第九話
「ここで少し休んでいこう。」
そういい、桐生はいちの手を引いて、木の根元に座るように促した。
「家族とはいえない存在だったかもしれないけれど、名前まで忘れられていたなんて。」
とつぶやく私に、桐生は安心させるように微笑む。
「そんなことは気にしなくてもいいんだよ。名前なんて、いつでも変えることができる。君の価値は名前じゃ決まらない。」
その桐生の言葉にどこか安心し、私は目を伏せ、木々のざわめきに耳を傾ける。
私の名前を忘れていたあの人たちのことを薄情だと感じたけど、私も人のことは言えないらしい。
今まで名目上は家族として過ごしていた人たちが捕まったのにそれに対しては何も思わない。それどころか、心はすっきりとし、軽くなっている。
桐生は目を閉じ休んでいるいちを静かに見据え、どこか冷たい色を宿していた。
『名前を失った君は、誰よりも脆く、そして、誰よりも利用価値がある。』
彼の胸中に渦巻く思惑は、まだ誰にも知られていない。
「『さくら』、なんでさっきそう呼んだんですか?」
「それ聞くか?すごく安直なんだが。君と出会ったのがこの木の下だったからだよ。あの場面であいつらの知り合いとばれると、とんでもなく面倒くさいことに巻き込まれる。それどころか一歩間違えば、君は罪人の家族ということで同じ罪を着せられるかもしれなかった。」
出会った木の名前が『さくら』
もしかして。
私は、木の枝を拾い、地面に文字を書いた。
「この文字『桜』って『さくら』って読むんですか?」
いきなり文字を書きだした私を彼はじっと見つめ、その質問に対し、呆気にとられたような顔をした。
「君、この文字がなんだかわからないままここへ来ていたのか」
手紙には桜の木の下でと書いたはずなんだが。と。
神通関係のことを木の下で話したのはここで桐生とだけであったため、悩まずにこれたというと、苦笑し、あの日声をかけていてよかったと心底安心したような顔を見せた。
桐生はいちの手をそっと握りしめる。そのままじっといちを見つめる。
「いち、君はこの先、どんな困難があっても、決して一人にはしないよ。君がここにいる限り、僕は君のことを守るよ。」
その言葉は優しく、まるで約束のように響いた。しかし、彼の瞳の奥に垣間見えた影は、決して、そのままの意味でないことを示している。
そのことに気づかないいちは、小さく答え、彼の肩によりかかった。まるで、この腕の中にいれば、どんな苦しみも、痛みも、忘れられるような気がした。
だが、風に乗って聞こえてくるような気がするあの人たちの「許さない」という呪いが、耳にこびりつき、私の心をかき乱す。
「桐生さん。私、本当にここにいていいのかな。」
「もちろん。君は、僕の大切ないちだよ。」
優しい声色のまま彼はそう言った。その瞳に浮かぶ柔らかな光は、ほんのわずかに、揺らめく闇を隠していた。
その闇の正体を、私はまだ知らない。
けれど───。
「ありがとう。桐生さん。」
彼の手を握り返す。今となっては、私の名前をただ一人呼んでくれる存在。今の私には、何よりの救いであった。
彼の優しさの裏に潜む真実を知らぬまま、私はただ静かに目を閉じた。