声にならない間、名もなき変調
放課後の部室は、いつもと同じ匂いがした。
埃っぽい床と、古いカーテンの布の匂い。誰かが持ち込んだ菓子の甘さが、まだ微かに残っている。窓は半分だけ開いていて、外のグラウンドから声が流れ込んでいた。遠くでボールが弾む音と、笑い声。それが壁に反射して、少しだけ鈍く聞こえる。
「今日さ」
パイプ椅子を引きずりながら、男が言った。
「なんか、やりにくくなかった?」
向かいにいた別の男は、台本を鞄に突っ込みながら首を傾げる。
「え、そう?」
「怒られたとかじゃないんだけどさ」
言い切れないらしく、言葉のあとが少し濁る。椅子を重ねる音が、その隙間を埋めた。
「昨日まで、もうちょい流れてた気しない?」
「流れてたっていうか……まあ、いつも通り?」
「そう、それ」
男は舞台のほうをちらっと見た。舞台袖に立つ塚内朝日は、特別なことをしていない。台本を手に、いつもの位置にいるだけだ。
「今日も別に、変わってないんだよな」
「うん」
「でも……」
言葉がそこで止まり、小さく息が吐かれる。
「間が、あった気しない?」
「間?」
「そう、一瞬」
そう言って、男は指を鳴らした。乾いた音が、部室の空気に吸い込まれる。相手は少し考えてから、ゆっくり頷いた。
「ああ……」
それ以上は言わない。否定もしなかった。
*
その日の稽古も、いつも通りに始まった。
発声、読み合わせ、立ち位置の確認。誰かがふざけて、誰かが笑って、誰かがそれに乗る。怒鳴る声も、注意もない。
「じゃ、次は……」
塚内が口を開き、言葉を探すように一瞬止まった。
その間、誰も声を出さなかった。床を擦る音も、ページをめくる音も止まる。誰かが咳払いをしかけて、やめた。
ほんの一瞬だった。数を数えるほどの時間でもない。
それでも、その間、全員が同じ方向を見ていた。
「……ああ、いや、続けて」
すぐに流れる。待ったこと自体が、なかったみたいに。
けれど、その「なかった」は、確かに起きていた。
読み合わせが続く。誰かが台詞を噛んで、誰かが笑う。いつもと同じ光景だ。
発声が終わり、次の読み合わせに入る。誰かがページをめくり、誰かが息を吸う。
「……」
声が出る前に、また一瞬だけ、止まった。
今度は、さっきより少し長い。誰かが言い出すには短く、でも待たずに進むには、妙に長い。
空気が止まった、というより、再生ボタンを押し忘れたみたいだった。
視線が集まる。今度も、自然と塚内のほうへ。
塚内は、何かを言おうとして、結局、何も言わなかった。
「……じゃ、続けて」
そう言われて、また動き出す。誰も指摘しない。けれど、さっきとは違って、今度は誰も笑わなかった。
休憩に入ったとき、別の男が言う。
「今のさ、止まったよな」
「止まったってほどじゃないだろ」
「でも、待った」
冗談みたいな口調だった。笑いながら、でも少しだけ声を落として。
「部長、なんかした?」
「してないでしょ」
「だよな」
誰も結論を出さない。出す必要もないみたいに、その話題はそこで終わった。
片付けの時間になる。椅子を畳み、床を掃く。いつもの作業だ。
*
みんなが帰る中、靴箱の前で部員がぽつっと言った。
「今日、なんか変だったよな」
「変っていうか……」
答えた男は少し考えてから首を振る。
「なんていうかさ」
言葉を探して、やめる。
「……まあ、いいや」
その少し後ろで、天羽桔梗は靴を片手に、そのやり取りを聞いていた。
笑っていた。
うまく言えない違和感を、冗談みたいに流す、その感じが、なぜか少しだけ分かってしまって。
だから、何も言わなかった。
靴箱の前から人がばらけていく。廊下に出ると、さっきまで重なっていた足音が、少しずつ間隔をあけていった。誰も立ち止まらない。振り返ることもしない。ただ、同じ方向に歩いて、同じ校門を抜けていく。今日のことを話す声は、もう聞こえなかった。
*
誰かが「お疲れさまでした」と言って、扉が閉まる。
部室の音が、ひとつずつ消えていく。
最後まで残ったのは、俺だった。
舞台の前で、立ち止まっていた。
理由は分からない。
でも、帰る気になれなかった。
昨日と同じ舞台。
同じ床、同じ照明、同じ位置。
なのに、昨日と同じ稽古を思い出そうとして、うまくいかない。
ただ、さっきの「間」だけが、頭から離れなかった。
誰も何も言っていない。
誰も責めていない。
それでも、待たれた。
俺は台本を閉じ、舞台を見たまま深く息を吐く。その息が、どこにも届かないことを確かめるみたいに。
電気を消す。黒い床に、照明の残像だけがうっすらと浮かび、それもすぐに消えていく。
それでも、昨日より少しだけ近くなった気がして、
塚内朝日は暗くなった舞台から目を逸らせなかった。
短いので夜にもう1話公開します。




