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Fascinate  作者: 依田
プロローグ
3/10

まだ、舞台には立っていない

放課後のチャイムが鳴ると、教室は一気にざわめいた。椅子を引く音、笑い声、部活の話。3日目にしては、みんな動きが早い。


俺は、すぐには立ち上がれなかった。


「桔梗」


隣から、雅が声をかけてくる。


「今日も見学だろ? バスケ部」


「……まだ決めてない」


そう言った瞬間、自分で分かった。

嘘だ。

もう、決めている。


雅は、少しだけ黙った。一瞬、俺の顔を見て、それから視線を逸らす。


「そっか」


それだけだった。


理由も、行き先も聞かない。それでも、分かっているんだろうな、と思った。


「じゃ、俺行ってるわ」


軽く手を挙げて、雅は教室を出ていく。その背中を見送りながら、胸の奥が、わずかに痛んだ。


一人残された教室で、俺は視線を後ろに向ける。

彼女の席は、もう空いていた。


演劇部。


昨日から、ずっと頭の片隅に引っかかっている言葉だ。ただの見学のはずなのに、やけに引っかかって離れなかった。



教室を出て、廊下を歩く。

体育館のほうから、聞き慣れた音がした。ボールが床を叩く音。笛の短い合図。声を張り上げる誰かの叫び。


バスケ部だ。


足が、ほんの一瞬だけ止まった。


あそこに行けば、知っている空気がある。分かりやすくて、努力すれば結果が出て、居場所もある。


それなのに、体は反対方向を向いていた。


理由を考えるのは、やめた。

考えたところで、もう答えは出ている気がしたからだ。


俺は、そのまま歩き出した。



校舎の奥、体育館とは反対側にある古い建物。掲示板には、手書きの紙が貼られている。


──演劇部 活動中


ドアの向こうから、声が聞こえた。笑い声。雑談。どこか気の抜けたやり取り。想像していたより、ずっと緊張感がない。


それでも、ここまで来て引き返す理由はなかった。深く息を吸って、ドアを開ける。


中は思ったよりも狭い。簡易的な舞台。剥がれかけた床のテープ。台本を手に集まっている先輩たち。スマホをいじっている人もいる。


本気で演劇をやっている場所、という感じはしなかった。


「てかこのポシェモン可愛くない?」

「え、私のこの子の方がよくない?」


(……ゆるいな)


正直な感想だった。俺が想像していた“舞台の世界”とは、まるで違う。


──そのはずだった。


舞台の奥、照明の当たらない場所で、一人だけ立っている人がいた。


兎内有栖。


周囲とは、はっきりと空気が違う。姿勢も、目線も、ただそこに立っているだけなのに、視線が自然と引き寄せられる。


「兎内さん、いける?」


「はい」


短いやり取りのあと、彼女は舞台の中央に立つ。息を吸い、顔を上げた。


その瞬間、空気が変わった。


声の出し方。目の動き。立ち方。

たった一言、台詞を口にしただけで、何もなかったはずの部室が、生まれ変わる。


気づけば、俺は客席から舞台を見ているような感覚になっていた。

部室の匂いも、ざらついた床の感触も、意識の外へ押しやられていく。


俺は、息をするのを忘れていた。


上手い、という言葉じゃ足りない。ただ、目を離せなかった。


声量でも、台詞回しでもない。

彼女がほんの半歩前に出ただけで、舞台の広さが変わる。


これが演劇なのか。

それとも、彼女だけが特別なのか。


答えは出ないまま、彼女の出番は終わっていた。


彼女は何事もなかったように、元の位置へ戻った。

まるで、さっきの出来事が、俺にしか見えていなかったみたいに。



「見学?」


背後からいきなり声をかけられて、振り返ると、少し日に焼けた人が立っていた。


「あ、はい」


塚内朝日つかうち あさひ。演劇部で部長をやらせてもらってる」


「あ、天羽桔梗です」


「兎内さん、これで一年なんだぜ」


塚内先輩は、それ以上何も言わなかった。ただ、舞台を見つめる背中が、どこか遠くを見ているように見えた。


稽古は、そのあとも続いた。流す人、真面目にやる人、適当に合わせる人。その中で、彼女だけは最初から最後まで、同じ温度で台本に向き合っていた。


合わせない。

妥協しない。


それでも、舞台に立つと全部を持っていく。


周りがどんな空気であっても、関係ないみたいに。


──ずるい。


そう感じた理由を、俺はまだうまく言葉にできなかった。



気づけば、俺は見ているだけのまま、稽古は終わっていた。


「お疲れー」

「じゃあなー」


そんな声が飛び交う中、彼女は静かに台本を閉じた。


残された俺は、その場から動けなかった。


見学のつもりだった。ただそれだけのはずだった。それなのに、胸の奥で、はっきりとした感情が形を持ち始めている。


(……戻れないな、これ)


バスケ部。今までの場所。慣れた居場所。頭に浮かんだのに、そこに居る自分は、もう想像できなかった。



部屋を出ると、夕方の校舎は少しだけ静かだった。遠くから、いくつもの部活の音が重なって聞こえてくる。


笑い声。

掛け声。

ボールの音。


その中に、さっきまで自分がいた場所は含まれていない。


それなのに、不思議と後悔はなかった。


胸の奥が、ざわついている。落ち着かない。でも、嫌じゃない。


たぶんこれは、何かを失った感じじゃない。

何かを、知ってしまった感じだ。


俺の視線は、彼女が出ていったドアから、離れなかった。

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