動かない歯車
放課後、俺は「やるしかない」という気持ちと一緒に、正式に入部した演劇部の部室にいた。
台本の紙が擦れる音と、誰かの笑い声。舞台の上ではなく、床の上で時間が動いているような感覚がある。
入口の近くで、俺は一度立ち止まった。
「……あ、天羽くんだっけ」
声をかけてきたのは、見覚えのある先輩だった。名前までは思い出せない。
「今日から正式だよね?」
「はい」
それだけ答えると、先輩は軽く頷いた。
「じゃあ、椅子出すの手伝って」
歓迎というほどのものでもない。拒絶でもない。ただの作業だった。
言われた通り、壁に積まれていたパイプ椅子を運ぶ。数を数える人もいない。並びも適当で、舞台に向けて置かれる椅子はどれも少しずつズレていた。
準備が終わるころ、誰かが声を出す。
「じゃ、軽く発声からいこっか」
床に座ったまま、あくび混じりの声。全員が立ち上がるわけでもなく、なんとなく始まる。
「あー」「あー」
声は重ならない。音程も、向きも、ばらばらだ。
俺も真似して声を出す。喉が震える。周りと同じことをしているはずなのに、何かが違う気がした。
舞台の奥で、彼女が立っている。
兎内有栖。
誰にも言われていないのに、最初から立っていた。姿勢が違う。足の位置も、目線も。声を出す前から、もう舞台の中にいる。
「……あー」
彼女の声が出た瞬間、空気が少しだけ締まった。大きな声じゃない。でも、通る。
誰も何も言わない。ただ、次の声が少しだけ揃った。それでも、すぐに流れる。
「じゃ、次いこ次」
台本が配られる。ページ数は少ない。短い場面だ。
俺は役も振られず、端で立って見ていた。読む人、適当に流す人、スマホを触る人。その中で、彼女だけは台本をちゃんと見ている。一行一行を確かめるみたいに。
俺は、何をすればいいのか分からなかった。声を出すわけでもない、舞台に立つわけでもない。それどころか、練習の方法すら分からない。
「天羽くん」
呼ばれて顔を上げる。
「それ、片付けお願い」
指差されたのは、さっき出した椅子だった。
「はい」
返事をして椅子を畳む。金属の音が、やけに大きく響く。
気づけば稽古は終わっていた。区切りも、締めの言葉もない。
「お疲れー」「じゃあなー」
軽い声が飛び交い、人が減っていく。
俺は最後まで残り、床に落ちていた紙を拾った。誰のものか分からない台本だ。
舞台のほうを見ると、彼女はいなかった。
入っただけ。本当に、それだけだった。
それでも、不思議と帰りたいとは思わなかった。
まだ、何もしていない。まだ、何も始まっていない。
それだけは、はっきり分かっていた。
*
翌日。
部室に入ると、昨日と同じ空気があった。笑い声、雑談、向きがばらばらのパイプ椅子。
「発声からいくよー」
誰かの声で、なんとなく全員が立ち上がる。俺も慌てて立つ。
「あー」
昨日と同じ声。同じ高さ。同じつもり。
横を見ると、彼女がいた。距離は近い。手を伸ばせば届くくらいなのに、同じ場所に立っている感じがしなかった。
「……あ—」
彼女が声を出した瞬間、空気が変わる。
昨日も感じたはずなのに、今日ははっきり分かった。声の大きさでも、響きでもない。“そこに立っている理由”が、最初から違う。
俺は喉に力を入れる。腹から声を出す、つもりで。
「あー」
声は出た。それでも、何も起きない。
有栖がもう一度声を出す。
「……あ─」
今度は、空気が動いた気がした。部室が、ほんの少しだけ舞台になる。
思わず、笑いそうになった。
なんだこれ。
同じ「あー」なのに、俺のは音で、彼女のは――何かだ。
「天羽くん」
突然名前を呼ばれて、肩が跳ねる。
「そこ、立って」
指されたのは舞台の中央。彼女の横だった。
言われるまま立つ。近い。近すぎる。
台本を持たされる。
「じゃ、読んでみよっか」
俺が先だった。視線が集まる。紙を見る。文字は読める。息を吸う。
「――……」
声が出ない。いや、出ているはずなのに、自分でも聞こえない。
もう一度。今度は出た。でも、空気は変わらない。
「はい、次」
彼女の番だ。同じ台詞、同じ文字。
彼女が一歩踏み出しただけで、部室の広さが変わる。壁が遠くなり、床が深くなる。
俺は、完全に舞台の外にいた。
終わっても、誰も何も言わない。感想も、指摘もない。ただ次の稽古に進むだけ。
俺は自分の手を見る。震えてはいないのに、心臓だけがうるさい。
昨日まで「分からない」だったものが、今ははっきり「分かってしまった」。
追いつけない。今じゃない。たぶん、すぐでもない。
それでも、彼女は何事もなかったように元の位置へ戻る。俺のほうは見ない。それが、妙に救いだった。
同じ場所に立ち、同じことをして、分かった。
感じるって、こういうことか。
教えられなくて、説明もされなくて、ただ並んだだけで全部が見えてしまう。
笑えない。でも、逃げたいとも思わなかった。
今日は、昨日よりはっきり負けた。それだけだった。
*
入部してから、一週間が経った。
部室に行くこと自体は、もう特別じゃない。放課後になれば、自然と足が向く。
けれど、相変わらず何かが始まる気配はなかった。
「今日は何やる?」「昨日と同じでよくない?」「ま、時間あるし適当で」
そんなやり取りのまま稽古は始まる。始まる、というより流れ出す。
発声も、立ち位置も、動きも、誰かが真剣になってもすぐ周りの温度に溶けていく。
俺は台本を手に立っていた。声も出している。動いてもいる。でも、何も変わらない。
そんな中彼女はいつも通りだった。
呼ばれれば前に出て、与えられた台詞を迷いなく演じ、終われば何も言わず戻る。
「うまいね」
誰かが言って、それで終わる。
その言葉が評価なのか、感想なのか、慰めなのか。誰も考えていない。
塚内先輩は稽古の端でそれを見ていた。口を出すこともなく、まとめることもなく、ただ流れに身を任せている。
「じゃ、今日はここまでで」
一斉に気が抜け、片付けも雑談の延長で進む。
俺は舞台の中央を見た。ここで何かが起きてもいいはずなのに、何も起きない。
「……塚内先輩」
気づけば声が出ていた。
「このままで、いいんですか」
先輩はすぐに答えなかった。視線を舞台に戻し、少し間を置く。
「……よくない、とは思ってる」
低い小さな声だった。
「でもさ、どうすりゃいいか分かんねえんだよ」
俺は、兎内さんの背中を見る。彼女はもう帰り支度をしている。
この場所で、この温度で、彼女だけが先に行ってしまう。その光景が、なぜか怖かった。
「……変えたいです。俺、まだ何もできないですけど。でも、このままは嫌です」
塚内先輩は、俺を見たまま何も言わなかった。
それから視線を逸らし、何かを飲み込むように小さくつぶやいた。
「……俺だって、本当は――」
何かを言いかけて、先輩は口を閉じ、そのまま部室を出て行った。
そんな塚内先輩の背中が消えるまで、俺はしばらく動けなかった。




