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Fascinate  作者: 依田
舞台の縁より、声にならないものを
9/12

声にならない間、名もなき変調

放課後の部室は、いつもと同じ匂いがした。

埃っぽい床と、古いカーテンの布の匂い。誰かが持ち込んだ菓子の甘さが、まだ微かに残っている。窓は半分だけ開いていて、外のグラウンドから声が流れ込んでいた。遠くでボールが弾む音と、笑い声。それが壁に反射して、少しだけ鈍く聞こえる。


「今日さ」


パイプ椅子を引きずりながら、男が言った。


「なんか、やりにくくなかった?」


向かいにいた別の男は、台本を鞄に突っ込みながら首を傾げる。


「え、そう?」


「怒られたとかじゃないんだけどさ」


言い切れないらしく、言葉のあとが少し濁る。椅子を重ねる音が、その隙間を埋めた。


「昨日まで、もうちょい流れてた気しない?」

「流れてたっていうか……まあ、いつも通り?」

「そう、それ」


男は舞台のほうをちらっと見た。舞台袖に立つ塚内朝日は、特別なことをしていない。台本を手に、いつもの位置にいるだけだ。


「今日も別に、変わってないんだよな」

「うん」

「でも……」


言葉がそこで止まり、小さく息が吐かれる。


「間が、あった気しない?」

「間?」

「そう、一瞬」


そう言って、男は指を鳴らした。乾いた音が、部室の空気に吸い込まれる。相手は少し考えてから、ゆっくり頷いた。


「ああ……」


それ以上は言わない。否定もしなかった。



その日の稽古も、いつも通りに始まった。

発声、読み合わせ、立ち位置の確認。誰かがふざけて、誰かが笑って、誰かがそれに乗る。怒鳴る声も、注意もない。


「じゃ、次は……」


塚内が口を開き、言葉を探すように一瞬止まった。


その間、誰も声を出さなかった。床を擦る音も、ページをめくる音も止まる。誰かが咳払いをしかけて、やめた。


ほんの一瞬だった。数を数えるほどの時間でもない。

それでも、その間、全員が同じ方向を見ていた。


「……ああ、いや、続けて」


すぐに流れる。待ったこと自体が、なかったみたいに。

けれど、その「なかった」は、確かに起きていた。


読み合わせが続く。誰かが台詞を噛んで、誰かが笑う。いつもと同じ光景だ。


発声が終わり、次の読み合わせに入る。誰かがページをめくり、誰かが息を吸う。


「……」


声が出る前に、また一瞬だけ、止まった。

今度は、さっきより少し長い。誰かが言い出すには短く、でも待たずに進むには、妙に長い。


空気が止まった、というより、再生ボタンを押し忘れたみたいだった。


視線が集まる。今度も、自然と塚内のほうへ。

塚内は、何かを言おうとして、結局、何も言わなかった。


「……じゃ、続けて」


そう言われて、また動き出す。誰も指摘しない。けれど、さっきとは違って、今度は誰も笑わなかった。


休憩に入ったとき、別の男が言う。


「今のさ、止まったよな」

「止まったってほどじゃないだろ」

「でも、待った」


冗談みたいな口調だった。笑いながら、でも少しだけ声を落として。


「部長、なんかした?」

「してないでしょ」

「だよな」


誰も結論を出さない。出す必要もないみたいに、その話題はそこで終わった。


片付けの時間になる。椅子を畳み、床を掃く。いつもの作業だ。



みんなが帰る中、靴箱の前で部員がぽつっと言った。


「今日、なんか変だったよな」


「変っていうか……」


答えた男は少し考えてから首を振る。


「なんていうかさ」

言葉を探して、やめる。

「……まあ、いいや」


その少し後ろで、天羽桔梗は靴を片手に、そのやり取りを聞いていた。


笑っていた。

うまく言えない違和感を、冗談みたいに流す、その感じが、なぜか少しだけ分かってしまって。


だから、何も言わなかった。


靴箱の前から人がばらけていく。廊下に出ると、さっきまで重なっていた足音が、少しずつ間隔をあけていった。誰も立ち止まらない。振り返ることもしない。ただ、同じ方向に歩いて、同じ校門を抜けていく。今日のことを話す声は、もう聞こえなかった。



誰かが「お疲れさまでした」と言って、扉が閉まる。

部室の音が、ひとつずつ消えていく。


最後まで残ったのは、俺だった。

舞台の前で、立ち止まっていた。


理由は分からない。

でも、帰る気になれなかった。


昨日と同じ舞台。

同じ床、同じ照明、同じ位置。


なのに、昨日と同じ稽古を思い出そうとして、うまくいかない。

ただ、さっきの「間」だけが、頭から離れなかった。


誰も何も言っていない。

誰も責めていない。


それでも、待たれた。


俺は台本を閉じ、舞台を見たまま深く息を吐く。その息が、どこにも届かないことを確かめるみたいに。


電気を消す。黒い床に、照明の残像だけがうっすらと浮かび、それもすぐに消えていく。


それでも、昨日より少しだけ近くなった気がして、

塚内朝日は暗くなった舞台から目を逸らせなかった。

短いので夜にもう1話公開します。

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