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君がいなくなって君と出会った

作者: つかさ乃至

 俺は待っていた。

 ずっと…ずっと待っていたんだ…。



      *



 見上げるほど高いビルが立ち並ぶ街は相も変わらず賑わっていた。

 手を繋いで歩く人、肩を抱いて歩く人、友達と大口開けて笑う人、犬を引き連れる人、仕事場へ駆け足で行く人、携帯を弄りながら歩く人、沢山いた、人が犇めき合っていた…。

 俺はその間を行く、たった一人、彼女を想いながらハンバーガーを片手に歩いた。

 「宜しくお願いします」とチラシを配る無愛想な女に目もくれず行くと「チッ」と僅かに舌打ちが聞こえる。

 …何故こんなにも虚しいのだろうか…俺は携帯を開き、何度も最後のメールを読んだ。



 『ごめんね、本当にごめんね、嫌いになったんじゃないの、ただ今は何だか会いたくないの本当にごめんね』


 最初に読んだ時の事は今でも覚えている、というより今でも心が引き裂かれそうになる。

 俺はその瞬間死ぬのだ。

 心が、死ぬのだ。

 いっそ本当にこの世から消えたいのに、それが出来ない自分が悔しくて涙が出そうになる。




      *




 家に帰ると部屋は冷たかった、寒々としていてここが自分の家なのか信じれない。

 どこを探しても彼女の温もりはなかった。

 服も無ければ大切にしていたぬいぐるみも無い、ただあるのは台所に置かれた指輪だけ。

 いつか、またあの細い薬指に……。

 

