まだ、舞台には立っていない
放課後のチャイムが鳴ると、教室は一気にざわめいた。椅子を引く音、笑い声、部活の話。3日目にしては、みんな動きが早い。
俺は、すぐには立ち上がれなかった。
「桔梗」
隣から、雅が声をかけてくる。
「今日も見学だろ? バスケ部」
「……まだ決めてない」
そう言った瞬間、自分で分かった。
嘘だ。
もう、決めている。
雅は、少しだけ黙った。一瞬、俺の顔を見て、それから視線を逸らす。
「そっか」
それだけだった。
理由も、行き先も聞かない。それでも、分かっているんだろうな、と思った。
「じゃ、俺行ってるわ」
軽く手を挙げて、雅は教室を出ていく。その背中を見送りながら、胸の奥が、わずかに痛んだ。
一人残された教室で、俺は視線を後ろに向ける。
彼女の席は、もう空いていた。
演劇部。
昨日から、ずっと頭の片隅に引っかかっている言葉だ。ただの見学のはずなのに、やけに引っかかって離れなかった。
*
教室を出て、廊下を歩く。
体育館のほうから、聞き慣れた音がした。ボールが床を叩く音。笛の短い合図。声を張り上げる誰かの叫び。
バスケ部だ。
足が、ほんの一瞬だけ止まった。
あそこに行けば、知っている空気がある。分かりやすくて、努力すれば結果が出て、居場所もある。
それなのに、体は反対方向を向いていた。
理由を考えるのは、やめた。
考えたところで、もう答えは出ている気がしたからだ。
俺は、そのまま歩き出した。
*
校舎の奥、体育館とは反対側にある古い建物。掲示板には、手書きの紙が貼られている。
──演劇部 活動中
ドアの向こうから、声が聞こえた。笑い声。雑談。どこか気の抜けたやり取り。想像していたより、ずっと緊張感がない。
それでも、ここまで来て引き返す理由はなかった。深く息を吸って、ドアを開ける。
中は思ったよりも狭い。簡易的な舞台。剥がれかけた床のテープ。台本を手に集まっている先輩たち。スマホをいじっている人もいる。
本気で演劇をやっている場所、という感じはしなかった。
「てかこのポシェモン可愛くない?」
「え、私のこの子の方がよくない?」
(……ゆるいな)
正直な感想だった。俺が想像していた“舞台の世界”とは、まるで違う。
──そのはずだった。
舞台の奥、照明の当たらない場所で、一人だけ立っている人がいた。
兎内有栖。
周囲とは、はっきりと空気が違う。姿勢も、目線も、ただそこに立っているだけなのに、視線が自然と引き寄せられる。
「兎内さん、いける?」
「はい」
短いやり取りのあと、彼女は舞台の中央に立つ。息を吸い、顔を上げた。
その瞬間、空気が変わった。
声の出し方。目の動き。立ち方。
たった一言、台詞を口にしただけで、何もなかったはずの部室が、生まれ変わる。
気づけば、俺は客席から舞台を見ているような感覚になっていた。
部室の匂いも、ざらついた床の感触も、意識の外へ押しやられていく。
俺は、息をするのを忘れていた。
上手い、という言葉じゃ足りない。ただ、目を離せなかった。
声量でも、台詞回しでもない。
彼女がほんの半歩前に出ただけで、舞台の広さが変わる。
これが演劇なのか。
それとも、彼女だけが特別なのか。
答えは出ないまま、彼女の出番は終わっていた。
彼女は何事もなかったように、元の位置へ戻った。
まるで、さっきの出来事が、俺にしか見えていなかったみたいに。
*
「見学?」
背後からいきなり声をかけられて、振り返ると、少し日に焼けた人が立っていた。
「あ、はい」
「塚内朝日。演劇部で部長をやらせてもらってる」
「あ、天羽桔梗です」
「兎内さん、これで一年なんだぜ」
塚内先輩は、それ以上何も言わなかった。ただ、舞台を見つめる背中が、どこか遠くを見ているように見えた。
稽古は、そのあとも続いた。流す人、真面目にやる人、適当に合わせる人。その中で、彼女だけは最初から最後まで、同じ温度で台本に向き合っていた。
合わせない。
妥協しない。
それでも、舞台に立つと全部を持っていく。
周りがどんな空気であっても、関係ないみたいに。
──ずるい。
そう感じた理由を、俺はまだうまく言葉にできなかった。
*
気づけば、俺は見ているだけのまま、稽古は終わっていた。
「お疲れー」
「じゃあなー」
そんな声が飛び交う中、彼女は静かに台本を閉じた。
残された俺は、その場から動けなかった。
見学のつもりだった。ただそれだけのはずだった。それなのに、胸の奥で、はっきりとした感情が形を持ち始めている。
(……戻れないな、これ)
バスケ部。今までの場所。慣れた居場所。頭に浮かんだのに、そこに居る自分は、もう想像できなかった。
*
部屋を出ると、夕方の校舎は少しだけ静かだった。遠くから、いくつもの部活の音が重なって聞こえてくる。
笑い声。
掛け声。
ボールの音。
その中に、さっきまで自分がいた場所は含まれていない。
それなのに、不思議と後悔はなかった。
胸の奥が、ざわついている。落ち着かない。でも、嫌じゃない。
たぶんこれは、何かを失った感じじゃない。
何かを、知ってしまった感じだ。
俺の視線は、彼女が出ていったドアから、離れなかった。




