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暑くて、家にたどり着いた時には汗だくになっていた。
着ていたものを全部すぐに脱ぎ捨ててシャワーを浴びた。俺の身体中の汗や汚れを含んだ透明なお湯が、排水溝にどんどん吸い込まれていく。なのにいつまでたっても、気持ち悪さは消えない。
前を向くと、鏡の中に死んだような目をしている小さな男がいた。時間が経つと鏡は曇って、男の姿は見えなくなった。
シャワーを終えても、胸の中のもやが消えない。
部屋に戻って布団を被り小さくなって、枕にかじりつくように口を当てて思い切り叫んだ。
「ああああああっっ!! あああああっっ!!」
叫び声は枕と布団の中にこもって、多分誰にも聞かれなかった。聞かれなかったと思う。
叫ぶと疲れて、あくびが出た。急に頭の中に霧がかかったように何も考えられなくなって、そのまま目を閉じると霧に包まれるように眠りに落ちた。
気が付いた時には深夜だった。
びっしょりと枕カバーが濡れている。首の周りを触れると、ぬるりと汗が覆っていた。
部屋の電気はつけていなかったので辺りは真っ暗だったが、不思議と良く見えた。良く寝たからか、体調がすこぶる良かった。
こんな日は泳ぐに限る。服の下に水着を着て、タオルと着替えをカバンに突っ込んで、家を抜け出した。
静かな夜だった。風が無く、暖かく、穏やかで優しい夜だった。
自分でハッキリわかるくらいに、泳ぎの調子が良かった。手足が指先まで滑らかに動いた。自分の身体が水を掴んで、押し出し、掻き分け、進んでいく、その感覚がいつもより顕著だった。水中で水の動きを肌で感じ取れた。まるで水滴の塊を一滴ずつ、自分が思い通りに動かしているかのような感触だった。
「速くなった……」
確信に、独り言が零れ出た。自然と口角が上がった。
「へへへ、ハハハ……アハハッ」
なんだかおかしくて、俺は笑った。
速くなるのは当然だ。毎日限界まで泳いでいるんだから。
バカみたいだ。いや、みたいじゃなくてバカなんだ、俺。
どうしてこんなに泳いでいるのか自分でも分からない。分からないのに、泳ぎまくって、ちょっとだけ速くなって。それでこんなに喜んでいる。わけわかんねえな。
でも、明日にはもっと速くなりたい。そう思った。
調子に乗ってクロールで泳いだ。やはりクロールの方が平泳ぎよりも明らかに速い。驚くほど前に進む。
壁を蹴り、ストローク。自分の動きを細かく分解して、可能な限り水の抵抗を減らす。あっという間に対岸にたどり着き、ターン。回転してドルフィンキックしてみたりして、そのまま背泳ぎに。
空がよく見えた。今日は空気が澄んでいる。月が綺麗だ。星空が眩しい。
背泳ぎは壁にぶつかるのが怖くて今までほとんどしなかったが、今日は何故か泳ぐ自分の姿がよく見えた気がしたのでしばらく続けた。
そう言えばかつて水族館で見たイルカも背泳ぎしていた。水面を広く見ることができるかららしい。
あのイルカはプールから観客の姿を見たのだろうか。口を小さく開け、まばたきを忘れた小さな少年を見ただろうか。俺がイルカなら、多分観客ひとりひとりのことなんか見やしないだろうが。
だが俺はあのとき水族館のイルカショーであのイルカを見て衝撃を受けた。
機嫌が悪かったのか、ショーが始まっても中々泳がなかった1匹のイルカが、ひとりの飼育員の姿を見た瞬間に稲妻のように泳ぎ出した。
速かった。そして綺麗だった。どうやってあんなスピードを出すんだろう。今でも分からない。
あいつは他のイルカとは違った。明らかに速かった。俺はその速さに見惚れた。
あんなふうに泳げたらいいなと思って、水泳を始めた。
でも俺はイルカじゃなかった。というか、誰よりも遅かった。最初は25m泳ぎ切ることすら必死だった。
だけど泳ぐのは楽しかったし、イルカを目指す分には勝手に目指せばよかったから、意外と続いた。
そして、今に至る。
ゴン、と大きな音と共に頭に激痛が走った。壁に頭をぶつけた。もう二度と背泳ぎはやめようと思った。
頭に手を当てていると、空が白み始めていることに気が付いた。調子に乗って長時間泳ぎ過ぎたのだ。
嫌な予感がした。いつもと違うことをすると、いつもと違うことが起きる。
早く帰らなければ、と思った。愚かな俺にそれ以上の考えはなかった。
何気なくプールの鉄門のほうを見た瞬間、全身が硬直した。
門の向こう側に、鳩村美有がいた。