ひとり分の奇跡
一
死ぬとき、私は何も残せなかったことを後悔した。
十七年間、ただ生きるだけで精一杯だった。施設の小さな部屋で目覚め、学校へ行き、また施設に戻る。そんな日々の繰り返し。誰かに愛されることも、誰かを愛することもなく、ただ時間が過ぎていった。
先天性の心疾患。それが私の名前よりも先に私を定義していた。
病室のベッドで、薄れゆく意識の中、私は小さな温もりを感じた。
──あの子だ。
三年前、雨の日に道端で震えていた子犬。誰も拾おうとしなかったあの子を、私は施設に連れて帰ろうとした。けれど施設では動物を飼えなくて、結局、近所の優しいおばあさんに引き取ってもらった。
半年後、あの子は車に轢かれて死んだと聞いた。
その温もりが、今、私の手のひらにある。
暗闇の中で、小さな舌が私の指を舐めた。
『大丈夫だよ。もう一度、生きていいんだよ』
犬の言葉が聞こえたわけではない。でも、確かにそう伝わってきた。
次に目を開けたとき、医師たちが慌ただしく動き回っていた。
「心拍が──戻った!?」
「ありえない、完全に停止していたのに」
──奇跡。
周囲はそう呼んだ。
でも私は知っていた。これは奇跡なんかじゃない。あの子が私にくれた、もう一度のチャンスなのだと。
二
退院まで二週間かかった。
その間に、私は自分に何が起きたのかを理解し始めた。
最初に気づいたのは、隣のベッドの老婦人が倒れる三分前だった。胸が締めつけられるような感覚。視界の端で、彼女の姿が淡く光って見えた。
私は無意識に手を伸ばしていた。
老婦人の方へ。
その瞬間、彼女の呼吸の奥に、わずかな歪みを感じた。
三分後、彼女は何事もなく笑っていた。
二度目は、廊下で転びそうになっていた車椅子の少年だった。車椅子の車輪が段差に引っかかろうとしているのが、まるでスローモーションのように見えた。
私は思った。『転ばないで』。
少年は不思議そうに首を傾げながら、車椅子を止めた。段差に気づき、迂回していった。
三度目。四度目。五度目。
そのたびに、私の体から何かが抜けていくような感覚があった。疲労とは違う。もっと根源的な、命が削られるような。
でも止められなかった。
なぜなら、これが私の二度目の人生の意味だと分かっていたから。
三
能力には限界があった。
老衰で眠るように亡くなる患者さんには、力が発動しない。余命数日と宣告された末期癌の患者さんにも。
最初は戸惑った。なぜ助けられないのだろう、と。
けれど、ある夜、その理由が分かった。
九十五歳の患者さんが、家族に囲まれながら静かに息を引き取った。その顔は穏やかで、満ち足りていた。
この人は、生き切ったんだ。
私の力は、生きる時間が残されている人、生きることを望んでいる人にしか届かない。
それは残酷なようで、でも優しいルールだった。
私は小さく頷いた。
「これが、生き残った理由だ」
声に出して言うと、不思議と心が軽くなった。
四
彼と出会ったのは、退院から一週間後だった。
施設に戻った私は、以前と同じ生活を送っていた。学校へ行き、授業を受け、施設に帰る。
ただ一つだけ違ったのは、街を歩くとき、常に周囲の「気配」を感じ取るようになったことだ。
その日、私は図書館の音楽室の前を通りかかった。
ピアノの音が聞こえてきた。
ショパン。ノクターン。
音色が美しくて、思わず足を止めた。でも次の瞬間、胸が締めつけられた。
これは──。
扉を開けると、ピアノの前で一人の男子生徒が倒れかけていた。
「危ない!」
私は駆け寄り、彼の体を支えた。
「あ、ありがとう……ちょっと、立ちくらみがして」
彼は申し訳なさそうに笑った。整った顔立ちに、柔らかな笑顔。クラスは違うけれど、見覚えがあった。音楽科の生徒だ。
私の手が彼の手首に触れた瞬間、分かった。
この人は、死ぬはずだった。
いや、正確には「死ぬところだった」。
彼の体の中に、 血の流れが濁って見えた。脳の血管の奥深く。破裂寸前の動脈瘤。
迷いはなかった。
私は静かに目を閉じ、力を流した。
