第5話 不穏
「えぇっと、か……かき……」
「き、じゃない。す、だ」
「す……」
日が長くなり、夕方になってもまだまだ外は明るく暑苦しい7月下旬。
間近に迫った前期末試験に向け、私は試験勉強に取り組んでいる。
「えぇっと……た、かな?」
「す、だ」
「…………スイマセン」
ちなみに今は、ダイスに協力して貰いつつ万葉仮名の解読に勤しんでいる。私が読んで、ダイスが答え合わせをする形で。
「さっきから同じところで躓いてるぞ」
「うぅ……難しいよ、す……」
だというのに、試験に臨む私本人よりもダイスの方がよく理解しているような……気のせいだろうか。
「このくらい簡単だろう」
「えー、じゃあダイス読んでみてよ。これとか」
「見せてみろ」
プリントを交換して、ダイスが例文の載ったものを、私が正解の載ったものを手にする。さっき私が読んでいたものとは別の例文を指差し、それを読むよう彼に指示した。
すると、彼はスラスラと読み上げたではないか。一つも間違う事なく。
「嘘でしょ……」
「俺は最近この国の文字に触れるようになったからな。おかげで昔の文字でも先入観なく知識を吸収できた、というのもあるかもしれん」
「そういう問題じゃないでしょ……」
うん、気のせいじゃなかった……私よりダイスの方が授業理解してる。思えば、他の科目のレポートで頭を悩ませた時も、ダイスの的確な意見で乗り切れた事が何回かあった。
「私、不安になってきた……ダイス代わりに受けてー……」
「無理に決まってるだろう」
「ですよねー」
テーブルの上に力無く突っ伏す。私の部屋のテーブルより位置が高いせいか、慣れない感覚だ。
耳元でダイスの小言が飛んでくる。
「大体以前から言ってただろう。予習復習しっかりしないと後から困るぞと」
「分かるけどさぁ……プライベートの時間減っちゃうし」
「だからって授業中も集中しているようには見えなかったが?」
「う……しょうがないじゃん、授業って楽しくな」
「お前らのせいでオレも集中できないんだけど。まさに今」
私とダイスのやり取りに、第三者の声が割り入ってきた。
その声がした真正面を見やると、よくイケメンと持て囃される容姿を持った青年が私達をじとっと睨んでいる。
「さっきから目の前でイチャイチャと……何見せられてんだ、オレは」
「イチャっ……全然そんな事」
「あるんだよ、さっきから!」
そう、ここはいつもの私の部屋……ではなく、幼馴染の洸の部屋。私の自宅から歩いて15分程の場所にあるアパートの一室だ。
何故洸の部屋にお邪魔しているのかというと、私の自宅の冷蔵庫が壊れたから。
「大体、冷蔵庫が壊れたからって大袈裟なんだよ。エアコンが壊れるよりマシだろ」
「いやいや、この季節に冷蔵庫が使えないってホントしんどいから!洸も一度味わえば分かるよ!」
「それがオレの家に居座る大層な理由になんのかよ」
洸は経験してないからそんな事が言えるんだ。今朝冷蔵庫を開けた時の、ジュースや水は生温く、冷凍のアイスはどろどろに溶けていたあの惨状を……。
「とにかく……目の前でそれされると気が散ってしょうがないから、そういうのは他所でだな……」
洸がイラついた様子でシャーペン片手に文句を垂れていると……。
「自分が集中できないのを他人のせいにするとは、自己正当化もいいところだな」
しばらく黙って私と洸のやり取りを聞き流していたダイスが、容赦ない煽りと共に参入してきた。
いや、容赦なさすぎてヤバいでしょ、それ。
「は?」
ほら、洸がすかさず反応した。
洸って普段冷静なのに、何故かダイス相手だと沸点低くなるんだよな……。そう思っているうちに案の定、2人の言い合いが始まった。
「俺とこのみには構わず、お前はお前のやるべき事をこなせばいいだけだろう」
「集中しようにも、アンタ達の声が煩わしいんだよ」
「だったら俺達を追い出せばいい」
「そーですか、じゃあお帰りください」
「せっかくこのみがお前を頼ったというのに、案外薄情なんだな」
