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キャリーバッグ

雨は止んだが、地面はまだ濡れていて、風は湿った匂いを運んでいた。ミナミユズキは重くて古びた黒いキャリーバッグを引きながら、イチノエハルトの後ろを歩いていた。車のタイヤが水たまりを跳ね上げるたびに小さな波紋が広がり、その音が二人の足音に混ざって、妙な沈黙をさらに重くしていた。ハルトは話しかけたい気持ちはあったが、言葉がなかなか出てこなかった。ユズキの冷たい視線と無表情な顔が、彼の心をますます複雑にしていた。


たどり着いた家は静かだった。ハルトが玄関のドアを開けると、慣れ親しんだ家の空気が彼らを迎えた。温かいはずの空間だったが、今日に限ってその空気は冷たく、ユズキの存在がこの家を一層重くしているかのようだった。ハルトはユズキを部屋へ案内しながら、ぎこちない沈黙を破ろうとして慎重に言葉を発した。


「ここがトイレだよ。シャワーを浴びて着替える服、必要だろ?」


彼はクローゼットから、自分が一番リラックスできるトレーニングウェアを取り出して彼女に手渡した。ユズキは無言でうなずいた。その小さな動作からも彼女の疲労感と無力感が伝わってくるようだった。ハルトは彼女が服を受け取る際に感じた冷たさを思い出し、心の中で深いため息をついた。彼の心は複雑だったが、今は彼女に休む場所を提供することしかできなかった。


「とりあえず、これを着てシャワーを浴びて。」


ユズキがバスルームに入ってドアを閉めると、ハルトはキッチンへ向かい、夕食の準備を始めた。シンクに置かれた鍋に水を注ぎ、うどんを茹で始めたが、彼の考えは全てユズキに集中していた。なぜ彼女はこんなに冷たいのか? なぜ何も話さないのか? 彼女に何があったのか? その問いを頭の中で何度繰り返しても、答えは出てこなかった。


うどんの出汁が沸き上がる音が、彼の複雑な思考を一瞬だけ途切れさせた。彼はお箸とスプーンを用意し、夕食の準備を整えた。少し経って、ユズキがシャワーを終えて出てきた。彼が手渡したトレーニングウェアを着た彼女は、少し大きめで、その痩せた体が服に埋もれているように見えた。ハルトはその姿を見て笑顔を浮かべようとしたが、彼女の表情は依然として無表情のままだった。


「食べよう。」


ハルトがそう言ってテーブルに座ると、ユズキもゆっくりとテーブルに近づき、席に着いた。二人は無言でうどんを食べ始めた。その沈黙は重苦しかったが、ハルトはこの状況で何を話せばいいのか分からなかった。温かい出汁が彼らの沈黙を一瞬だけ埋めてくれたが、ユズキの顔は依然として冷たく、その中にどんな感情も見えなかった。彼女はただ機械的に食べ物を口に運んでいるようだった。


食事が終わると、ハルトの視線は再びユズキの黒いキャリーバッグに向けられた。その中には何が入っているのだろう? 彼女がこれまで生きてきた人生の痕跡が、その中に詰まっているのだろうか。彼は慎重に尋ねた。


「中に何が入ってるの?」


ユズキは一瞬キャリーバッグに目を向けたが、何も言わずにキャリーバッグの方へ歩いていった。彼女は何かを説明したり弁解する代わりに、ただキャリーバッグを開けて見せることを選んだ。ハルトは彼女がどんな話をしてくれるのか期待したが、代わりに彼女の沈黙がより多くを語っていた。


キャリーバッグが開かれると、ハルトの目の前には古びた服が数着見えた。色あせ、至る所に擦り切れた跡がある。何度も修繕を重ねたようなTシャツや、模様がほとんど消えかけたジーンズ。これらの服はまるでユズキの人生そのものを映し出しているかのようだった。彼女の過酷な年月が、この衣類の中に染み込んでいるように見えた。


ユズキはキャリーバッグの中の服をしばらく見つめていたが、静かにジッパーを閉めた。彼女の顔には依然として何の感情も浮かんでいなかったが、その内側には、彼女がどれほど孤独で辛かったかが、ハルトにはおぼろげに感じ取れた。彼はその瞬間、彼女に何も言えなかった。彼女が見せてくれたのは、ただの古びた服数着だったが、その中には彼女が隠したい痛みが確かに詰まっているのだろう。


「必要なものがあれば言って。服も新しく買わなきゃいけないし。」


ハルトが慎重に声をかけると、ユズキは彼をしばらく見つめた。彼女は依然として無言だったが、その短い視線のやり取りは、ハルトに何かを残した。それは、彼女がまだ何かを期待したり、希望する余裕さえ持っていない、あるいはそうする気力すらないというサインのようだった。


ユズキが部屋に入ると、イチノエレンが部屋から出てきてハルトに話しかけた。


「兄さん、あの人誰? 彼女なの?」


レンの顔には好奇心が溢れていたが、ハルトは疲れた表情で答えた。


「明日話すよ。今日は疲れたから、もう寝ろ。」


レンは兄が気が進まないことに気づき、それ以上は聞かなかった。そしてベッドに入った。


兄の疲れた表情を見て、それ以上詮索することはなかったが、彼の目には何か重大なことが起こっているという感覚があった。


次の日、学校から帰る途中。空は依然として曇っていて、昨日降った雨の痕跡が道のあちこちに残っていた。道にたまった水たまりが夕方の陽光を少しずつ反射していた。ハルトはゆっくりと話し始めた。


