第2魔将への道
夜が明けるより先に、焚き火は消した。
火種を潰し、灰を踏み固め、痕跡が残らないよう周囲の土を均す。必要以上の慎重さだと分かってはいたが、誰も止めなかった。むしろ、誰もがそれを当然だと受け入れていた。
空はまだ明るさを取り戻していない。灰色の雲が低く流れ、朝と夜の境界を曖昧にしている。湿った冷気が肌にまとわりつく。深く息を吸えば肺が痛む。だが、冷たさよりも、胸の奥に残る緊張の方が重かった。
第一魔将の領域は越えた。
越えたはずだった。
だが、空気は緩まなかった。均された静けさは変わらず、その奥に、別種の圧が溶け込んでいる。目には見えないが、確かに感じる。
戦場の匂いだ。
ガルドが先頭に立つ。歩幅は崩れない。だが、踏み込みの重さが昨日よりわずかに落ちているのを、俺は見逃さなかった。大きくは削れていない。それでも、確実に消耗は積み重なっていた。
俺は一歩下がりもせず、一歩前にも出ず、彼の背に重なるような距離で歩く。
左右にはリィナとセシル。
レインは時折視界から消え、またいつの間にか戻ってくる。気配を追おうとしても難しい。だが、その存在だけは確かに感じられる。
足音は最小限に抑えられていた。
乾いた枝を踏む音すら、慎重に避けて進む。
俺は周囲を見ながら、頭の中で無意識に数え始めていた。
遮蔽物、六。
退路、三。
死角、七。
視界の抜け、二。
魔法が通る角度、四。
ガルドが踏み込める距離、八歩。
セシルが安全圏を維持できる幅、五歩。
レインが隠れられる影、少ない。
リィナが詠唱できる静寂、足りない。
考えているつもりはなかった。身体が勝手に拾い、整理していただけだ。
「……嫌な並びだね」
レインが小さく呟いた。
俺は前方を見る。
森が途切れている。木々の密度が徐々に薄れ、広い空間が姿を見せ始めていた。開けている。やけに整っている。
自然にそうなった地形ではない。
作られている。
「罠は?」
「ない。だから嫌だ」
レインの結論は短い。だが、的確だった。
隠し罠も、仕掛けもない。
だからこそ嫌らしい。
正面から潰すつもりだ。
そういう戦場が、最も多く血を吸う。
リィナの歩調が、ほんの僅か遅れた。顔色は変わらない。だが、呼吸が浅い。魔力の循環は安定しているように見えて、まだ底が回っていない。
セシルはそれを理解している。だが言葉を挟まない。必要以上の配慮は、逆に鈍りを生む。彼女もまた、戦い方を知っている。
ガルドの背中が張る。
戦士は、戦場の空気に敏感だ。理屈ではなく、身体の奥で理解する。
俺もまた、はっきりと分かった。
ここが、第二魔将の領域だ。
足を踏み出した瞬間、地面の質感が変わった。
固い。
踏み返す力が強い。
足裏から伝わる衝撃が、骨を通じて体幹まで届く。
踏み込むための、走るための、戦うために用意された土地だ。
広場に出る。
空が広い。
風が遮られず、そのまま吹き抜ける。
だが、世界は静かだった。
視界に入るものは、砕けた岩と、抉れた大地と、踏み千切られた痕跡。規則性はなく、だが一本の線が見えた。
力で作られた跡だ。
剣の痕ではない。魔法の焼け跡でもない。
ただの暴力。
ただの重量。
ただの圧。
ガルドが剣を握り直す。手の甲に浮かんだ血管が強く張る。
「……いるな」
誰も反論しない。
見えないのに、分かる。
呼吸の音に混じる、別の振動。
地面の奥から、わずかに伝わる脈動。
近い。
「リィナ。詠唱は短く」
「分かってる」
「セシル、ガルドの後方固定」
「了解」
「レイン、左右の回り込みは早めに」
「最初から狙う」
言葉は最小限で共有され、役割は自然に染み込んでいく。
俺は息を整える。
ここは短期決戦だ。
長引けば、確実に押し潰される。
「来る」
言葉より早く、地面が鳴った。
一歩。
一歩。
一歩。
それだけで、世界が揺れた。
姿を現したのは、巨大な人影だった。
鎧は纏っていない。肉体そのものが鎧だと言わんばかりに、異常な厚みを持つ筋肉が覆っている。武器はない。必要ない。振るうだけで周囲を砕くだろう腕がある。
第二魔将。
目が合った瞬間、理解した。
――単純だ。
――だから強い。
ガルドが吼え、前に出た。
剣が振るわれ、拳が応じる。
衝突音は爆発にも似ていた。
圧縮された空気が弾け、衝撃が地面に走る。俺の足裏まで震えが届く。
ガルドは踏みとどまる。
だが、一歩押された。
力だけで、負けている。
俺は一瞬だけ迷い、すぐに思考を切る。
迷う余裕はない。
リィナの詠唱が始まる。速い。それでも、魔将の突進には速さが足りない。詠唱を狙って、影が動く。
セシルが詠唱準備。遅い。間に合わない。
俺は前に飛び込む。
盾を構え、魔将の進路に割って入る。
衝撃が走る。腕が痺れる。骨が軋む音が、身体の内側から聞こえた。呼吸が詰まる。
だが、止める。
止めなければ、終わる。
リィナの魔法が放たれる。
衝撃波のような熱が魔将の体表を焼く。焦げる匂いが風に混じる。
それでも、怯みは一瞬だけだった。
強い。
底が見えない。
ガルドが横合いから踏み込む。
剣が肉を裂く。浅い。だが、確かに通っている。
その一瞬、魔将の注意が分散する。
「今、ずらせ」
俺は声を張る。
レインが動く。影から影へ。魔将の背に回り、膝裏へ刃を差し込む。
魔将の動きが鈍る。
だが、崩れない。
セシルの回復が届く。
痛みが薄れ、呼吸が戻る。
俺は考える。
長期戦は無理。
短期でも厳しい。
だが、勝ち筋は消えていない。
動きの癖。
踏み込みの周期。
腕の振り。
重心の揺れ。
全部を見る。
全部拾う。
全部繋ぐ。
判断を止めるな。
それだけを、頭の奥で繰り返す。




