選んだ場所
同じ日の放課後。
教室を出ると、廊下は一気に騒がしくなった。部活へ向かう足音、笑い声、窓の外から聞こえる掛け声。
俺はその流れに乗らず、少しだけ立ち止まる。体育館のほうを見る。見慣れた場所。慣れた空気。
それから、反対側を見る。校舎の奥にある、少し古い建物。
理由は考えなかった。気づいたら、そっちへ歩き出していた。
*
──演劇部 活動中
掲示板の紙は、相変わらず端が少し剥がれていた。
少し迷ってから、ドアを開ける。
「……あ」
何人かがこちらを見る。
「あれまた見学?」
声をかけてきたのは、塚内先輩だった。
「はい」
「そっか。そこ空いてるから」
それだけ言って、すぐに視線を戻す。説明も、歓迎もない。
俺は言われた通り、壁際に腰を下ろした。
部室は狭い。簡易的な舞台、剥がれかけた床のテープ、積まれた台本。誰かはスマホを触り、誰かは笑っている。
そんなグダグダとした空気のまま、練習は進んでいく。
「まあ、そんなもんでいいんじゃない?」
「次いこ次」
時間だけが流れていく。
その中で、彼女は一人、黙って立っていた。台本を持ち、視線を落としたまま。周りとは、少しだけ違う温度で。
「兎内さん」
呼ばれて、前に出る。短い台詞。動きも、派手じゃない。
それでも、目を離せなかった。
「はい、次」
間を置かずに、声が被さる。拍手はない。誰かが感想を言うこともない。
彼女は何事もなかったように、元の位置へ戻る。
(……これで終わりか)
確かに何かがあったはずなのに、それを言葉にできる人はいない。周りは興味がなさそうに雑談している。まるで何もなかったかのように。
彼女は気にしていないように見えた。それが、なぜか胸に引っかかった。
この場所で、このままでいいのか。
(……だったら)
見ているだけじゃ、分からない。それだけだった。
同じ場所に立って、同じ空気を吸って、俺が彼女の凄さを理解すればいい。
稽古が終わる。
「お疲れー」
「じゃあなー」
軽い声が飛び交う中、俺は塚内先輩のところへ行った。
「……あの」
「ん?」
「入部届、ありますか」
少しだけ、間があった。
塚内先輩は俺の顔を見て、それから引き出しを開ける。
「あるよ」
差し出された一枚の紙。思ったより、ずっと軽い。
名前と学年を書く。ペン先が一瞬だけ止まった。それでも、書いた。
「よろしくお願いします」
そう言って入部届を渡した瞬間、もう戻れない気がした。
でも、不思議と後悔はなかった。
部室を出る。夕方の校舎は、まだ明るい。
振り返ると、そこに舞台がある。
俺は、まだ立っていない。
でも─もう、何も知らなかった頃には戻れなかった。
*
校門を出ると、少しだけ空が暗くなっていた。昼間より、人通りも減っている。
「桔梗」
聞き慣れた声がして、足を止める。
雅がフェンスのところに立っていた。鞄を足元に置いて、壁にもたれている。
「こなさ過ぎてもう帰ってるのかと思ってた」
「……ちょっと、寄り道してた」
雅は一瞬だけ俺の顔を見る。それだけで、だいたい察したみたいだった。
「演劇部?」
「うん」
「見学?」
少しだけ間を置いてから答える。
「入った」
雅は、すぐには何も言わなかった。空を見上げてから、小さく息を吐く。
「そっか」
必要最低限の言葉それ以上、踏み込んでこない。
「バスケ、来なくなる?」
「分かんない」
正直な答えだった。雅は、少しだけ笑う。
「……そうか」
それだけ言って、鞄を持ち直す。
「先行くわ」
「あぁ」
背中を見送りながら、胸の奥が少しだけ重くなる。でも、引き止めたいとは思わなかった。
俺は、もう一度だけ振り返る。
校舎の奥。あの建物の中に、舞台がある。
俺は、そこに向かって歩き出していたのだから。
プロローグ終了です、明日からはなるべく1日1話の投稿頑張ります。




