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今日は遅刻を免れたが、朝からずっと頭がボーッとしていて授業中に居眠りをしてしまいそうになった。
昨夜は鳩村に会わなかった。しかし、昨日の鳩村の足音が、俺の頭の中を駆け巡る様に繰り返し思い出された。足音のあとには、長身痩躯のシルエットがよぎった。その視線の先に、情けなく硬直し無言のままに無様に口を開けて冷や汗を垂らす自分がいた。
校内で鳩村は俺を見ることは無かった。目線など合うはずもない。
あれはたまたま偶然だった。そうに違いない。同じ教室にいるのに、今まで会話らしい会話をしたこともないのだ。
そもそも、俺は何を気にしている。早朝、学校の近くで会った。ただそれだけのことじゃないか。
鳩村が周囲に俺と遭遇したことを話したとして、それが何になる? 俺は泳いでいる姿を見られたわけじゃない。
気にしすぎなんだ。俺なんて、鳩村にとって路傍の石と変わらないんだ。鳩村が俺と学校周辺の植え込みのそばで出会ったことを誰かに暴露することは無い。
考えを整理していくと、悩みは解消されたような気がする。でも、胸のざわつきが消えない。
放課後、帰り支度をしているときに高橋先生に話しかけられた。
「蘇我さー、お前今日はいつにもまして眠そうだな。ちゃんと寝てんのー?」
「なんか、あんまり最近寝れないです」
「ふうん」
高橋先生はいつのまにか俺の机の横に立って俺を見ていた。先生の顔を見ると、左目周辺に厚くファンデーションが塗られているのか、他の部分と少し色が違った。
「部活行けば?」
先生の口から突然飛び出した言葉は、俺の眠気を一瞬で覚ました。身体がこわばり、肩に力が入った。
「去年水泳部だっただろ。また入って、泳げばいいじゃん。思いっきり泳げば疲れて眠れるよ。お前、体力持て余してんだよ、きっと。だから夜中にこそこそ何かしてんだろ?」
先生は笑ったが、その提案は受けられなかった。もう一度水泳部に入るなんてことは決してない。あそこに俺の自由は無いからだ。
「水泳部には入りません」
「なんでー? もったいないじゃん」
「俺、遅いので」
「遅い? 泳ぐのが? 別にいいじゃん」
「良くないんですよ」
断固拒否すると、先生はふうと息をついた。
「ふうん、そっかー。わかった。まあ、それはそれとして、ちゃんと寝ろよ。心配なんだよ」
大きなお世話だった。そんな心配はいらない。だいたい、俺が泳いでいる姿を見たことも無いのに、どうして水泳部に入れだなんて言えるんだろう。俺は水泳部が嫌だったからやめたんだ。再入部なんかするはずがない。
俺はカバンを背負って教室を出た。先生は追ってこなかった。
校舎を出てプールの横を通ると、夜は来るもの拒まんと頑なに閉じている鉄門が、情けなく開かれていた。
プールサイドには今日も水泳部員たちがいた。さっさと練習すればいいのに、部員たちがだらだらとくっちゃべっている。そんなに喋りたいのなら、水泳部になんか入らなければいい。泳いでいる間は話すことなんかできないのに、どうして水泳部に入ったんだろうか。
見れば見るほど、考えれば考えるほど、際限なく腹がたつ。怒りが身体の真ん中から指先まで広がっていく。
泳がないなら、俺にプールを寄越せ。
ムシャクシャしたから意味も無く走って帰った。肺の中の空気を全部絞り出して、今の気分を丸ごと取り替えたかった。一歩進むたびに背中のカバンが大きく揺れ、大量の教科書やノートが中で前後する。背中を引っ張る、捨てたくても捨てられないものの重みが、俺をさらに苛立たせた。
全力疾走したらすぐに息が切れた。