温かな光が指先から溢れ、彼の体へと染み込んでいく。黒い影が少しずつ薄れていく。
そして──消えた。
同時に、私の体から大きな何かが抜けた。膝が震え、視界が揺れる。
「ねえ、大丈夫?顔色悪いよ」
彼が心配そうに私の肩を支えた。
「平気です。ちょっと貧血で」
「無理しないで。保健室、一緒に行こうか?」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
私は笑顔を作って、その場を離れようとした。
「待って」
呼び止められた。
「名前、教えてくれる?僕は瀬川蓮。音楽科の二年」
「……橘、春です。普通科の二年」
「橘、さん。ありがとう。助けてくれて」
彼は人懐っこく笑った。
その笑顔を見て、私は思った。
この人を救えてよかった。
五
それから、蓮とよく会うようになった。
いや、正確には彼が私を見つけると話しかけてきた。
「春!昨日の数学のテスト、どうだった?」
「春、お昼一緒に食べない?」
「春、ちょっと聞いてよ。今日、先生にすごい曲紹介されたんだ」
最初は戸惑った。私には友達と呼べる人がいなかった。必要ないと思っていた。
でも蓮は、私の遠慮も躊躇もお構いなしに、太陽のように近づいてきた。
「春って、いつも一人だよね」
ある日、屋上で二人で昼食を食べているとき、彼が言った。
「友達、作らないの?」
「別に……必要ないので」
「そっか」
蓮は私の答えを否定しなかった。ただ、にっこり笑った。
「じゃあ僕が友達になるよ。必要なくても、いてもいいでしょ?」
そんな理屈があるだろうか。
でも、嫌じゃなかった。
彼と話していると、自分が普通の高校生になったような気がした。悩みがあって、笑うことがあって、明日を楽しみにできる、そんな普通の人間に。
「春は、将来何になりたいの?」
「分かりません。考えたこともなくて」
「そっか。僕はピアニストになりたいんだ」
蓮の目が輝いた。
「ピアノを弾いているとき、世界中の人と繋がれるような気がするんだ。言葉が通じなくても、音楽なら伝わる。すごいと思わない?」
「……はい」
「春にも聞かせたいな。僕の演奏」
「聞いてみたいです」
嘘じゃなかった。本当に聞きてみたかった。
彼の音楽を。彼が愛する、その音色を。
六
季節が移り変わった。
秋が深まり、冬が訪れた。
その間、私は静かに力を使い続けた。
交差点で信号無視をしそうな子供。階段から転げ落ちそうな老人。突然倒れそうなサラリーマン。
見えてしまう。感じてしまう。
だから、救わずにはいられなかった。
そのたびに、私の体は少しずつ軽くなっていった。
鏡に映る自分の顔は、日に日に透明になっていくようだった。
蓮は気づいていた。
「春、最近痩せた?」
「気のせいですよ」
「ちゃんと食べてる?」
「はい」
嘘だった。食欲はなくなっていた。でも心配させたくなかった。
ある雪の日、蓮が私に言った。
「今度、コンクールがあるんだ」
「コンクール?」
「うん。全国大会。これに優勝したら、音大の推薦が決まる」
「すごい……」
「春にも聴きに来てほしいな。聴衆席から、僕を見守っててくれる?」
彼は照れくさそうに笑った。
「行きます」
私は即答していた。
「絶対に、行きます」
七
コンクール当日の一週間前。
私は蓮の異変に気づいた。
いつものように音楽室の前を通りかかったとき、胸が締めつけられた。
また──。
扉を開けると、蓮がピアノの前で座っていた。でもその表情は苦しげだった。
「蓮?」
「春……」
彼は私を見て、力なく笑った。
「おかしいな。また立ちくらみ。最近多くて」
違う。これは立ちくらみじゃない。
私には見えた。彼の体の中に、また黒い影が生まれようとしているのが。
前に治したのに──。
いや、違う。前に治したのは動脈瘤。今度は心臓だ。不整脈。このまま放置すれば、数日以内に心停止を起こす。
「蓮、病院に──」
「大丈夫だよ。コンクールが終わったら行くから」
「でも──」
「春」
蓮が私の手を握った。
「大丈夫。僕、死なないから」
その言葉が、胸に刺さった。