「レンは今日もPCバンに行って、遅く帰るってさ。」


ハルトは一瞬言葉を止めて、ユズキを見つめた。


「俺もバイトがあるから、帰りが遅くなる。だから、それまで家でゆっくり休んでていいよ。」


ユズキは彼の言葉を聞いた後、ハルトをじっと見つめた。彼女の瞳には何か分からない感情がよぎったが、ユズキは何も言わなかった。その沈黙は、ハルトにとってさらに重く感じられた。しかし、彼はそれ以上問い詰めることはしなかった。


二人はそれ以上話さなかった。ユズキはただ軽く頷き、ハルトも無理に話しかけることなく、黙々と歩き続けた。彼らが歩く道には、依然として前日の雨の痕跡が残っていた。


ハンバーガー店は夕方の時間帯に入り、忙しくなり始めた。次々と来店する客たちが注文をし、ハルトはその注文を処理するために忙しく動き回っていた。店内は暖かい照明に包まれ、客たちの賑やかな声が響いていた。厨房から漂う油の匂いが空間を満たし、笑い声や会話が絶え間なく続いていた。


店の外を見ると、通りは帰宅途中の人々で賑わっていた。ヘッドライトが照らす道路を、人々はそれぞれの一日を終え、忙しそうに歩いていた。ハルトは店内で働きながら、そんな通行人たちを見つめ、彼らの中に混ざっているユズキの姿を想像した。彼女はまるでどこにも属さず、透明な存在のように自分の存在感を隠しているかのようだった。


店内の温かい空間とは対照的に、ユズキは静かにサイダーを飲んでいた。彼女の表情には何の変化もなく、まるでこの場所が彼女とは無関係であるかのように、全てを無視しているように見えた。ハルトは客を対応しながら、どうしても彼女に目がいってしまった。ユズキはまるでこの世のどこにも属さない人のようだった。


何か話しかけたい気持ちがあったが、どう接していいのかわからなかった。その時、マネージャーが近づいてきてハルトに話しかけた。


「ハルトくん、あの子、彼女?」


マネージャーの言葉に、ハルトは慌てた表情を見せた。


「いや、違います。ただの友達です。」


ハルトは急いで答えた。


マネージャーは彼の焦った様子を見て笑いながら言った。


「そうか、ところで、アルバイトまだ募集してるか聞こうと思ってたんだけど、友達と一緒に働こうと思ってるの?」


「いや、彼女じゃないですよ。友達なんですけど、ちょっと辛そうにしてるから助けたいと思って。」


ハルトは真剣に言った。


マネージャーはユズキをちらっと見て、にっこりと笑った。


「うん、顔は合格だね。じゃあ、アルバイトの応募用紙を書いて面接に来るように言ってみなよ。」


ハルトは笑顔で軽くお辞儀をした。


「ありがとうございます、マネージャー!」


マネージャーとの会話が終わり、ハルトはユズキを店の隅にあるテーブルに連れて行った。二人は並んで座り、ハンバーガーを注文した。ユズキは相変わらず無言だったが、その静けさの中に、何かが少しずつ変わっているのをハルトは感じ取った。


「マネージャーがアルバイトを応募してみてって言ってたから、あとでオンラインで応募してみたらどうかな。」


ハルトはサイダーを飲みながら話しかけた。ユズキは静かに頷いた。


ハルトはユズキが自分のスマホを取り出さないのを見て、自分のスマホを取り出して、応募書の書き方を教え始めた。


「このサイトに入って、応募書を書けばいいんだよ。基本的な情報を入力するだけだから、簡単だよ。」


ユズキはハルトが教えた通りにスマホを受け取り、静かに応募書を書き始めた。ハルトは彼女がうまくできているか確認しながら、細かく手助けした。そんな姿に、ユズキは一瞬、かすかに微笑んだ。その微笑みは短く儚かったが、ハルトには大きな意味があった。


「思ったより簡単だね。」


ユズキが落ち着いた声で言った。


ハルトは笑顔で頷いた。


「そうだろ? 一回やれば次はすぐに慣れるよ。」


二人は静かにハンバーガーを食べながら、応募書を完成させた。ユズキが応募書を書き終えると、ハルトは安心したように言った。


「あとは面接だけだね。きっと上手くいくよ。」


ユズキは依然として表情に大きな変化はなかったが、その静けさの中には何かしらの安堵が感じられた。彼女は無言で頷き、ハルトの言葉を受け入れた。


次の日、ユズキはハルトの勧めで店に面接を受けに行った。面接を終えた後、ハルトがどうだったかと尋ねたとき、ユズキは落ち着いた声で答えた。


「後で連絡するって。」


彼女の短い返答に、ハルトは内心不安を感じた。彼女が不安そうに見えなかったのは良いことだと思ったが、彼女の静かな態度はむしろハルトに不安感を与えた。彼は心の中で「たぶん落ちただろう」と確信した。マネージャーがユズキの性格を全く知らないまま採用するとは思えなかった。しかし、ユズキが不満を言わなかったため、ハルトはただ笑顔で頷くことしかできなかった。


その後、二人は夕食の買い物をするために近所のスーパーに立ち寄った。ハルトがいつものようにカートを押して夕食の材料を選んでいると、ユズキは静かにカートに物を入れ始めた。

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