幕を裂く声、舞台はもう逃げない
その日の朝、スマホが短く震えた。
画面を見ると、塚内先輩からだった。
《台本、預かってる。三年の教室に置いてある。昼休みにでも取りに来い》
それだけの文面だった。
絵文字も、余計な言葉もない。
昨日、部室で読んだあと、そのまま置いてきたらしい。
鞄にないことを確認し、ため息をついた。
「何やってんだか……」
今すぐ困るわけじゃない。放課後でもいい。
それでも、先に取っておいたほうがいい気がした。
昼休みのチャイムが鳴ってすぐ階段を上がって、三年の棟へ向かう。
昼の校舎は人が多いはずなのに、このフロアだけ少し静かだった。
三年の教室の前まで来たとき、
中から話し声が聞こえてきた。
「最近さ、塚内くん変わったよね」
足が、ほんの一瞬だけ止まる。
「変わったって?」
「なんていうか……部活の話なんてしなかったのに、最近はするから部長っぽくなったなって」
「前から部長じゃん」
「いや、そうなんだけどさ」
言葉を探すみたいに、間が空く。
「てか知ってる?昔はさ、もっと真面目に演劇やってたらしいよ」
「へえ、そうなんだ。意外」
「今より、って意味なんだけどね」
噂話みたいに投げて、深掘りはしない。
その時、後ろから声がかかる。
「天羽」
呼ばれて振り向くと、塚内先輩が立っていた。
「忘れ物だろ」
「はい。すみません」
「気にすんな」
先輩はそう言って、台本を持ってきてその端を軽く指で押さえた。
「もう忘れるなよ」
それだけ言って、台本を手渡し教室へと戻っていった。
ふと手渡された台本を見ると、ページが少しだけ開きやすくなっている。
癖がついたみたいに、自然と同じところで止まる。
誰かが、そこを何度か開いた跡だった。
*
背中に、さっき聞いた言葉が残っている。
――昔は、真面目に演劇を。
俺とは関係ない話のはずなのに、
その言葉だけが頭の中でループする。
5分前のチャイムが鳴る。
それは間もなく昼休みの終わりを告げる音だった。
俺は少し慌てて自分の教室へと歩いて行った。
*
放課後、部室に向かう足取りは、昨日までと変わらないはずだった。ただ、どうしても昼の出来事が頭から離れなかった。
扉の前に立ったとき、少しだけ呼吸を整えている自分に気づく。中から声がする。笑い声も、雑談もある。いつもと同じはずの音だ。
扉を開けると、三年の先輩たちが何人か、すでに集まっていた。
「お、天羽君じゃーん。やほ」
その中心にいる岡田先輩に、軽く「おはようございます」と返し、部室の端――いつの間にか定位置になりつつあるパイプ椅子に座る。
十分ほど経って人数が揃ってきたころ、塚内先輩が言った。
「じゃ、そろそろ始めるか」
声の調子は、前と同じだった。なのに、誰もすぐには動かなかった。
「あ、発声からだよな」
誰かが言って、ようやく椅子を引く音が鳴る。立ち上がる動作が、わずかに揃っている気がした。
「あー」
声を出す。前より大きくなったわけでも、揃ったわけでもない。それでも、どこかで流れきらずに残る。
塚内先輩は舞台の中央に立っていた。ただ立っているだけだ。指示も出さない。それでも、その視線が部室全体をなぞっているのが分かる。
視線が向いた瞬間、誰かの声が途中で止まる。わざとじゃない。詰まったわけでもない。ただ、一瞬、止まってしまった。
「……続けて」
低く短い言葉だった。
発声が終わり、読み合わせに入る。
「今日は、各々好きなところを読んでほしい」
塚内先輩の提案に驚きつつも、俺は自然と、消し跡の残るページを開いていた。
隣で、兎内さんも同じページを開いていた。
目線は台本に落ちたまま、こちらを見る気配はない。
息を吸って、声を出す。上手くなったわけじゃない。違いが分かったわけでもない。上手くなったわけじゃない。違いが分かったわけでもない。
それでも、前より声を出すのが怖くなかった。
読み終えて顔を上げると、塚内先輩と一瞬だけ目が合う。すぐに逸らされる。評価された感じはしない。でも、見られていた。
読み合わせは続く。途中で止まる場面が、いくつかあった。誰かがミスをするたび、塚内先輩が短く声を出す。
「そこ、もう一回」
理由は言わない。説明もしない。それでも、その回数は確実に増えていく。
稽古の終わりが近づくころ、部室の空気は前と同じではなかった。重くはない。張り詰めてもいない。ただ、流れきらなくなっている。
「今日はここまでで」
片付けが始まる。椅子を畳む音、床を掃く音。いつもと同じ――そう思った、その瞬間だった。
「少しだけみんなに、話がある」
塚内朝日が声を上げた。
*
塚内先輩は、一度だけ視線を落とした。床でも、台本でもない、舞台の縁あたりを見ている。そのまま数秒、何も言わない。
部室の音が、自然と消えていく。椅子を畳む手が止まり、私語も途切れる。誰かが「え?」と小さく声を漏らしたが、それ以上は続かなかった。
「……時間、取らせる」
それだけ言って、縁の近く、少し後ろに下がった位置で、全員を見渡す。
「正直に聞く」
そこで一度、言葉を切る。
「最近の演劇部どう思ってる?」
塚内先輩の言葉に誰も反応しない。否定も、同意もない。ただ沈黙が流れる。
「俺は今まで流れに任せて、空気を壊さないようにして。誰も困らないようにしてきたつもりだった。でも――」
ほんの一瞬だけ口元を歪めた気がした。
「それって、ただの逃げなんじゃないか?」
空気が張る。誰かが息を呑む音が、はっきり聞こえた。
「上手いやつは上手いまま。やらないやつは、やらないまま。俺はそれを、放ってただけだ」
視線が、舞台のあちこちを行き来する。岡田先輩は腕を組み、酒井先輩は目線を落としている。誰も口を挟まない。
「でもな」
塚内先輩は、少しだけ声を強めた。
「最近、止まるんだ」
それだけで、何人かが顔を上げた。
「稽古が。空気が。一瞬だけ、止まる。止まって、考える時間ができる。今までなかった時間だ」
端に立つ俺のほうを、一瞬だけ見た気がした。
それが偶然なのかどうか、確かめる前に視線は全体へ戻っていた。
「だから、変えたいと思っている」
部室がざわつく。小さな声が重なりかけて、でもすぐに静まる。
「これまで通りの、ミスしても流す、雑談だけして帰る、まじめにやっているやつを茶化す」
言葉を選ぶみたいに、一つずつ区切って言った。
「流れでなんてやらせない。なんとなく終わらせない。俺は上手い下手の前に、ちゃんと演劇に向き合いたい」
誰かが小さく笑った。冗談だと思ったのかもしれない。
だが塚内先輩は、それを気にしないように言う。
「嫌なら、演劇部を抜けてもらってもいい。」
一拍、間を置く。
「でも、俺はこのままはやらない」
はっきりした声だった。迷いがないわけじゃない。でも、引く気もなかった。
「演劇部の部長として、ちゃんと部活をやる。それが俺のけじめだ」
その言葉で、空気が決定的に変わった。
拍手も歓声もない。ただ、逃げ道が塞がれた、そんな静けさに満ちる。
それ以上何も言わず、「今日は以上」とだけ告げた。
片付けが再開される。でも、さっきまでとは違っていた。動きが遅い。視線が合う回数が増えている。誰かが、さっきの言葉を頭の中で反芻しているのが分かった。
その日、名もなき変調は、声を持った




