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意識を失いそうなほど眠い。寝不足で、まだ昨日の疲れが残っているようだ。さっさと家に帰って寝ないと倒れてしまいそうだ。
カバンに教科書や筆記用具を入れて、家路につく。
校舎近くのプールの横を通ると、水泳部が各々アップを始めていた。
今年の水泳部は強いそうだ。6月の大会では県で団体2位の好成績を残したらしい。藤原ってやつがエースで、めちゃくちゃ速いと風の噂で聞いた。多分俺よりずっと速いんだろう。
校門から出て、通りから路地に入る。少し歩いて、グラウンド横の植え込み。
今朝の光景がフラッシュバックする。
「え……」
鳩村の声が思い出される。何の「え」なのか全く分からない。いったい、あの瞬間にどこまでがバレたのか。
そもそもどうして鳩村は早朝にこんなところを走っていたんだろう。ランニング? 何のために。あいつ何の部活に入っているんだっけ。知らない。俺は鳩村のことを何も知らない。
鳩村は学校周辺の植え込みに対して正面側からやってきた。もしかすると、あちらの方向に家があるのか。もしくは向かって行った方向に住んでいるかもしれない。
どんな家に住んでいるんだろう。なんとなく、鳩村の家は金持ちな気がする。鳩村のような自信満々な人間は、往々にして家が金持ちなんだ。金が余裕を生むんだ。欲しいものは何でも手に入り、自分を否定されたことが無いんだろう。俺とは違う。たぶん、何をしていたって誰に何を言われることもない。どんなにしょうもないことをしていたって「可愛いね」って言われるんだ。俺のように自分の自由を気にして生きることなんてあるわけがない。自由が何かなんて知らないんだろうし、考えたことも無いだろう、多分。バカそうだし。
本読んだりしなさそうだし、イルカを魚と言いそうだ。自分の容姿を永遠に気にして生き、綺麗と可愛い以外に基準となる価値観を持たず、世の中の不幸ごとのすべては自分以外の人間が負うべきだと無意識に考えながら、誰かに支えてもらって一生何不自由なく生きていく、そういうタイプに見える。
それはつまり、鳩村は俺と関わる人間じゃないということだ。相容れない人間というのが世の中にいる。もしも彼女が俺の見立ての通りであれば俺と相容れないし、そして俺の予想はそこまで大きく外れないだろう。根拠はないが、そう思う。
ああいう人間は自分の人生を自分で自由にするという発想が無いに違いない。鳩村は俺とは違う。俺が自分を自由だと感じるためにする行動を、何一つ理解できやしないに決まってる。少なくとも、人は生まれながらにして自由だと思っている人間には俺を理解できない。
鳩村は多分そういう人間だ。俺とは、違う。
考えながら歩いていると、家に着いていた。
車があるから、どうやら母がいるようだった。あまり話しかけられたくなかったが、玄関のドアを開けると大きな音がして、俺が帰ったことが知られた。
「おかえり。ねえ、今朝先生から電話来たよ」
「うるせーな」
「うるせーじゃないでしょ、ねえ」
母に話しかけられたが会話がとにかく面倒で、すぐに自室に閉じこもった。眠い。スウェットに着替えて、すぐにベッドに横になった。
鳩村、今日初めて話したな、俺。
リコーダーを渡した時、どう思われたんだろう。考えても分からない。分からないのに、頭の中でずっとぐるぐるしている。
眠くて疲れて、寝返りを打つのもだるい。でも、モヤモヤして全然眠れなかった。
ずっと布団の中で目を瞑っていたら、結局そのまま夜が来た。
心がざわついている。落ち着かない。学校に向かって歩いている間、また誰かに見つかるんじゃないかって気持ちが消えなかった。
だけどプールで泳げば、そんな気持ちも少しは落ち着いた。やっぱり水泳は良い。何も考えられなくするパワーがある。全力で泳いでいれば、少なくともその間は頭の中を空っぽに出来る。
クイックターン、ストリームライン、息継ぎ、速く、ストローク――
今この瞬間、世界一、俺が水泳を楽しんでいる自信がある。
誰にも見られない、何にも縛られない、俺だけの国。俺だけの法律、秩序、自由。
フェンスで遮られ、鉄門で閉ざされた、俺だけのプール。俺だけの世界。
今日は月や星がやたらと綺麗に見えて、ロマンチックだ。
だんだんと呼吸が弾み、全身の筋肉が熱くなる。
水中に曲線を描く。自分が俯瞰して見える。速さとは美しさだ。美しいフォーム、美しい軌道が、速さを生む。速く、速く、速く!
俺はイルカだ。