「追い出せばいいって言ったのそっちだろ!つーか医学部舐めてんのか。こちとらしょっちゅうテストある上に、ほぼ全部暗記なんだぞ。実習だってあるんだし」
「それがどうした。自分で志して選んだ道だろう。ならば自分で責任を負わねば……」
「ごめん、今度は私が集中できないんだけど」
私のその言葉を最後に部屋は静けさを取り戻し、各々勉強に黙々と取り組むようになった。
それにしてもこの2人、なんで会う度に煽り合ってしまうのか……。これでは先が思いやられる。いや、今まででも既に十分困ってるけど。
私は2人に気づかれないよう、小さく溜息を吐いた。
ダイスの協力のおかげもあって、私はなんとか全科目をパスできた。まあ合格点ギリギリの科目もあったけど。
とにかくこれで再試験の心配もなく、冷蔵庫も新調して迎えた夏休みのとある日。
私とダイスは映画館に足を運んでいた。
これまでにダイスを連れての外出は何回かあったけれど、その行き先のほとんどが大学やバイト先だった。他にはスーパーでの買い物くらい。
そんな変わり映えしない毎日だから、ダイスに退屈させてないだろうか……。そう心配した私は、夏休みを迎えたらいろんなところへ遊びに行こうと提案したのだ。
だけどやっぱりダイスがいる以上、人の目は気にしないといけない。
そこで今回は映画館を行き先に選んだ。上映中はみんな映画に集中するし照明も暗いから、座る場所さえ気をつければバレないんじゃないかと思ったのが理由だ。
ダイスは「別に退屈していない」と言ってくれたけど、私のその提案には乗った。どうやら映画というものにさぞ興味が湧いたらしい。元の世界では映画なんてなかったらしいからな……。
そういった経緯を経て、私は今チケット販売機前の行列に並んでいる。夏休み期間だからか、午前中でも館内はかなりの人で賑わっていた。だからダイスにはいつも通り、バッグの中に潜伏して貰っている。
「えっと、当日券……あ」
ようやく私の番が来て向かった、一番端の販売機の前。早速チケットを買おうとして、私の手が止まった。
目の前には、人数選択画面。
チケット枚数どうしよう……。
実質2人で見るわけだし、2人分購入した方がいい?いやでも、傍から見れば私一人に見えるはずだし、2人分買ってたらおかしいよね……。
などとぐるぐる悩んでいると、隣の券売機の前に立っていた人が入れ替わるのが目に入った。そうだ、まだ後ろにお客さん並んでるんだし早くしなきゃ……ええいっ!
私は結局1人分のチケットを買った。
うぅ、ちょっと罪悪感が……。でも入場の際にはスタッフさんにチケット見せないといけないし、こうするしかなかったんだ、うん。
時計を見ると、上映時間まであと少し時間があった。
ダイスと話したいけど、残念ながら死角になりそうな場所がない……。グッズ売り場を覗くなどして、適当に時間を潰した。
『お待たせしました。8番スクリーンにて10時45分上映予定……』
アナウンスを聞き、チケットをスタッフさんに見せて入場する。
最奥に見えた「8」の場所まで辿り着き、『ファイティン・バスターズ』のポスターを視認する。うん、ここで間違いない。
今回観る映画『ファイティン・バスターズ』は、昨年深夜枠で放送されたオリジナルドラマの劇場版だ。と言っても、TVドラマの総集編みたいな内容らしい。
何故これを選んだのかといえば、公開日から1ヶ月以上経ってる上にマニアックな内容らしいから。最新作や話題作よりも観客が少ないだろうという考えだ。恋愛映画もあったんだけど、私の精神的に色々とハードルが高かったから止めておいた。
中に入ると、お客さんは10人にも満たない程だった。うん、これなら大丈夫そうだ。
最後列へ向かい、チケットに記載されている席に座る。幸い他のお客さんは前方に集中していて、すぐ近くには誰もいない。
私はバッグを開いて、ダイスにひそひそ声で話しかける。
「ごめん、もう大丈夫だよ」
