの音が聞こえてきた。

 いや、聞こえているような気がした。


 ショパン。ノクターン第20番。


 ホールにいる蓮の姿が、なぜか見えた。


 舞台。

 照明が落ちる。

 彼の指が鍵盤に触れる。


 最初の一音。

 やわらかく、でも確かに響く。


 観客はただ美しい演奏を聴いている。

 でも彼の中では違う。


 ──届いてくれ。


 中間部。

 感情があふれる。


 彼女が倒れた瞬間。

 守られていたと気づいた瞬間。


 そして終盤。

 音は静かにほどけていく。

 祈りのように。


 病室の窓から、光が差し込む。

 規則正しい心電図の音。

 遠くで鳴っているような、ピアノ。


 ──ありがとう、蓮。

 あなたに出会えてよかった。


 あなたの音楽を、聴けてよかった。

 ピアノの最後の一音が、静寂に溶けていく。


 蓮は目を閉じ、心の中で誓った。


 君が守ってくれたこの世界で、僕は待つ。



──完──

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