あなたは知らない。本当は、あなたはあのとき死ぬはずだったことを。
私は震える手で、彼の手を握り返した。
「……分かった」
そして決めた。
最後に、もう一度だけ。
もう一度だけ、この力を使おう。
八
コンクール前日の夜。
私は蓮の家の前に立っていた。
彼が寝静まった頃を見計らって、窓の外から手を伸ばす。
力を流す。
温かな光が指先から溢れ、窓ガラスを通り抜け、蓮の体へと染み込んでいく。
黒い影が消えていく。
心臓の鼓動が正常に戻っていく。
胸の痛みが遠くで消える感覚があった。
そして──。
私の体から、最後の何かが抜けた。
膝が崩れる。冷たい地面に倒れ込む。
ああ、これで──。
視界が暗くなっていく。
でも後悔はなかった。
一度目の人生では何も残せなかった。
でも二度目の人生では、たくさんの人を救えた。
そして最後に、大切な人の未来を守れた。
それだけで、十分だった。
意識が遠のく中、私は微笑んだ。
蓮。あなたの音楽を、聴きたかったな。
九
目覚めたのは、病院だった。
いや、正確には目覚めていない。
意識はあるのに、体が動かない。瞼も開かない。
植物状態。
医師たちの会話が聞こえる。
「原因不明の昏睡状態。脳波は正常なのに、意識が戻らない」
「家族は?」
「天涯孤独のようです。施設の職員が付き添っています」
時間の感覚がなくなった。
ただ、規則正しい心電図の音だけが時を刻んでいた。
そんなある日。
扉が開く音がした。
「春」
蓮の声だった。
「春、いるよね。聞こえてるよね」
ベッドの横に座る気配。
「ごめん。気づかなかった。ずっと、ずっと気づかなかった」
彼の声が震えている。
「コンクールの日、君が来なかった。心配で、施設に電話したら、倒れて病院にいるって」
「それで、いろいろ思い出したんだ。初めて会った日。僕、倒れかけてた。でもあのあと、なぜか体調が良くなった」
「最近の立ちくらみも、あの夜、急に治った。あの夜、君は僕の家の前にいたんだってね。近所の人が教えてくれた」
「春」
彼の手が、私の手を握った。
「君が、僕を救ってくれたんだね」
──ごめんなさい。
心の中で謝る。
黙っていて、ごめんなさい。
「コンクール、優勝したよ」
蓮の声が明るくなった。
「音大の推薦も決まった。ピアニストになる夢、叶えられそうだよ」
──よかった。
「でもね、春」
彼の声が再び震えた。
「君に聴いてもらいたかった。君の前で弾きたかった」
「だから、待つよ」
──待たないで。
「いつまでも待つから」
──もう、いいの。
「必ず目を覚まして」
私の頬に、温かいものが落ちた。
彼の涙だった。
十
それから、蓮は毎日来るようになった。
学校のこと。音楽のこと。他愛のない日常のこと。
たくさん話してくれた。
そしてある日、彼が言った。
「春。今度、デビューリサイタルをやることになったんだ」
「音大の教授に認められて、特別に機会をもらえた」
「そこで、君のために弾くよ」
「君が守ってくれた僕の人生で、君のために」
十一
リサイタルの日。
病室は静かだった。
窓から柔らかな光が差し込んでいる。
規則正しい心電図の音。
そして──。
遠くから、ピアノの音が聞こえてきた。
いや、聞こえているような気がした。
ショパン。ノクターン第20番。
ホールにいる蓮の姿が、なぜか見えた。
舞台。
照明が落ちる。
彼の指が鍵盤に触れる。
最初の一音。
やわらかく、でも確かに響く。
観客はただ美しい演奏を聴いている。
でも彼の中では違う。
──届いてくれ。
中間部。
感情があふれる。
彼女が倒れた瞬間。
守られていたと気づいた瞬間。
そして終盤。
音は静かにほどけていく。
祈りのように。
病室の窓から、光が差し込む。
規則正しい心電図の音。
遠くで鳴っているような、ピアノ。
──ありがとう、蓮。
あなたに出会えてよかった。
あなたの音楽を、聴けてよかった。
ピアノの最後の一音が、静寂に溶けていく。
蓮は目を閉じ、心の中で誓った。
君が守ってくれたこの世界で、僕は待つ。
──完──