バッグの中から顔を覗かせたダイスは、用心深く周囲をきょろきょろと見渡した。
「…………ここが映画館、か」
興味深そうにダイスが小声で呟く。
「あれがスクリーン、か?大学で見るものより遥かに大きいな」
「うん、そうだね」
それから彼は色々と私に質問してきた。
どうやら初めて来た映画館に好奇心が抑えきれないらしい。その瞳はいつもよりキラキラしていて、なんだか可愛らしい。
そうやってダイスと会話に興じていると、辺り一面が暗くなった。
「もう始まるのか?」
「いや、最初はCMだよ」
「CM?」
ダイスに答えた通り、スクリーンでは今後公開予定の作品を始めとした様々なコマーシャルが流れ始めた。
ダイスは物珍しそうに映像をじっと眺めている。私もそんな彼の様子を見て堪能していると……。
「すみません、前失礼します」
「えっ?……あ、すみませんっ」
突然若い女性に話しかけられた。
全然気づかなかった……。私、そんなにダイスに夢中だったんだろうか。
その女性は私の前を通りたかったようで、私は見えないようにダイスを腕で覆いつつ、体の向きを動かして足をずらした。ダイスをちらりと窺うと、緊張したように体を硬直させていた。
「すみません、ありがとうございます」
女性は頭を軽く下げながら、私の前を横切っていく。ダイスの存在に気づかれなかったかひやひやしたけど、彼女は不審がる様子もなく通り過ぎた。ひとまずほっとする。
だけど安心したのも束の間、彼女は私の右隣3席分空けた場所に腰掛けた。
しまった……まさかこんな近い場所に座る人がいるとは。だけどこればかりはどうしようもない。すぐ隣じゃないからまだいいけど、終始気は抜けないな。
ダイスに心の中で謝りつつ、彼が見えないようにバッグと腕の位置を固定する。
そうこうしているうちに、本編の上映が始まった。冒頭からいきなり迫力あるバトルシーンが繰り広げられ、ちょっと圧倒される。
ダイスはどうだろうか。さっきちょっとハラハラさせただろうし、落ち着いて楽しめてるだろうか。そう思いダイスに視線を移すと、彼はじっと画面に見入っていた。どうやら大丈夫そうだ。
物語は日常シーンへ移る。しかしこの映画、思ったより面白いな。総集編として纏められてるからだろうか。話もすっと入ってきやすいし。
そう思っていた矢先……。
主人公と幼馴染の女の子が、キスをした。え、キス?
え、え、ちょっと待って。バトルものじゃなかったの?恋愛シーンとかあったの?てかキスシーン長っ!これ全年齢だよね?
しばらくちょっと官能的な場面が続き、なんだか居た堪れない気持ちになる。
思わず目を逸らすとダイスの姿が視界に入る。彼は画面に視線を注いだままで、その様子に変化は見られなかった。今どんな気持ちで見てんの、ダイス……。
やがて私のメンタルに悪いシーンは過ぎ去り、また戦闘が始まった。ああ、なんか安心して見られる。まあ画面では続々と人が倒れてるけど。
犠牲を払いながらも、なんとか勝利した主人公達。仲間達と共に朝陽が昇るのを眺めたところで、エンドロールに突入した。
うん、なかなか悪くなかった。途中ちょっと刺激が強かったけど。
音楽が鳴り止み、スクリーンからクレジット表記が消える。すると場内が一気に明るくなった。
前方にいたお客さん達が立ち上がる。あ、ヤバい、ダイス隠さないと!
私が身じろぎするとダイスも気づいたようで、バッグの中へ身を隠してくれた。それに少しだけ安心して立ちあがろうとした時、ふと視線を感じた。
顔を右隣に向けると、近くに座っていた先程の女性と目が合った。
な、なんだろう……。少し身構えつつも、軽く会釈する。すると女性は何も言わず、にこりと微笑んで同じように会釈し、普通に立ち上がってその場を去っていった。
な、なんだったんだ……。もしかしてダイスの事気づかれた?でも何も言わなかったし……。不安が胸に漂う一方で、少し気になる事もあった。
あの人、どっかで見た事あるような……?