 ───その時だった。


 ピンポーン…と久しく鳴らなかったチャイム。

 俺は開け放たれたリビングのドアから玄関をじっと見つめた。

 決して、期待はしなかった。

 何故だか“絶対”と使えるほど彼女では無いと思った。

 またケイタイを開いてあのメールを読み、俺は無言で煙草を吸う。


ピンポーン…


彼女じゃない。


ピンポーン…


お前は帰って来ない。


ピンポーン…ピンポーン…ピンポーン…


 「………〜〜っ!」

 鳴り止まぬチャイムにうんざりしながら玄関の覗き穴から外を見た。

 下を向いた髪の長い女、彼女とは艶が違う耳に髪なんてかけないし眼鏡もしていない…それにもう1年も会っていない…帰って来るなんて、もう望みも薄いのだ。


 ───ガチャ…。


 「あの!すみません!鍵を無くしてしまって…」

 ドアを開ければ、泣きそうな顔で申し訳なさそうに言う。

 俺は女を睨み付けるように見た。

 居留守を使えば居なくなってくれるかと思ったのだが…。

 「大家さんは?」

 「いないんです!だから!いえ、あの、それにベランダの鍵をかけ忘れてて…」

 「隣の人は?俺以外…」

 「…隣人さんは…あなたしかいません……」

 「そ…か…」

 よくよく考えれば俺の部屋は奥から二番目だ。

 「はい、だから…あの…」

 「……で?それで俺にどうしろと?」

 「…ベランダをお借り出来れば…すみません!本当にすみません!」

 何度も何度も頭を下げる女に俺はため息を吐いた。

 「わかった、でもベランダでどうするの?」

 「ベランダ…を、つたって家に入ろうと思って…」

 「…確かに壁で塞がれてるだけだからベランダつたって行けるとは思うけど、あんたスカートだぞ」

 「それしか方法が無くて!私運動部だったし…!だからあの、お願いします!!」

 深く頭を下げる女に俺は呆れて物が言えなかった。

 「お願いします!!」

 「…………はぁ…どうぞ…」

 本心を言えば、彼女以外を家に上げたくなかった、もう彼女に関する物は何も無いが、彼女と過ごした日々がこの部屋にはある。

 別の誰かを入れた時、全てが壊れるんじゃないかと、充分、女々しいのは分かっているつもりだが、怖いのだ。

 「ありがとうございます!お邪魔します!」

 女は忙しく靴を脱いでバタバタとリビングを駆け抜けるとガラリッと窓を開けベランダに出た。

 「………行かないの?」

 窓に寄りかかりながら俺はベランダの手刷りに掴まったまま動こうとしない女の背を横目に見た。

 「…いやっあの…かっ風が思ったより強いなぁ…と、思いまして…」

 ぎこちない喋りをする女に俺はため息を吐いた。

 「ここ四階だもんなぁ?落ちたら即死だろうよ…」

 女の隣に立って俺はベランダから下を覗き込んだ。

 風が四方から吹き付ける、まるで誘うように風が俺の髪を撫でた。

 「あの…私行きま…」

 「いや、いい…」

 「……へ?」

 きょとんとする女を退けて、俺はベランダの縁に足をかけた。

 両手で壁の端を掴み、隣縁に登った。

 ビュウッと風が吹き付ける、体を奪われそうだった。

 「落ちれば、死ぬ…」

 1つ呟いて、俺は街を見下ろした。

 住宅が立ち並ぶ平凡な街並み、見慣れた街並み…平日の昼間の今は人の姿は少なく、路地を下を向いて歩く人が俺に気付く事もない。

 …何で、こんなに落ち着いているのだろうか…。

 死ねば…楽になるのだろうか、誰にも気付かれないまま死ねば…。

 悶々とする俺をじっと女が見ているのに気付いて、俺は肩を竦めた。

 程無くして、俺はベランダをつたって女の部屋のベランダに降り立った。

 「入るぞ?」 ベランダから顔を出してどこか安堵する女に言った。

 女はうんうん!と頷く。

 ガララ…と女の部屋に裸足で上がり俺は噎せた。

 女の匂いだ…香水かヘアスプレーか…何だか分からないが久しく嗅いで無い香りに鼻と口を抑えた。

 それから周りを見て足を止めた、本棚に並んだ写真立てが全部伏せている…まぁ気にはなったが見るもんじゃない…俺は変態じゃない。

 部屋の構造は一緒なのに、何故こんなにも違うのかと少しばかり思いながら玄関の鍵を開けた。

 「ありがとうございます!!」

 「……っ、あっうん…」

 開けた途端に女が居たので少々驚いた、俺の靴を持った女が満面の笑みで俺を見上げている。

 「もう!靴!ちゃんと洗いなよ!臭いし汚いし!」

 ……一瞬過った、彼女が笑いながらそうやって言う姿が頭を過ったのだ。

 俺は頭を抑えて、女から靴を奪いスタスタと自分の部屋に戻った。

 玄関に入った瞬間、足に力が入らず、俺はその場にへたり込んだ。

 何故、どうして、俺の前から消えてしまったんだ、元気にしているのか、バカみたいに大口開けて笑っているのか、口紅塗りながらくしゃみして口からはみ出した紅を見て「見てみて!口裂け女!」なんて言って…

 「…最悪だ…」

 あのメールは、別れのメールだった、きっと…いや、解っていた、解っていたのに解ろうとしなかった。

 なんて愚かなんだ、この一年何故帰らない君を待ち続けているんだ…まだ好きだからか?手離したくないからか?

