残滓と無自覚な一歩
この高校は、部活動に何か一つ所属していないといけない校則です
放課後、部室の扉の前に立った瞬間、いつもより声が多いと感じた。
笑い声が重なって、廊下まで漏れている。
扉を開けると、その理由はすぐに分かった。
金髪のギャルが、パイプ椅子を足で寄せながら笑っている。制服も少し着崩したまま、先輩たちと会話していた。
その少し後ろには、見慣れない小柄な黒髪の先輩がいる。
壁にもたれてスマホを見たまま、周囲の騒がしさにはあまり興味がないらしい。
「……ん、ああ天羽か」
俺の視線に気づいたのか、塚内先輩が舞台のほうを見たまま言った。
「三年の岡田摩耶と酒井花。あっちの金髪が岡田、そっちのちっこいのが酒井だ」
あっち、そっちと指をさしながら、それだけ説明する。
「部活強制入部組だ。実力は期待すんなよ」
それ以上の補足はなかった。
岡田先輩は、誰かの話に大げさに笑っている。
酒井先輩はその横で、画面を指でなぞっているだけだ。
随分とこの空気に馴染んでいるようで、お菓子片手に雑談に花を咲かせていた。
「じゃ、発声からいくよー」
いつものように誰かの声で稽古が始まる。
「あー」
岡田先輩は足を開いたまま声を出し、すぐに笑った。
酒井先輩は一拍遅れて立ち、壁際に寄る。
俺は、二人から少し距離を取った位置で声を出す。
背筋を伸ばして。
「あー」
昨日より声は出ている。
それでも、立っている場所が、もう場面の外みたいだった。
発声が終わると、台本が配られる。
「短くない?」
岡田先輩がページをめくりながら言う。
「すぐ終わるじゃん」
「ま、軽くでいいんじゃね」
そのまま、読み合わせが始まった。
岡田先輩はノリで台詞を読んで、時々笑う。
酒井先輩は淡々と文字を追っている。
悪ふざけ、というほどではなかった。
ただ軽い。そんなのでも場は回っている。
俺の番が来る。短い台詞だ。
台本を見た瞬間、そこが昨日、兎内さんが読んだ場面だと気づいた。
同じ台詞。
同じ文字。
流れも、場面も変わっていない。
息を吸って、声を出す。
――全然、違う。
声が出た瞬間、それだけははっきり分かった。
何が違うのかは分からない。
声の大きさでも、間でもない。
間違えた感触もないのに、昨日と同じ場所に立っている感じがしなかった。
読み終えても、誰も何も言わない。
稽古はそのまま流れていく。
気にしているのは、たぶん俺だけだった。
次の場面で、立ち位置を決める流れになる。
「適当にでいいよな」
塚内先輩の一言で、全員が舞台の前に集まった。
俺は一度足元を見てから、半歩だけ前に出た。
ほんの少し、舞台から遠のいた。
「え、遠くない?」
岡田先輩が笑って言う。
周りもつられて笑う。
俺は何も言わず、すぐに元の位置へ戻った。
そのとき、視線を感じて顔を上げると、兎内さんがこちらを見ていた。
目が合う前に、彼女はもう台本へ視線を戻していた。
稽古はそのまま流れ、いつものように終わりの声がかかる。
「今日はここまでで」
片付けが終盤になるにつれ、部室の音が少しずつ減っていく。
「じゃ、またねー」
最後の先輩が手を振って出ていく。
扉が閉まると、急に静かになった。
いつもの部室だ。
俺は鞄を持って立ち上がった。
帰るつもりだった。
でも、このまま帰るのは違う気がした。
胸の奥がざらついて、息がうまく吸えない。しかし何が嫌なのかは分からない。
ただ、このまま何もしなかったら、
今日の稽古が、そのままの自分になる気がした。
舞台の前まで行く。
舞台には上がらず、縁に立ったまま中を見る。
さっきしまったばかりの台本を鞄から取り出し、ページを開く。
さっき言った、自分の台詞が目に入った。
余白に、「流されてる」と書いた。
書いた瞬間恥ずかしくなってすぐに消す。
筆圧の強い俺の文字の跡だけが、紙に残った。
何が違うのかは、やっぱり分からない。
もう一度、最初から読み直す。ゆっくりと、でも確実に口に出しながら。
入口のほうで、何かが動いた気がした。
でも、顔は上げなかった。
今は、見られたくなかった。
俺は舞台に上がらないまま、台本を閉じた。
それでも、すぐには部室を出なかった。
俺は暗くなった舞台を見たまま、しばらくその場から動かなかった。
*
翌日。
塚内朝日は、昨日のことを思い出さないようにしていた。
うるさい部室。
軽い発声。
回っている稽古。
問題はない。
いつも通りだ。
それでも、頭のどこかに、あの声が残っている。
練習終わり舞台に上がらず、縁で止まっていた一年。
小さく、途切れ途切れの声。
別に上手かったわけじゃない。
感心するほどでもない。
それなのに、気になった。
「あ、間違えちゃった」
誰かが言う。
いつもなら、そのまま流れる場面だった。
「……待て」
自分の声だと気づくまで、少し時間がかかった。
部室の空気が、一瞬だけ止まる。
「そこ、一回止めよう」
理由は出てこない。
説明もできない。
ただ、止めた。
誰も反発しなかった。
軽く頷いて、動きを止める。
塚内は、それ以上何も言わなかった。
言えなかった。
稽古は再開する。空気も、すぐに戻る。
それでも、昨日までとは少しだけ違っていた。
昨日の声が、まだ耳に残っている。
見なかったことには、できなかった。
人生で初めてブックマークをしていただきました。こんなにもうれしいと思いませんでした。感無量です