「映画、どうだった?」
「面白かった。あんなに物語に没入できる空間があるとは……」
時刻は午後1時前。みんながランチを嗜むお昼時。
私とダイスはカフェへと場所を移し、映画の感想を語り合っていた。
本当は映画館近くで済ませたかったけど、残念ながらどこの飲食店も人がごった返していたから、20分程歩いて見つけたこのカフェへと身を寄せた。お客さんがまばらだからか店内はとても落ち着いた雰囲気で、内装もとてもお洒落だ。
私が今座っているのは端っこのテーブル席で、向かい合わせに椅子が2つ置いてある。つまり2人用だ。カウンター席もあったけど、流石に店員さんの目の前でダイスとは話せないから、この席にした。
ちなみに今の私の様子を説明すると、レジやホールに背を向ける形で腰かけ、耳にスマホを押し当てている。一人で喋ってる変な奴と思われないよう、誰かと電話してるふり作戦だ。
……地味に疲れるけどね、これ。
「あのバトルは圧巻だったな」
「同感」
ダイスはいつも通り私が膝に抱えるバッグの中から、満足したように映画の感想を述べる。
「技を発動する時の演出なども見事だった。CGとやらは凄いな」
「最近のCG技術は凄いからねぇ……さっきの作品は比較的マイナーだけど、映像はTVで放送されてた頃からよく絶賛されてたんだよね」
「ただ物語としては少し違和感があった。登場人物が無駄に多い」
「それはちょっと思った」
辛口なコメントもあるけど、ダイスの表情はとても活き活きして見える。
楽しんで貰えたみたいでよかった。それが嬉しくて、私も自然と口角が上がる。
「だが、あれを見て俺も思い出したよ」
「何を?」
「仲間と共に戦っていた、あの日々を」
「…………」
そう語るダイスの瞳に、切ない光が宿る。
「メグル達は元気にしているだろうか。あいつらの事だ、きっと今も自己研鑽に励んでいるのだろう」
「…………」
「映画で剣を手に戦う奴を見て、俺もあの感触が蘇るようだった。不思議だな……憎い敵を倒すためだけに握っていたはずなんだが……今となっては名残惜しい」
「……家ではやめてよ?」
「…………分かっている」
「その間が気になるんですけど」
「大丈夫だ、しないから」
「ホントに?」
「…………本当だ」
「だからその間をやめてってば」
子供のようにバツが悪そうなダイスに苦笑する。だけど私も、彼に申し訳なかった。
思わず軽口を言ってしまった。だって、耐えられそうになかったから。どこか遠くを見るように、懐かしそうに笑うダイスが切なくて、悲しくて。
仲間を大切に思うその姿は、紛れもなく私の好きなダイスそのままなのに。ダイスはただ、故郷に、仲間達に、想いを馳せてるだけなのに。どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろう。
ダイスは知らない。自分が命を落とす事を。元の世界に帰っても、いずれ戦いの中で死ぬ日が訪れる事を。そうか、私……。
ダイスに、帰ってほしくないんだ。
「っ……そういえばダイス、お腹空いたよね?ごめんね、私ばかり食べちゃって。早く帰ろっか。あ、この抹茶ロール食べる?」
私は誤魔化すように、努めて明るい声で話題を変えた。
「いや、いい。このみが食べたくて注文したのだろう。というか、お前こそ大丈夫なのか?空き腹でそんな甘そうなもの……」
「大丈夫、美味しいから!ダイスも食べてみなよ」
「い、いや、だが……」
抹茶ロールを小さく一口乗せたスプーンを口元に近づけても、ダイスはただ戸惑ったように私を見る。
そんなに「あーん」が恥ずかしいのかな。でも家でもたまにやるし、今更…………あ。そこまで考えて、ふと思い至った。
これじゃ間接キスじゃんっ!