 可愛いお前がいるだけで満足していた、お前がいるからこそ優越感に浸れた…………愛していたんだ、凄く。

 ……何もかもが色鮮やかだった、お前が俺の見る世界を変えたんだ。

 「…あぁ…もう…」

 壁に項垂れて、俺は沸き上がる想いに押し潰されそうになった、目頭が熱を帯びる。

 ガチャ───…

 突然ドアが開いて俺は振り返った、女が目を丸くして立っている。

 「だっ…大丈夫ですか!?もしかして体調悪かったんですか?何だか…あのっ顔色悪いが悪い…!」

 しゃがみ込んで心配そうにする女は眉を下げながら俺の額に冷えた手を当てる。

 「気持ち良いな…」

 「えっ…?」

 「あっいや、何でもない…体調も悪くないから…大丈夫だから…、それより、まだ何か用があるのか?」

 女の手を払って俺は立ち上がり壁に背を預けて腕を組んだ。

 「あっあの!本っ当に申し訳ないんですが…」

 グイッと袖を掴まれて、俺の体はビクっと跳ねた。

 「あ、あの、今…大家さん帰って来たみたいで…その、私!2週間前に越して来たばかりで!鍵屋さんってどこかな…って…」

 「……はあ?」

 何なんだこの図々しい女は…と俺はあからさまに嫌そうな顔をしてまじまじと女を見た。

 「駅前、後は分かるだろ?」

 「…あの、実は私…方向音痴で…」

 「何それ…俺に道案内しろって?」

 冷たく言い放って、俺は顰めっ面で女を見下ろした。

 これだけ威圧的にすれば引いてくれるだろうと思ったのだが、甘かった、根性があるのかないのか、女は瞳を輝かせる。

 「お願いします!!」

 引いたのは俺だった。

 ズルッと右肩を落として、俺は女の笑顔を見つめた。

 「…はいはい、行きゃーいんだろ?」

 「助かります!!!」

 「……全く…」

 …俺はいつの間にこんな、お人好しになったのだろうか。




      *




 口内炎が出来たからオレンジジュースを飲むというのは…俺は有りだ…彼女は違った少しでも体に異常を来せば病院病院!…今思えば彼女はすぐ何かに頼って自分でどうにかしようとは考えなかった。

 何だか、目の前にいるこの女と似ているような…そんな気がした。

 「本当に助かりました」

 駅前にある鍵屋に寄ってからオゴリますと言われ着いて来てしまったが。

 「今更なんだけどさ、大家待てば良かったんじゃね…?そしたらあんな危険な真似しなくて済んだ…」

 俺は女に言いながら自分にも言って、ため息しながらコーヒーを一口飲んだ。

 「それに、スペアもあったろ…あのアパート鍵2つくれただろ?」

 尋ねると、急に俯く女を見てやっちまったと罪悪感が込み上がろうとする、しかし女は顔を上げると目を潤ませながらもにっこりと笑うのだ。

 「彼氏に…元、彼氏が持ってて…でも別れたから捨ててって頼んじゃったんです」

 「へぇ〜そう…まっ普通そう…だよな」

 それ以上追求するのは野暮と思い俺はタバコを吸った、あいつも、捨てただろうか…。

 と、考えたがあのメールが別れのメールなら疾うに捨てているだろう。

 「…ご飯…食べてもいいですか?」

 「えっ?聞くの?」

 「いや、だって…何となく」

 「食べなよ」

 「はい」

 何を食べても文句は言わない、言う義理も無いが流石に言いたくなった。

 「頼みすぎ」

 コーンスープにフレンチトースト、サラダ、スパゲティ、オムライス、プライドポテト、ビーフカレー、あっ横文字ばかりで目眩がする、何て胃袋をしているのか男の俺でも食い切れない。

 「今日は少なめですよ?」

 「…あっそ、食費がいくらあっても足りないだろ?」

 「そんな事無いです、これ食べたら一万円!とかのお店渡り歩いてますから」

 「なるほどね」って納得していいものだろうか。

 「でも、もう彼が居なくなったので出来ないんですよね、私方向音痴だし…」

 と言いながらペースは落とさず次々に皿が空いていく、見ていてお腹がいっぱいになった。

 「まっ…出会いがあれば別れもあるって…」

 「…分かってますよそんな事!言われなくても…!」

 急に苛立った女は声を張り上げた、目をしばたたせる俺は軽く目を合わせてから直ぐに反らした。

 「すみません…」

 同時言った、何が可笑しいのかフフッと女は笑って最後にコーンスープを飲んだ。

 「そういえば、お名前は?私は江原朋子(エハラトモコ)といいます。」

 「…俺は、多田結介(タダユウスケ)

