魔王直属の土地
あれもこれもと書きたくなってまた浮気です
この作品は1話ごとの題名を付けてみることにしました
その土地に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
冷たいわけではない。重苦しいわけでもない。ただ、ここでは呼吸という行為そのものが、わずかに拒まれている気がした。肺に入る空気の量が変わったわけではない。それでも、胸の奥に残る感覚が違う。
風は吹いている。雲も流れている。木々も揺れている。それなのに、生き物がそこに存在しているという確信だけが、綺麗に削ぎ落とされていた。
魔王直属。三魔将の一角が支配する土地。
地図では単なる通過点に過ぎなかった。街も村もない。守るべきものがない土地だと、そう思っていた。だが実際に立ってみると、この場所は放棄されたのではなく、意図的に整えられているのだと分かる。
森は荒れていない。道も崩れていない。だが、人が長く滞在することだけが想定されていない。必要最低限の形だけを残し、それ以上を削り取ったような不自然さがあった。
「……嫌な感じだな」
前を行くガルドが低く呟く。戦士として数え切れない戦場を踏んできた男だ。その彼がこう言う時、大抵の場合、事態は単純では済まない。
隊列は自然と定まっていた。先頭にガルド。その少し後ろに俺。左右を意識しながらリィナとセシル。最後尾と影を行き来するのがレインだ。
誰かが指示したわけではない。だが、誰も異論を持たない。何度も戦い、何度も命を預け合い、気付けばそうなっていた。役割というものは、言葉で決めるよりも、こうして身体に染み込んでいくものなのだろう。
岩陰を越えた瞬間、空気がわずかに揺れた。
俺は反射的に足を止める。言葉にするより早く、視線を走らせ、気配の位置を測る。微かな違和感。だが、それだけで十分だった。
次の瞬間、ガルドが踏み込んでいた。
剣が振るわれる。風を切る音と、肉を断つ音が重なる。前衛に潜んでいた魔物が、まとめて地面に叩き伏せられた。抵抗の時間はほとんどなかった。
ほぼ同時に、背後から魔力のうねりが走る。
「――焼き切れ」
リィナの詠唱は短い。だが、その一節に込められた圧は、周囲の空気を変える。火球が群れを包み込み、逃げ場を塞ぐ。残った影は、叫ぶ間もなく灰に変わった。
俺は剣の柄に手を掛けたまま、抜かなかった。抜く必要が、なかった。
戦闘は終わっている。そう理解するよりも早く、身体がそう判断していた。
セシルは誰も傷を負っていないことを確認し、それでも回復の光を流す。癖のようなものだ。彼女は常に、最悪の一歩手前を想定している。備えすぎることはないと、誰よりも知っているからだ。
レインは戦闘が終わる前から、すでに周囲を回り、罠の有無を確かめていた。足音は小さく、存在感は薄い。それでも、彼がいるだけで背後が安全だと分かる。
完璧な流れだった。
俺がしたことといえば、敵の気配をわずかに早く察知し、リィナと目を合わせたことだけだ。それも、なくても結果は変わらなかっただろう。
歩き出しながら、胸の奥に小さな違和感が残る。
剣なら、ガルドには届かない。魔法なら、リィナの足元にも及ばない。回復はセシルの領域で、索敵はレインの仕事だ。
俺は、すべてができる。だが、すべてが二番手だ。
その事実は、戦場に出るたび、少しずつ重みを増していく。
「さすがだな、勇者」
ガルドが振り返らずに言う。称賛でも皮肉でもない。ただの事実確認のような声だった。
何が、だろうか。
俺は曖昧に息を吐き、言葉を返さなかった。気遣いであることは分かっている。だが、その評価が胸に落ちてこない。落ちてしまえば、きっと立ち止まってしまう。
進むにつれて、敵は増える。配置は巧妙になり、動きも洗練されていく。それでも、仲間はそれ以上に対応していた。
俺は遅れないように歩くだけだ。前に出る理由も、出る意味も、見当たらない。
岩陰で短い休止を取る。
ガルドは剣を拭き、刃の状態を確かめる。リィナは目を閉じ、魔力の流れを整える。セシルは全員の呼吸と表情を確認し、必要があればすぐ動けるようにしている。レインは周囲から目を離さず、気配の変化を探っている。
それぞれが、自分の役割を疑っていない。
「判断、助かった」
セシルが静かに言った。その声には、疑いも社交辞令も含まれていなかった。
俺は首を振る。
「大したことじゃない」
本心だった。
だが、リィナは視線をこちらに向ける。
「全体を見られる人がいないと、ああはいかない」
その言葉に、返す言葉が見つからない。全体を見ているつもりはなかった。ただ、誰かが倒れないよう、誰かが遅れないよう、順番をつけていただけだ。
「器用だよな」
レインが軽く言う。冗談の調子だった。だが、その声に、俺は一瞬だけ違和感を覚えた。羨ましさ。そんな感情が、混じったように聞こえた気がした。
理解できなかった。
彼らは強い。俺より、ずっと。
ガルドが立ち上がる。
「行くぞ」
短い命令だ。誰も異を唱えない。
俺は最後に立ち上がり、隊列の中央に戻る。
この戦いにおいて、最も代わりが利く存在は誰か。考えるまでもない。
それでも、歩き続ける。
勇者という肩書きを、せめて足枷にしないために。
もしお時間があれば他の作品も読んでくださいψ(`∇´)ψ