「あ、ご、ごめんっ」
慌ててスプーンをダイスの口元から離し、代わりに私が平らげる。
2人の間に気まずい空気が流れる。私ってば何やってんの……。
でもこの抹茶ロール美味しいのに、勿体ないな。ダイスにも味わってほしいのに。残りあとちょっとだし…………そうだ。
カランッ
「あっ…………すみません」
「はい、如何なさいましたか?」
「スプーン落としちゃったので、新しいのいただいてもいいですか?」
「かしこまりました。ただいまお持ちしますね」
落ちたスプーンを手に颯爽と去っていく店員さんを見送る。
「…………」
「…………」
「……お前……」
「だって……」
ダイスには呆れた顔で見られた。
ごめんなさい、店員さん……。
その後、残りの抹茶ロールはダイスのお腹に収まった。だけど私の食べかけをダイスが食したという事は、結局事態はそう変わらなかったのでは……という事に気づき、私は数日間悶える羽目になった。
「よっ」
「お疲れ〜、上がって上がって。わざわざ悪いね」
「いやいいよ、こんくらい」
ダイスとの映画デート(?)から1週間が過ぎ、8月下旬。
そんな小中高生が宿題に追われそうな頃、洸が私の自宅にやってきた。まあ私達は大学生だから、まだまだ休みあるんだけどね。
「はいこれ。言ってた土産」
「わぁ、ありがとう!何これ、ケーキ?」
「ロールケーキ。他にも色々買ってき……」
「ぐっ……」
「……どうした?」
「いや……1週間前の黒歴史が掘り起こされて」
「随分と直近な黒歴史だな」
お土産を受け取りつつ、洸を部屋へと招き入れる。
洸は昨日まで医学部の友達と大阪に旅行に行ってたらしい。何それ、ずるい。医学部忙しいんじゃなかったの。私なんか遊び先は近場しか行ってないのに。
それはともかく、今日洸が来た理由は、私にそのお土産を渡すためだった。
「……ども、お邪魔します」
「……ああ」
洸が部屋に入ると、テレビを見ていたダイスが振り返った。2人はお互いに存在を認識すると、素っ気なく軽い会釈を交わした。
……いつまで経っても対面時の挨拶が他人行儀だな、この2人。
ちょっと居心地が微妙な空気をなんとかしようと、私は声のトーンを上げる。
「そうだ、早速ケーキ食べよっ?洸も一緒にさ」
「いや、お前らで食べろよ。土産なんだから」
「いいのいいの気にしないで!」
ダイスと2人でロールケーキなんて食べたら、この前の事思い出して気まずいし……とは言えなかった。
私がケーキを切り分けようと台所に立つと、洸が隣に立った。
「オレも手伝うよ」
「えっ、いいよ。客人なんだからゆっくりしてて」
「オレがやりたいだけだから気にすんな」
「そ、そう?じゃあお皿出して貰おうかな」
そう言ってケーキを切ろうと包丁を手にしたその時だった。
バタッ
「…………?」
「……?なんだ?」
何かが倒れるような音がして、私と洸は顔を見合わせる。
気になった私は包丁を置き、テレビ前のダイスに声をかける。
「ダイスー、なんか今変な音しなかっ……」
その先は言葉にならなかった。
目に飛び込んできたのは、テーブルの上で倒れたダイスの姿だった。
「ダイスっ!」
すぐにテーブルの側へ駆け寄る。
「どうした⁉︎何があった!」
「洸っ、ダイスが、ダイスが……」
私の前で倒れているダイスを見て、洸も状況を把握したようだった。
「熱は⁉︎」
「熱……」
洸に言われて、私はダイスの額に手を当てる。
「いや、なさそう……」
「息は⁉︎してるか⁉︎」
「息……?」
洸に促されるまま、私は耳をダイスの口元へ寄せる。そしてギョッとした。
「っしてない……!」
「!マジかっ」
洸が私と同様に耳を寄せてダイスの息がない事を確認すると、ダイスの胸に両手の指を重ねて何度かグッグッと押した。
「っ……くそ」
しかし何度やってみても、ダイスの息が元に戻る気配はない。ダイスの胸から手を離した洸が、言った。
「仕方ない、父さんのとこに連れてく!」
「えっ」
洸のお父さんはお医者さんだ。つまりそれは、病院に連れて行くという事で。
「待って!お父さんに話すの⁉︎」
「しょーがねーだろ!緊急事態だ、オレじゃ手に負えない」
「でも……!」
「こいつがどうなってもいーのかよ⁉︎」
「っ……」
洸の言う通りだ。このままじゃダイスの身が危ない。