 「多田さんかぁ〜…良いですねタダ…タダ…タダよりも高いものはないですよねぇ」

 「…それよりさ、鍵出来たんじゃない?」

 腕時計を見て俺が言うと何故かセカセカと女、いや江原は口の周りをナプキンで拭い俺の手を握って来た。

 「多田さんは!私の命の恩人です!」

 「おまっ…恥ずかしい奴だなぁ〜…!」

 赤面する俺に江原はにこにこと言って未だ手を握り続けた。

 周りの客が俺達を見ているようで視線がやたらと気になる。

 「だって、本当の事ですもん!」

 江原は恥ずかしくないのだろうか、いや、でもそんな事より今は。

 「何でも良いから手を離せ…!」




      *




 あの出会いから2週間が経った。

 隣のベランダから顔を出すのは、勿論江原であり、こちらをチラッチラッと見ている。

 「何だよさっきから」

 「いーいじゃん…!…だめ?」

 「だめじゃないけど、覗きは犯罪ですよ?」

 なんて言ってみて、俺は笑った。

 「…恋人でしょ?」

 大きな瞳を向けて朋子が笑う。

 「そうだっけ?」

 「あっひどい!そうやってからかうんだったら泣くかんね!」

 「あー…それは参る」

 「おっ、やっぱり女の涙は無敵だ!」

 「……あぁそれは、朋子だからだと、思うよ?」

 「…………バカ…」

 恥ずかしいのか目を反らしながら、朋子は手をヒラヒラさせておいでおいでと俺を呼んだ。

 俺はタバコを吸っていたから首を振るが朋子は手を休めない。

 「匂い移ってもしらないよ?」

 「もう移ってるよ…」

 「そうでしたか…」

 顔を近付いて行くと朋子は俺の唇を唇で塞いだ、柔らかく暖かい唇に優しい香りが俺を包み込んでいく。

 「もうさぁ…一緒に住もうよ?夜は一緒だし…」

 「そういう事昼間から言うなよ」

 「あれ、照れてる?」

 「……さーて飯食いに行こ」

 俺は頭を掻きながら部屋に戻った、すると後ろから「分かった鍵開けとく!」と声がした。


 こんな展開になるとは正直思わなかった。


 あれほど彼女の、元彼女の存在に縛られていた俺がまた恋をするなんて予想外だった、けれど遅かれ早かれ朋子を好きになるのは必然だと思う。

 「きっと!胃袋掴んだのね!」

 「自分で言うか?普通…??」

 「え、なあに?じゃ美味しくないって言うの?なら食べなくてもいいんだよ?」

 ギロッと横目で睨まれながらも箸は止めず無言で親子丼を食べた、俺の丼が小さく見えるほどの大きな丼を手で支えて朋子はスプーンで食べている。

 「美味いです、ガッチリ捕まれてます」

 口元を緩めて言うと朋子は嬉しそうに卵をほうばった。

 「結介はさ、一緒に住みたくないの?」

 「住みたいよ、でも、大家に何て言う?まだ住み初めて間もないのに部屋が1つ空くんだよ?」

 真面目に話をしているのに何故か朋子はクククッと笑いを堪えている。

 「なに?」

 「躊躇しなかったね?」

 「は?」

 「住みたいってはっきり言ったから、もうそれで充分だったりしちゃう…」

 頬を赤くして照れ臭そうに朋子は俺を見つめた。

 たったそんな些細な事で喜ぶ朋子を愛しいと思う俺はバカだなと思う。

 今まで、彼女の事ばかりに執着していたのが、あの喪失感に酔いしれていただけだったのだろうと思う。

 そう思えるのは、あの時の恋が“過去”となったからだと思う。

 「好きだよ…結介」

 と朋子は顔を近付ける。

 「こらこら、まだ昼間だから…」

