声にならなかったものの行き先
部室の前で突然声をかけられた。
「……あ、天羽君」
振り向くと、岡田先輩が立っている。
手にはコンビニの袋。
いつも通りの、少し気の抜けた雰囲気だった。
「今から?」
「はい」
それだけのやり取りのあと、岡田先輩は俺の隣に並ぶ。
扉を見たまま、本当に何でもないことみたいに言った。
「最近さ、ちょっと楽しいんだよね」
一瞬、言葉に詰まる。
「……え?」
「いや、ほら私って何かをまじめにやったことなくて」
それから、少しだけ間を置いて続けた。
「前より、ちゃんと青春してるーって感じしない?」
そうつぶやく岡田先輩の顔は笑っていた。
「あの……俺も、」
小さく息を吸って、続きの言葉を飲み込んだ。
岡田先輩は、そんな俺の言葉の続きを待たなかった。
「ま、いいよ」
そう軽く言って、そのまま扉に手を伸ばす。
「行こ。遅れると怒られるし」
「……はい」
部室の扉が開く。中は、少し広く感じた。実際に広くなったわけじゃない。置かれている椅子の数が減っただけだ。それでも、空気の逃げ場が増えたみたいに、音が前より遠くに感じられる。
「お、来た来た」
誰かが言って、軽く手を振る。それ以上、会話は広がらなかった。
岡田先輩は自分の椅子を引きながら、小さく言う。
「さっきのさ」
「?」
「言えなかったやつ」
俺のほうは見ない。
「無理に言わなくていいと思うよ」
それだけ言って、先に座った。
返事はしなかった。というより、できなかった。
舞台の中央を見る。塚内先輩が、昨日と同じ場所に立っていた。
「じゃあ」
短く手を叩く音。
「始めよう」
それだけで、部室の空気が静かに切り替わる。
発声練習が終わり、読み合わせが始まるまでのほんのわずかな間。その沈黙を破ったのは、岡田先輩だった。
「あのさ」
声を落として、軽く。
「さっきの発声さ。正直キツかったけどさ」
誰かが小さく笑う。
「でも、ちょっと楽しくなかった?」
冗談めかした言い方だった。けど、その言葉は本気だった。
「……楽しい、かどうかは分からない」
それは酒井先輩の声だった。
「えー、そう?」
岡田先輩が、少しだけ意外そうに言う。
「前より、ちゃんとやってる感じしない?なんていうか、ちゃんと部活っぽいじゃん!」
その言葉に、酒井先輩の指が止まった。
「部活っぽいのが、いいとは限らないでしょ。今までも、別に困ってなかったし」
視線を台本に向けたまま、淡々と告げる。
岡田先輩は、一瞬だけ黙った。
「……でもさ」
軽く、言葉を選ぶみたいに続ける。
「私、こういうの嫌いじゃないんだよね」
その瞬間、酒井先輩が顔を上げた。ほんの一瞬。すぐに視線は逸れたけど。
「……そう」
それだけだった。
「最近、摩耶が楽しそうなのは分かる。でも、急に全部それになられると、ついていけない人もいる」
誰の名前も出していない。それでも、自分のことを言っているのは、はっきり分かってしまった。
岡田先輩が、少し困ったように笑う。
「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど、確かにそういう人もいるよね」
「別に責めてるわけじゃない」
酒井先輩は、すぐに言った。
「ただ……前みたいに話す時間、減ったなって思っただけ」
それ以上は続かなかった。
沈黙が落ちる。
俺は、そのやり取りを聞きながら、どこにも入れずに立っていた。演劇の話をしているはずなのに、演劇じゃないところで、すれ違っている。
「……じゃ、始めよ」
岡田先輩が、いつもより少しだけ早く言った。
塚内先輩が、それに被せる。
「続けるぞ」
台本を開く音が重なる。
酒井先輩は、岡田先輩のほうを見ないまま、ページをめくる。
岡田先輩は、いつもより少しだけ背筋を伸ばして、舞台を見る。
そして俺は、その間に立ったまま、次の台詞を待った。
*
その日の練習が終わり、片づけを始める直前だった。
「あのさ」
塚内先輩の声がした。
大きくも、張った声でもない。
独り言みたいで、それでも確かに全員に届く声。
「片付ける前にさ、今さら?って思うかもしれないけど」
少しだけ、言葉を探す間があった。
「このまま練習してるだけで、終わるのは嫌だなって」
誰かが、ほうきを握ったまま固まる。
「みんなでちゃんと、一つの芝居を作りたい」
そこで一拍。
「……だからさ大会、出てみたい」
その言葉が、部室に落ちた。
ざわめきは起きなかった。
すぐに否定も、同意も出ない。
「勝つとか、結果とか、正直まだ分からない」
言い訳みたいで、でも逃げていない声。
「でも、みんなで目指す何かが欲しい」
視線が、自然と集まる。
「今すぐ決めろとは言わない」
そう前置きしてから、
「ただ……俺は、これからは大会を目標にしたい」
それだけ。
部長らしい締めの言葉も、号令もない。
「……以上。片付け続けて」
まるで、思いついたことを口にしただけみたいに言って、塚内先輩は箒を手に取った。
最初に口を開いたのは、岡田先輩だった。
「……私は、いいと思う」
軽い調子のまま。でも、目は逸らしていない。
「目標あったほうが楽しいし。どうせやるならさ」
それに続くように、誰かが頷く。
「出るだけでも、意味あるよな」
「今まで何も残ってないし」
小さな賛成が、いくつか重なった。
俺も、胸の奥で同じことを思っていた。
怖いけど、見てみたい。
この部活が、どこまで行けるのか。
「でもさ大会って、顧問がいないと出られないよね」
視線を床に向けたまま酒井先輩が言った。
その瞬間、空気が一気に現実に引き戻される。
「……あ」
誰かが短く声を漏らす。
「そうだ」
「うち今、顧問いないじゃん」
「申請、通らないよね」
賛成の余韻が、そこで止まった。
塚内先輩は、驚かなかった。
むしろ、分かっていたみたいに頷く。
「うん、それはそうだ」
誰も、すぐに続けられない。
「だからさ」
塚内先輩が、周りを見渡して言う。
「先生、探すところからだね」
笑いは起きなかった。
「……簡単じゃないよ」
酒井先輩が言う。
「今、先生余ってないし。それに演劇ってただでさえ面倒だし」
それは事実だった。
みんな、分かっていること。
塚内先輩は、一度だけ深く息を吸った。
「分かってる」
視線を上げる。
「だから、これが最初の壁だ」
大会、という言葉が、少し遠くなる。
「出たいなら、まず顧問を見つける」
誰かが言い返す。
「そんな都合よく――」
「都合よくなくていい」
被せるように、塚内先輩が言った。
「時間かかってもいい。断られてもいい、だってそれがやらない理由にはならないから」
その言葉で、賛成は覚悟に変わった。
大会を目指す。
立つための条件は、まだ揃っていない。
それでも、ここまで来てしまった。
俺は、舞台の縁を見る。
声にならなかったもの。
それは“問題”になって、確かに舞台の内側を指していた。