少し迷った末に、私は同意する。
「っ、分かった、行こう!」
だけどそんな私に、洸は言い放った。
「オレが連れてく!お前は後から来い!」
「え、でも……!」
「その方が早い!また連絡する!」
「あ……」
洸は荷物を手にすると、ダイスを抱えて勢いよく出て行った。
一人ぽつんと取り残された私は、溢れ出る感情を必死で整理しようとする。
分かってる。救急車を呼べない以上、自力で病院に向かうしかない。バスやタクシーを使うにしても、足の速い洸一人に任せた方が早いだろう。
それに、私はすぐ取り乱してしまう。現に今だってそう。洸はきっと、私が少しでも落ち着けるよう時間をくれたんだ。だから「後から来い」と言ったんだ。だけど……。
悔しい。大切な人の為に何もできない事が。
だけどこうしちゃいられない。一刻も早く病院へ向かわなきゃ。急いで荷物をまとめた後、家を飛び出した。
高熱で寝込んだあの一件以来、ダイスはずっと元気だった。なのに、どうして急に……。いや、思えばあの時だって突然だった。もしかして何か病気なんじゃ……。
そんな不安を振り切るように、私は走った。
最寄りのバス停に着き時刻表を見ると、次のバスまで後3分だった。いつもなら短く感じるその時間も、今は長いと思ってしまう。
どうしよう。走る?確かに洸のお父さんがいる病院までは10分弱で歩いて行ける距離だ。だけど、バスを待った方が早いような気もする。タクシーはこの辺りじゃなかなか捕まらないし……。
思い悩んでいると、スマホが鳴った。画面を見ると洸の名前が表示されている。
すぐに電話に出た。
「洸っ?」
『悪い、待たせた』
「どうだった⁉︎」
『…………オレの父さんでも手に負えないってさ』
その言葉に、視界が真っ暗になった気がした。
「そんな……じゃあダイスはっ」
『落ち着け!……けど、ちょうど外勤で新條先生がいらしてて、今診て貰ってる』
「しんじょう、先生……?」
『医療業界では結構有名な方なんだ』
洸がそう言うのなら間違いないのだろう。どうやらダイスは門前払いされてはいないようで、そこはひとまず安心した。
『お前、あとどのくらいで来れそう?』
「あと少しでバスが来るから、それに乗る」
『分かった。それまでに先生から話があれば、聞いとくから』
「ありがとう……よろしく」
通話を切り、逸る思いで私はバスを待った。
「洸、お待たせ!」
「!このみ」
10分後、私は病院へ着いた。椅子にじっと座っていた洸を見つけ、駆け寄る。
「あれからどうなった?」
「一応、別室で寝てるって」
「じゃあ大丈夫だったの?」
「ああ」
「よかった……」
私が安心して腰が抜けそうになったところを、洸が支えてくれた。
「けど先生が、話があるってさ」
「話?」
「ああ。……ダイスと一緒にいたのはこのみだって伝えたら、お前もいた方がいいって」
なるほど、それで洸は私を待ってくれてたのか。
「先生待ってるから、入ろうか」
「……うん」
洸に促され診察室の中へ入ると、そこには白衣を纏ったまだ若そうな男性が穏やかな顔で座っていた。
「こんにちは、貴方が春家さんですか」
「あ、はい……」
「私は新條と申します。よろしくお願いします」
「あ、よ、よろしくお願いします」
この人が洸の言ってた新條先生か。見た目と同様に口調も声も穏やかだ。少しだけ緊張感が解れる。
「早速、ダイスさんの容態についてなのですが……」
だけど先生のその言葉を受けて、また緊張で体が硬直する。不安で胸が一杯になり、手が震えるのが自分でも分かった。
「心臓マッサージなど様々な処置を施したところ、意識は取り戻したのですが、その直後には眠りにつきました」
「それで今別室に……?」
「ええ、そうです」
意識が戻ったならよかった。そこはひとまず安心だ。だけど……。
「先生……ダイスは大丈夫なんでしょうか?病気とか……」
おずおずと先生に訊ねる。なによりそれが心配だ。ダイスの身には何が起きてるんだろうか。
私の質問を受けて、先生の穏やかな表情が薄れた。代わりに深刻そうな色が深まる。それを見て、私は嫌な予感を感じた。
「これは私の見解なのですが……」
先生が伏せていた目を上げる。
「これは恐らく、"消滅"の予兆だと思われます」