 「たまにはうちでしようよ…」

 「そんなに好きなの怪談話…?」

 「夜じゃなきゃダメ?」 「普通夜でしょ…?あとは夕方?今昼だし、かなり外天気良いし、まぁ逆に良いかもしれないけど、俺的には…」

 「えっ…?なに…っ!」

 言葉を遮るように朋子の唇を奪うと熱が伝わって来る、真っ赤になる顔を見ながらその首筋にもキスをする。

 「これこそ…夜です」

 「いやいや」

 腰に手を回して体を密着させると、朋子が俺を押し退けようとした。

 「ちょ、まじ、やめ…」

 キスをする度に朋子の体がピクッと反応する。

 「……一生ご飯が食べれなくなるよ、いいの?」

 むくれながら朋子は言った。

 「………はい、すみません」

 「よし!」

 すんなりやめてしまう所、俺は朋子に弱い、なんせ朋子は小中高と、空手部に属していた。

 寝技なら敵わない。

 因みに高校生になった時には空手は直ぐに辞めてしまった、当時好きな男の子が居たからだそうだ。

 「俺は空手してもしなくても、朋子が朋子なら、構わないけどね…?」

 「なに、なっなんだよ!急に!」

 「あははは」

 慌てる朋子を見て、俺は笑った。




 夜になってから朋子は俺の部屋にやって来た。

 1つの布団に身を寄せながら、灯りは小さなキャンドルだけを用意する。

 朋子が深呼吸して、準備万端になった所で俺は一つ咳払いした。

 いつもより声を低くして、静かに、静かに話し出す。

 「古びたアパートに1人の男が住み始めた…彼の部屋は一番端にあった…」

 火が息をする度に、ゆらりゆらりと揺れる。

 「夜になり男は寝付こうとした…暗い部屋にはカーテンの隙間から伸びる月明かり…それを眺め、心機一転新しい未来への門出に、期待に胸膨らませ、目を瞑った、その時だ、隣の部屋から赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる…」

 言葉一つ一つがねっとりと耳に残るよう、わざとおどろおどろしく話す。

 気分は稲川淳二だ、隣で体をぴとっとくっ付ける朋子が小さく頷いた。

 「夜泣き、そう男は思った…でもすぐに違うと思った、だって隣は、空き家なんだから」

 「…いやぁ怖い〜」

 「じゃ、やめる?」

 「やだ…」

 「なんだそれ」

 クスクス笑ってからむぅっと頬を膨らます朋子が聞き耳をたてる。

 「…一瞬にして男は凍りついた…いや、でも、隣の隣…と考えた、けれどそれも違う…そこには男性が1人で住んでいる、では上の階、でも上は無い、では下の階それに間違いない、いやそうでなくてはいけないそうでなくては…この声の説明がつかない…」

 ゴクリと息を飲んだのは朋子だ、俺の腕をぎゅっと掴んでいる。

 「けれども…泣き声は止まない、それ所か声はどんどん、どんどん大きくなるばかりなのだ、男は怯え、布団に潜り込んだ、止め、止め、と何度も心の中で叫んだ、そうしているうちに声は悲鳴に変わった」

 「……え?」

 「ガチャ、ガチャ、ガチャガチャ…ドアノブがそう音を立てる、男は飛び起きた、そして、見るのだ」

 「だ、誰?」

 「それはねぇ〜?」

 からかうようにして朋子に目をやった時だ、朋子は俺ではなく違う所を見つめている。

 ふざけているのだと思った。

 俺をビビらせる為にそうやってわざとどこか見つめて俺がそっちを見たら「いないよぉ」なんて笑うのだ、昨日だってそうだったからそうに違いないと思い、俺は絶対に朋子の視線を追おうとはしなかった。

