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イルカ  作者:
2/11

 薄い闇の静けさの中に、深い呼吸音が響く。体からプールサイドに水滴が滴る。

 どこかからセミとキジバトの鳴き声が聞こえてくる。気が付けば闇が青白くなってきていた。

 タオルで体を包み、座り込んで、しばらく呼吸を整える。ドクドクとエンジンのように鳴る心臓の鼓動が、しびれる指先まで血液を運んでいく。

 頭の中が空っぽだ。今は何も考えられない。体の中から疲労を吐き出して、ただ虚空を見つめる。


 呼吸が落ち着いたら、水着を脱いで、脱ぎ捨てていた服に着替える。

 服を着る瞬間、どうしようもない虚しさが胸の奥から湧き上がる。もう今日も終わりだ。終わりなんだ。

 鳥の鳴き声が、今はやけに鬱陶しく聞こえる。


 力を振り絞り、門をよじ登って外に出る。

 フェンスで囲われたプールと違って、外は人の目があるとすぐに気づかれるから、見られないように細心の注意を払って走る。この瞬間は、何度繰り返しても慣れない。先ほど整えたはずの呼吸がすぐに荒く苦しくなる。喉の奥の唾が熱くなって鬱陶しい。徐々にわき腹が痛くなる。太ももが全然上がらない。

 もしもこの姿を誰かに見られたら俺は終わりだ。想像するだけで吐き気がするが、必死でこらえて脱兎のように淡い闇の中を駆け抜ける。


 念のため校門からではなくグラウンドを通って、敷地を囲んでいる植え込みを乗り越えていく。校門を出ると大きな通りがあり、深夜や朝でもたまに車が通る。

 植え込みの外は路地になっており、車はあまり通らないし万が一にも人に見つかるリスクも低い。とりあえず学校の敷地内から出られれば、すぐに路地から路地へ、その後は見つかっても大丈夫。なんとでも言い訳できる。


 屈んで周囲を見渡してから、誰もいないことを確認し、なるべく静かに植え込みを乗り越える。着地しようとした足の太ももに刺すような小さな痛みが訪れると同時に、ぱきりと枝が折れる音がした。体が硬直する。つま先に力を入れ、小さくジャンプ。無事に敷地の外側に出ると、体中から汗が噴き出した。


 いつのまにか汗でびっしょりと濡れたTシャツが肌にまとわりついて気持ちが悪い。帰ったらすぐに着替えようと思った。少し走っただけなのに、酸欠で頭が痛む。吐息の中に、自分の中の毒が凝縮されている気がした。

 立ち止まり深呼吸。喉の奥が熱く、酸っぱい匂いがする。


 小さく、足音が聞こえた。その音は一定のリズムを刻み、わずかだがだんだんと大きくなる。どうやら誰かが走っている。

「しまった」と思ったときにはもう遅かった。足音の主を発見したときには、すでに自分がその目に捉えられていることが分かった。


「深淵を覗くとき」という言葉が頭をよぎる。覗かれていた。いつのまにか。俺が。いやそういう意味じゃないけど。

 呼吸が止まる。心臓が破裂しそうだ。体が震える。固まって動けない。

 というか、誰だっけ、あれ。なんか、見覚えがある。


 長身のショートボブ、手足が長く、小さな顔。時間が止まったような薄暗い闇の中に、光を放つような白い肌。

 気が付いた瞬間、体中に粟が立つ。よりによって、鳩村美有。明るく、誰とでも打ち解け、いつも人の輪の中心にいるような女。

 終わった、と思った。広がる。波紋のように。俺の自由が奪われる。全身の汗が乾いている。目の前が真っ白だ。


 走りながら近づいてきた鳩村美有と目が合った。

 目を少し大きく開け、眉根にしわを寄せ、彼女は「え……」と言った。

 そのままペースを緩めずに、鳩村は走り去っていった。

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