舞台にならない場所
放課後、部室の扉を開けると、昨日と同じ音がした。
紙が擦れる音と、笑い声。床を引きずる足。人の数のわりに、どこか間の抜けた空気。
昨日のことを思い出しかけて、やめた。
特別な出来事だった、と言われるほどのものじゃない。ここでは、そう扱われている気がした。
「発声からいくよー」
誰かの声に合わせて、なんとなく立ち上がる。椅子が鳴り、床が軋む。
俺も立った。昨日より少しだけ背筋を伸ばす。意味があるかどうかは分からない。
「あー」
声を出す。
腹に力を入れて、少しだけ強く。
思ったより声が跳ねた。
隣と高さがずれて、ほんの一瞬だけ浮いた気がする。
誰も気にしない。
俺だけが、少し遅れて息を整えた。
横で、兎内さんも声を出していた。
それ以上は見なかった。
発声は、いつの間にか終わっていた。
終わりの合図もなく、誰かが台本を配り始める。
短い場面だ。
立ち位置も動きも、ざっくり決めるだけでいいらしい。
「じゃ、適当に立って」
その一言で、全員が舞台に上がる。
俺も空いている場所を探して、中央寄りに立った。
一度、足元を見る。
そのまま立っていれば、誰にも引っかからない位置だ。
それでも、半歩だけ前に出た。
さっきより、舞台の中央に近い場所へ。
「あ、そこ」
誰かの声がして、俺はすぐに元の位置に戻る。
言い方は軽かった。責める感じもない。
早かったかもしれない、と思った。
でも、何もしないよりはマシなんじゃないか?と思う。
思えば、兎内さんは最初から迷っていなかった。
立つ場所を探す様子もなく、決められたみたいにそこに立っている。
それを見て、真似しようとは思わなかった。
同じ位置に立てないことは、もう分かっていたから。
「じゃ、いこっか」
誰かの合図で読みが始まる。
台詞が順番に回ってくる。感情を乗せる人もいれば、ただ読むだけの人もいる。
兎内さんの番が始まると、空気が一度だけ締まった。
一瞬だけ、場面が立ち上がる。
その直後、次の人の声で、緩む。
悪くはない。でも、さっきまであった何かは、もうない。
誰かが笑って、誰かがそれに乗る。
場面はそのまま流れた。
「はい、もう一回やろう」
同じシーンを、もう一度。
さっきより良くなったかどうかは、よく分からない。
俺の番が来て、台詞を読む。
文字を追う目が疲れる、必死に腹から声を出そうとして少し声が裏返る。
それに、少しだけ速かった気がする。
こんなに酷い演技でも、誰求める気配は無かった。
それで終わりだった。
俺は台本を持ったまま立っていた。
同じことをしているはずなのに、立っている場所が違う気がする。
言えばいいのかもしれない、と思う。
「今のは違う」とか。「もう少しちゃんとやったほうがいい」とか。
でも、その言葉がこの場所に合わないことも分かってしまった。
正しいだけで、浮いてしまう。
稽古は流れる。
始まりも、終わりも、はっきりしないまま。
「今日はここまでで」
声がかかり、一斉に気が抜ける。
雑談の延長みたいな片付けが始まる。
俺は舞台の中央を見る。
昨日も、今日も、何も起きていない。
それなのに、同じ場所には見えなかった。
片付けの音が少しずつ減っていく。
誰かが帰り、また誰かが帰る。舞台の上より、床のほうが広くなっていく。
「お疲れー」
扉が閉まる音。
残ったのは、俺と数人、そして塚内先輩だけだった。
台本をまとめながら、さっきの場面を思い返す。
笑いが起きたところ。
誰も止めなかったところ。
止める理由は、たぶんあった。
でも、止めなくても問題は起きていない。
それが一番、厄介だった。
「天羽」
名前を呼ばれて振り向くと、塚内先輩がいた。
さっきまでと同じ場所に立っているのに、少しだけ距離が近い。
「もう帰るのか?」
「……いえ」
それ以上、言葉は続かなかった。
先輩も何か言う気配はあった。でも、口を開くほどの重さではなかったらしい。
「そうか」
それだけ言って、先輩は椅子を畳み始めた。
俺も真似して動く。金属の音が、やけに大きく響く。
舞台の中央に、誰もいなくなった。
照明もついていないのに、そこだけ少し明るく見える。
一歩、舞台に近づく。
もう一歩、いける気がして、止まった。
今じゃない、と頭では分かっていた。
それでも、足は少し前に出たままだった。
昨日は、あそこに立って、何もできなかった。
今日は、立ってすらいない。
それが正しいのかどうかも、分からない。
「じゃあ、戸締り頼むな」
塚内先輩はそう言って、俺に鍵を預け部室を後にした。
俺は、その背中を見送りながら、呼び止める言葉を探した。
でも、そんな言葉は見つからなかった。
静かになった部室で、一人、舞台を見る。
何も起きていない。
何も壊れていない。
ここはまだ俺の入っては行けない場所だ。
つい先日まで、知らなくてもよかった感覚だ。
知らなければ、ここに立っていられた。
でも、今は違う。
鍵を閉め、廊下に出る。
足音がやけに大きくて、少しだけ歩く速度を落とした。
分からないまま、分かってしまった場所に戻ってくる。
それでも、ここに来ることだけは、やめる気にならなかった。