 「ね、ねぇ…結介…誰、この人…」

 「騙されないよ…」

 俺は言ってからその震えた声に首を傾げ、朋子の横顔を見つめた。

 皮膚が硬直したようにピクリとも動かない、大きな目がいつも以上に開いている。

 俺は突然、喉の渇きを感じた、しんと静まりかえる部屋にもう1つ、呼吸が混じったのだ。

 ゴクッ…と息を飲み、俺はようやく朋子の視線の先を追ったのだ。

 ゆっくり、そう、ゆっくりと、見た。

 居るのだ。

 ドアの前に女が立っている、その俯いた顔が上がり、瞳が俺達を真っ直ぐに見た、それから唇が微かに動く。

 「……ゆう…すけ?」

 女は悲しそうな目をして微笑んだ、そして小さく、けれど確実に聞こえる声で俺の名前を言った。

 「…おまっ…!まさか!?なっなん…」

 「私が悪かったのよね、あんなメールだけで1年間も放って置いたから…」

 起き上がって俺は女の顔を目を凝らして見た。

 見間違いでも、幽霊でも何でも無い、そこにいるのは、確かに彼女だ。

 「……鍵、まだ…」

 言ってから、腕にしがみ付く朋子を見た、下を向いたまま頭を軽く横に振っている。

 「でも、こういう結末になるって考えもしなかった…バカだね、こんな風になるなら全部話しておけば良かったのに…」

 いつしか、彼女の声は涙を含み始めていた。

 「けど…結介が幸せなら私は…それでいい、それだけで充分よ…」

 「……え、あっ…え?」

 頭が混乱して来た、彼女が一体何を言っているのか理解不能だ。

 朋子から腕を離すと、朋子は泣きそうになっていてその頭を優しく撫でた。

 「すまん、話が見えない…でも兎に角お前…無責任だぞ…?」

 布団から立ち上がって、俺は部屋の明かりを付けようと彼女の傍にあるスウィッチに手を伸ばした。

 ───カチッと電気を点けたのは彼女だ。

 「無責任だとは思ってる!只…只ね…!私、色々あったの…!本当に色々あって話せなくて………迷惑かけまいとして言わなかった!嫌われたくなかった!……でも、ううん…今言ったって、言い訳だよね」

