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目覚めたときには10時を過ぎていた。完全に遅刻だ。
一瞬だけ焦るが、このぐらい遅れるともはや急ごうという気にもならない。
自室を出てリビングに行くと、机の上に紙が置いてあった。「卵焼き冷蔵庫」。冷蔵庫を開けると、ラップがかかった皿にスクランブルエッグと焼かれたソーセージが乗っていた。取り出して、ケチャップをかけて食べた。
テレビをつけて天気を確認する。昼のうちは少し雨が降るが、今日の夜には晴れるそうだ。
歯を磨きながら、鏡を見る。目の下の青黒い隈が目立つ。いつのまにか、唇の下に小さなニキビが出来ていた。気になって爪でつぶそうとしたが中々潰れず、痛いのでやめた。
だらだらと制服に着替えると、2時間目の授業が終わりそうな時間になっていた。冴えない頭に深呼吸で酸素を巡らせ、靴を履いて家を出た。
鳩村のことはこれ以上考えても仕方がない。
見つかったとはいえ、あのとき俺は敷地を出ていた。カバンを持ってはいたが、荷物を見られたわけじゃない。髪の毛が濡れていたかもしれないが、汗も混じっていたし。大丈夫だ、問題ない。
頭の中で何度も自分に言い聞かせる。今更どうしようもないのに、過ぎたことにうじうじとしてしまう。嫌気がさす。
学校に着くと11時だった。そろそろ3時間目が終わるころだ。
静かな廊下を歩くと、遅刻した俺を咎めるように足音が響き、心臓のあたりがざわつく。
職員室まで行き、カバンを置いてドアをノックする。
「失礼します。2年2組の蘇我です。高橋先生に用事があって参りました」
先生たちの視線が一挙に集まるこの瞬間が辛い。一呼吸おいて、一歩を踏み出す。
職員室の中は廊下や教室とは違う独特の匂いがして、自分が異物であるかのように感じられる。
担任の高橋恵子先生は一瞬こちらを見て、またすぐに机の上のパソコンに目を移してタイピングを始めた。
「すみません、遅刻しました」
「うん、なんで遅刻したー?」
「寝坊しました」
「お前最近寝坊多すぎない? 何時に寝てるの?」
「0時ごろです」
「もっと早く寝なきゃダメだよ、起きれないんだったらー」
「はい」
先生は目線だけこちらに向けながら、適当な説教をした。あまり俺に興味が無いのだろう。成績も部活も大したことなく、愛想も生活態度も良くない生徒に、誰が興味を持つというのか。逆に、熱心に説教をしてくる先生でなくて良かったとも思う。
「遅刻簿に名前書きなー」
「はい」
先生は「遅刻者名簿ファイル」というラベルが貼りつけられたファイルを俺に手渡し、空いている隣の席の椅子を引いて俺に座る様に促した。椅子の上に置かれたドーナツ型のクッションに尻がよく沈み込み、結構座り心地がいい。
ファイルを開くと、今月の遅刻した者の名前と理由が一目でわかる。今月は延べ6人が遅刻しており、そのうち2人分は俺だった。また、今日遅刻したのは現時点で俺だけだった。
日付・名前・遅刻の理由を書き終え、先生にファイルを手渡す。先生はファイルを受け取ると中身を見ること無く無造作に机の上に置き、こちらを向いた。
「お前さ、ちょっと改めた方がいいんじゃない?」
「はい」
「はいじゃねえよ、この前も同じこと言ったろー」
「はい」
「今朝お前ん家に電話したらさ、お母さんが言ってたよ。最近夜どっか行ってるって。何してんの?」
夜、どこに行っているか。聞かれてホッとすると同時に、胸がむず痒くもなった。
どうやら鳩村は植込みのすぐそばで俺と会ったことを先生にチクっていないようだ。
だが母親に夜の外出をバラされてしまった。余計なことを言いやがって。後々面倒なことにならなければいいが。
「お前結構大人しそうなやつかと思ってたけど、意外とそういうタイプ?」
「……」
「黙ってても分からないじゃん」
先生は面倒くさそうに俺を見た。小奇麗に整った顔だが目の周辺は少し疲れがにじんでいるのかわずかに黒っぽい。ファンデーションで隠しているが、よく見ると左目の方が少し腫れているように見えた。
数秒間の沈黙。先生は俺が何も答えないことにイラついているように見えたが、俺の視線が自分の左目付近にあることに気が付くと、気まずそうに顔をそらした。
「あんまりさ、心配させんなよ」
「はい」
「もう遅刻すんなよー」
ちょうど、3時間目終了のチャイムが鳴った。立ち上がって椅子を戻し、一礼して職員室を出た。先生はすでにパソコンに向き直っていた。
階段を上っていくと、授業を終えた生徒たちが教室から出てきていた。珍しい動物を見る目で俺を眺める視線が気持ち悪い。
2年2組の教室に入ると、クラスメイト達が教科書とリコーダーを持って移動しようとしていた。次の時間は音楽室でリコーダーの授業だったことを思い出した。
カバンの中から教科書とノート、筆記用具を取り出して、机の中にいれた。その後、教室の廊下側に置かれている棚の中から自分のリコーダーが入ったケースを探す。もうほとんどみんな自分のリコーダーを持って行っており、残りは数本だった。
適当にケースを1本取り出すと、丸っこい字で「鳩村 美有」と名前が書かれている。
――鳩村、来ていないのか。
今朝のことを思い出す。見間違いじゃないよな。長身細身、ショートボブのシルエット。あれは確かに鳩村美有だった。
どうしていないんだろう。俺のように遅刻なんてことはないだろうし。
考えても、思い当たる節はなかった。
「ねえ」
「うわっ」
振り返ると、すぐそばに鳩村美有がいた。俺は急に話しかけられて動転し、固まってしまった。
鳩村の目がきょろきょろと動いている、俺の顔のすぐそばで。
――小さな顔だな。
よく見ると、驚くほど肌のきめが細かい。ひとつのニキビも無い。当然、目の下に隈なんてあるはずもない。
じっと眺めていると鳩村の目線が俺の手元で止まった。目線の先を追うと、やっと俺は自分が間抜けを晒したことに気が付いた。
「はい」
「ありがとう」
手に持っていたリコーダーのケースを渡すと、鳩村はにこりと笑った。少しのぎこちなさもない、自然な笑顔だった。
鳩村はケースを受け取ると自分の名前をまじまじと確認し、音楽室へ行ってしまった。
思えば、初めての会話だった。俺、気持ち悪くなかったかな。いや気持ち悪かっただろうな。
聞いておきたいことがあった気がする。
でも、別にもういいやって思った。