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イルカ  作者:
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 夜の海を見ていると、空と混ざる水平線の深い紺色の境目に、ゆっくりと魂が吸い込まれていく気がする。

 心臓の鼓動と重なる、小さな灯台のライトの点滅。

 その奥には広い海。真っ暗闇の、だだっ広い海。

 波の音は静かで、月光がやけに眩しい満月には薄っすらと雲がたなびいている。

 柔らかそうに見えて意外と固い砂の地面の感触。指先から冷えていく体に生ぬるい潮風が当たって気持ちがいい。

 こんな夜は何気なくひっそりとこの世から消えたくなる。星を眺めて、穏やかな波に揺られながら、海にぷかぷかと浮かびたい。

 生まれ変わりたいと思った。できれば、イルカになりたいと思った。



 自分が意外と自由だと知ったのは最近である。

 自分と他人とは、言葉によって繋がれていると感覚で分かったのが、中学2年生を迎えた春のことだった。先生たちは挨拶や指示、感想、その他もろもろの言葉によって生徒の行動を作っていた。先生たちの言葉はまるで法律のように従わなければいけないものだと感じられたが、実際のところ別にそんなことはなく、自分の行動を作るのはただ自分の意志ひとつだと、今ははっきりと理解している。


 なんとなくずっと、閉塞感みたいなものがあった。

 周囲と価値観が合わない。流行のテレビ番組とか、芸人とか、興味が無いもので周りが盛り上がるのが苦痛だった。全然面白くない話で笑い声をあげるクラスメイトたちが、別の生き物のように思えて仕方がなかった。人の姿をしている、人間以外のなにか。あるいは俺がそうなのかもしれなかった。


「どうして笑わないの?」と隣の席の女子に聞かれたことがある。

「どうして楽しくも無いのに笑わなければいけないの?」。言えなかった。 楽しそうに見えてなくちゃいけないのか? 君の人生を楽しくするためには俺は笑っていなくちゃいけないのか? なぜ俺の感情を君が決めるんだ? とても言えない。

 その女子生徒は押し黙る俺を侮蔑を込めたような目で数秒眺め、興味を無くしたように俺から目を逸らして他の友人のもとへ歩いて行った。

 俺は自分の席に座ったまま、動けなかった。心が深く深く沈んだ。そして思った。

「自由になりたい、自由でいたい」。

 壊れたスピーカーのように、心が俺に叫び続けた。


 自由とはいったいなんなのだろう。

 自分で「自由になりたい」と唱えながら、自由の正体が分からない。辞書で調べると、「他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること。」とある。自由でないということは、束縛を受けている、もしくは自分の思うままにふるまえていないということ、となる。

 また、英語には自由という意味でlibertyとfreedomがあり、これらは精神的自由と身体的自由とで区別されている。自由であるということは、一般的には精神的・身体的自由の両方を満たす必要があり、俺の思った考えなしの「自由」もまさにそのような状態のことだった。


「自由になりたい」と思うからには、俺は「自由ではない」のであって、その状態から脱する必要がある。

 俺は何に縛られている? まずはそれを知らなければならなかった。


 ある日、夜に家を抜け出した。

 玄関のドアが閉まる音が、静かな闇の中にやけにうるさく聞こえた。鼓動が高鳴った。呼吸が浅くなり、どこかから自分を捕まえる手が伸びてくるように感じられた。

 息を殺して家を離れた。俺を照らす鬱陶しい月光から逃げるように走った。

 たどりついた先は俺の通っている東中学校だった。

 それが始まりだった。


 東中学校のプールは3mほどの黒い鉄の門が閉まっている。

 一見誰も通れないように見えるが、近くに落ちている大きなポリバケツを逆さにして踏み台にすると、驚くほどあっけなく侵入できる。

 深夜、家を抜け出して学校へ、グラウンドを通り抜けてプールの門を乗り越え、こっそりと一人で泳ぐのが最近の日課となった。

 誰もいないプールで泳ぐと、この世の全てから解放されている気分になる。俺はただ泳ぐだけの無意味な存在で、何も考えずにただ水中をさまよい、たまに呼吸のために顔を出す。それがいい。


 泳ぐときは平泳ぎだ。一番静かに泳げるから。そして俺が平泳ぎが好きだから。

 クロールや背泳ぎよりも、平泳ぎは動作によるスピードの緩急が大きい。キックしてから体をまっすぐに伸ばして加速しているとき、自分の力で前に進んでいると感じる。少しずつ停滞してくると、手で水をかき分けて、水面から顔を出して息を吸って潜り、またキック。今、俺は泳いでいる。


 風が吹くと、夏でも少し寒気を感じる。体が震える。水に潜り、泳ぐ。すると色々なことを忘れる。寒さとか、息苦しさとか。ただ必死に前に向かって泳いでいると、何もかもどうでもよくなる。暗くて前があまり見えないことなんて、些細なことだと思える。


 数十秒で対岸にたどり着く。25mの小さな世界を行ったり来たり、行ったり来たり。

 元来た道を戻る。また対岸にたどり着く。元来た道を戻る。対岸、戻る。対岸、戻る。――


 いつしか全身の力が抜け、体中の血液が泡立ち弾けているような感覚に陥る。そうなったら限界の合図だ。

 あと25mだけ。もう無理だよ。自問自答。力が入らない全身の倦怠感そのままぷかりと浮かんで空を見上げる。都合よく月が綺麗だ、息をするのもだるいのに。


 肺の収縮、心臓の鼓動、指先の痺れ。呼吸とともに浮き沈みする体。

 虫の声、風に鳴る葉音、生ぬるい夏の夜の空気。

「水泳」の対義語があるとしたら、それは「時間」だろう。ぼーっとしていても、勝手に進んでいくのだから。


 雲が月を覆ってあたりが見えづらくなる。

 暗いうちに帰らなければ。早くしないと、朝が来てしまうから。

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