 「な、んなんだよ…」

 「ごめんね」

 彼女にとって俺は一体どういった存在だったんだろうか、いや、今となっては全てが遅い、遅すぎた。

 時間が経ちすぎている。

 「マジ、何なんだよ…」

 本当に今更の事なのに、何故今俺はこんなに罪悪感を感じているのか。

 「お邪魔して、悪かったわ!さようなら!」

 バタバタと、彼女は行ってしまった。

 「……くそっ!」

 ───ドンッと壁を殴りつけて、俺は煮えきらないこのモヤモヤとした胸の倦怠感に、苦虫を口いっぱいに噛み殺した。




      *




 携帯を開く度に彼女の最後のメールを探してしまう。

 でも、ふと気付く、朋子と付き合うと決めた日、俺は彼女を繋ぐありとあらゆるものを消去したのだと。

 ベランダでタバコを吸いながら何となくため息を吐くと後ろからきゅっと朋子が抱きついて来た。

 「あの人の事、元カノの事考えてるの?」

 「うーん…まぁ」

 「…後悔してる?…私と付き合った事…」

 「それは無い、ただ、もしも朋子と出会って無かったらってちょっぴり考えたかなぁ?」

 「…ムカつく…」

 「あっあぁ、ごめん」

 「……ムカつくけど、分からなくないから、ムカつくだけにする…」

 「…朋子」

 俺は笑って朋子と向き合った、今度は俺から抱き締める。

 朋子を不安にさせまいと努めた、それが朋子にはバレバレだったようで、顔を上げて満面の笑みを見せてくれる。

 「私、信じてるよ?」

 「ん?」

 「結介の事、信じてる」

 「ありがとう」

 「だからね、迷ってるならはっきりさせて?今、結介の中にある悶々とした気持ちがいつか私達の溝とか、わだかまり?になる方がずっと嫌…」

 朋子の瞳には一点の曇りがなかった。

 真っ直ぐに俺を見て、優しく笑う。

 きっと朋子の、上手く言えないが、そういった強い意志のようなものがひしひしと俺に伝わって来る。

 きっと俺はこういう所にも惹かれたんだと思った、いや絶対そうだ。

 「朋子…愛してるよ」

 「…なっ!なんだよぉ〜…も、知ってるもん…!」

 顔を真っ赤にして朋子は照れを隠すようにバシッと俺の肩を叩こうとする、その手を押さえて、俺は朋子に今までに無いくらいの優しいキスをした。

 「…っ、ゆ、結介…?」

 「…夕飯は、すき焼きがいいな」

 「あっうん…」

 うん、と朋子は頷いてから俺の目を見て、にっこりと笑った。

 「…じゃぁ〜買ってきてよお肉…!絶対忘れないで?高いやつだよ、しかも大盛り…!」

 「高いやつ大盛りってお金あるかな?」

 「あるよ、無きゃダメだもん」

 両手を腰に当てて威張るように朋子が言った。

 「分かった」

 「お願い、ね…」

 数秒間、朋子はぎゅーっと俺の胸に顔を押し当てた、その頭を撫でようとすると、朋子は顔を見せないまま玄関に向かった。

 「………朋子…」

 小さな背中を向けて、朋子は俺の靴を綺麗に拭いている、顔を服の袖で擦ってから振り返った。

 「行ってらっしゃい!」

 いつもの明るい笑顔で朋子は言った、俺はぎこちなさを出すまいとして笑い返した。

 「…ん、行ってきます」

 そう言って、ジーパンの後ろポケットに財布を差し込むと、俺は振り返らずに家を出た。




      *




 きっと、朋子は悟っていた。

 俺が彼女に会いに行く事を、言わなくても朋子なら分かっている筈だ。

 「お前って、いつもココだな?」

 場所を特定するのにそう時間はかからなかった、この街に帰って来たのなら、彼女の居場所くらい大体の予想外つく。

 彼女がインドア派じゃないのが一番助かったが、それほど、俺と彼女の付き合いは短いものでは無いという事だ。

 「なんで、来たのよ…帰りなさいよ、あんた、他の女にかまけてる場合?」

 振り返る彼女が、俺を思いっきり睨み付けると同時に風が吹き付け、彼女の髪が靡いた。

 俺は、駅ビルの屋上に来ていた、辺りには古びた遊具があるが、今はもうほとんど使われていない、一年前には出店もあって、子供の姿もあったのだが、今じゃこの有り様だ。

 「あんたっていつも期待させて直ぐに裏切るんだから!やめてよ!」

 誰もいないから余計に声が響いた。

 ガタンガタン──…と、電車の走り出す音が聞こえる。

 「…お前こそ、帰れば良かっただろうよ…帰る場所あるんだろ?」


 ガタンガタンガタンガタン──…


 「…あんたに、関係ない!」

 「今となっちゃ、な…」

 両者一歩も譲らず、俺は涙を流さないようにと潤んだ瞳を上に上げる彼女を見つめてた。

 「聞かせてくれないか…?…一年前、何があったのか…」

 真剣な眼差しを向けると彼女の瞳から涙が引いていった。

 「…も、本当に…」

 「……ん?」

 「…ううん、分かった、私も言いたかったの」

 呟くように言ってから彼女は寂れたパンダの置物に腰かけた、俺は猫か虎かも分からない置物に座ってその横顔を見た。

 「結介との…結婚、私から言ってたけど…だんだん怖くなった、主婦になったら自分はどうなるんだろうとか…考え出したらキリがなかった」

 上手く言葉が出て来ない様子だが、彼女はどうにか言葉を形にしていく、それが見てとれた。

 「そんな些細な事がどんどんでっかくなるの、結婚が、恐怖に変わっていって、でもそれが嫌だった!…そんな時にね、友達に紹介された人がいる……、勿論浮気なんてしてない、でも夢を、見た…」

 空を見上げながら話して、彼女はゆっくりと俺に視線を飛ばした、目が合うと小さく笑い目を反らした。

 「違う恋をすれば違った自分が生まれるのかとか…何だか、楽しそうだって思った、逃げようとしている自分が居たんだけど、その頃ね、結介、やけにモテたでしょ?」

 「……ん?そうだっけ?何でだったんだろ…」

 「そうだよ…ほら雑誌に載ってさ…」

 「あぁ…ん?そんな事があった…ような…」

 小首を捻りながら俺は腕を組んだ。

 「うん、あれ、私を追い込んだの…混乱したの、もう頭の中いっぱいいっぱい…自分でも何が起きたのか分からなかった…多分あれが初めてのヒステリーだったわ」

 ふっと彼女が笑い、俺はそれを何とも言えぬ顔で見た。

 「それで、何だか、結介に私は必要なのか…ずっと一緒にいる事が本当に幸せなのか…とかさ、私より可愛い子は沢山いて、自信が無くなっちゃった…そうしたら、メール打ってた…荷物も直ぐに業者に頼んで全部運ばせた…」

 ガタンガタン──とまた電車の音がして、俺は緊張の糸が切れたように小さく息を吐いた。

 隣で、同じように彼女がふぅーっとため息を吐く。

 「あぁもうっ!本当に、らしくなかったな!」

 どこかスッキリした顔を俺に向ける。

 「てぇか、ごめん、説明下手くそだったんだよねぇ私!」

 ハハッと彼女が笑った、つられて俺も笑った。

 「…良ぉぉく知ってる」

 「はっ!うっさいわよ!で、兎にも角にもよ!バァーッと逃げ出したくなったの!もう、うじうじしてんの嫌だし!私は変わりたかった!だからとりあえずオーストラリアに行った!」

 そう言って急に両手を広げると飛行機の真似をして一回転する、こういうふざけた事をする時は、彼女が配慮している時だ、だからこそ俺は笑わなけばいけない、彼女の気持ちを無駄にしてしまう。

 「変わんねぇなお前!バカだバカ!!」

 あははっと笑って彼女を指差した。

 「…うっさい!!人ってね、腹の中で根ずいてるもん、変えられないのよ!たぶん!」

 「大見得切った割には、たぶんかよ…」

 「何か、文句でも?」

 「いえ、特には…」

 ふんっと彼女が鼻を鳴らす、とその口元が小さく笑った。

 「……でも、嬉しかった…」

 微かに彼女の頬が赤くなると、それを隠すように彼女は背を向けた。

 「んっ?何がだ…?」

 「来る者拒まず去る者追わずの、あんたが、まさか来るとは…まぁケジメなら私も着けたかったし…話せて、良かった…」

 後ろで手を組んで彼女は振り返った、ベッと舌を出してから1年前大好きだった笑顔を見せる。

 「……〜っ!」

 久しぶりのその表情に、忘れかけていた思い出が走馬灯のように甦った。

 「なぁんか!吹っ切れたみたい!」

 うーん!と背伸びをして彼女はあっけらかんとしながら空気を吸い込む。

 「俺も、話せて良かった…、たださ、一言だけ言っていい?」

 立ち上がりながら、真っ直ぐに彼女を見ると彼女は少し考えてから大きく頷いた。

 「俺、待ってたよ、お前が帰って来るって、待ってたんだ」

 彼女は眉を顰めた。

 「………バカな奴」

 「うるせぇな…」

 チッと舌打ちして頭を掻いていると、彼女が近付いて来る、一歩手前で止まって見上げればにっこり笑った。

 「早く帰りな!」

 ────ダンッ!

 「イタッ!?」

 俺はしゃがみ込んで、踏まれた足の甲を靴の上から撫でた。

 「普通踏むかぁぁ!?」

 「私は踏む女ですが?」

 「うっぜぇーまじで!」

 お互い睨み付けながらプッと吹き出した、1年前俺達はいつもバカみたいに無邪気だった、こいつとなら自然体でいられる、それが互いに居心地が良かったんだ。




      *




 「結介?…バイバイ!」

 「おー元気でな?」

 「うん!」

 俺は背を向けて歩き出すとヒラヒラと彼女に手を振った、それから駅ビルの地下一階で肉を買いに行く。

 「…牛…いや…ん〜…」

 財布の中を見て眉間に皺を寄せた。

 「ごめん、やっぱり豚…かな…」

 帰ったらきっと朋子は怒るんだろうなと思いながらも何故だか顔が緩む。


 いや、何故って事は無いか。


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