2-13 真夜中と戦う歌
モンスターは、まだヒロに気づいていない。だが、明らかにヒロを探していた。黒く蠢く塊は、獲物の痕跡を嗅ぐ肉食獣のように、確実にヒロのもとへ近づいている。
「ちっ……!」
逡巡する間もなく、身体が動いていた。零一は図書館が入ったビルへ取って返し、突き当りの非常階段を駆け下りた。グリーンの非常灯が照らす空間に、スニーカーの足音が反響する。B一階に辿り着くと、管理人室と隣接したガラス扉を発見した。外に続く月明かりの中に飛び込んで、ビル群の迷路を縫って走る。
自転車で〝常夜〟を一周した経験に助けられた。そうでなければ、モンスターを迂回するルートを思い描けなかったに違いない。
瓦礫を踏み越えて路地裏を進んでいくと、闇に隠れた小柄な後ろ姿が見えてきた。小石を踏む音が聞こえたのか、ヒロが弾かれたように振り返る。
「あ……零一にいちゃん!」
「ばかっ、声出すな!」
零一は慌てたが、ヒロが表情を明るくすると、周囲の冷気が和らいだ。モンスターが去ったのかと期待したが、さすがに甘い考えだった。路地裏の出口で細長く切り取られた風景に、黒い靄はまだ居座っている。肝を冷やした零一は、ヒロのもとまで一足飛びに駆け寄ると、まだ喋りたそうにしている口を手で塞いだ。
「むー、むー!」
「こら、静かにしろって! 逃げるぞ!」
手の甲を猫のように引っ掻かれたので、零一はヒロを背中に担ぎ上げた。想像以上に体重を感じさせない軽さに、内心驚く。小学三年生の児童は、これほどまでに軽いものだろうか。
「でも、僕のボールがぁ」
「あとで拾ってやるから!」
もと来た道を駆け出すと、冷気が勢いを盛り返した。ひたりと不快な視線が背中に張りつき、ぞっとする。捕捉されたのだ。振り返らなくとも、猛烈な速さで冷気が迫ってくるのが分かる。追いつかれるのは時間の問題だ。
助かるためには、なんとしても――坂の上まで、戻らなくてはならないのに。
「くそ……! これじゃあ、上に戻るまでに追いつかれる……!」
「零一にいちゃん、路地裏を抜けたら、右に曲がって」
不意に、冷静な指示が飛んできた。舌足らずな声で言ったヒロの身体は、もう震えてはいなかった。幼い両手が、ぎゅっと零一の肩にしがみつく。
「図書館のビルのほうが遠いから、モンスターに追いつかれるよ。右に曲がったら、隣のビルに入って。階段を見つけて、一番高い所まで僕を連れていって」
「まさか……この状況を変える、策でもあるのか?」
「さく?」
「ああ、分かんないか……作戦、ってことだ」
「作戦! あるよ!」
ヒロが、くすくすと笑い出した。子どもの体温が熱い所為か、迫りくる冷気が霞んでいく。零一は疲れた身体に鞭打って、走る速度をぐんと上げた。
子どもの作戦に乗るなんて、どうかしている。そんな自嘲の声よりも、ヒロの明るさを信じた己の直感にこそ、モンスターに喰われるかもしれない〝常夜〟と〝現実〟の記憶を賭けるだけの価値を見出したのだ。
路地裏の出口で、月光が青く照り輝く。零一は指示通りに出口を右折し、ヒロの言った廃ビルの入り口に逃げ込んだ。そのときに初めて気づいたが、この車道は大将がモンスターに襲われた際に、屋台を停めていた場所だ。酸を振りまいたかのように壁が融解し、鉄筋が剝き出しになった廃ビルに怯んだのは一瞬だった。
おおお……と不気味な風音を立てる咆哮が、さっきまで零一とヒロがいた路地裏の出口まで追いついた。零一はエントランスの闇に紛れると、非常灯の明かりを頼りに階段めがけて駆け出した。
最上階を目指す足音が、カンカンカン……と無慈悲に響き渡る。モンスターに聴覚があるのなら、零一たちの現在地は隠せない。酷使した身体が汗ばみ、足がもつれかけた頃、ついに階段の終わりが見えてきた。唖然とした零一は、絶望する。
「おい、マジかよ……」
階段は、七階と八階の真ん中で、ぷっつりと途切れていた。四方の壁はチョコレートのように溶け崩れ、天井を失くした頭上からは、満月しか輝かない夜空が覗いている。
――行き止まりだ。それも、完璧な袋小路。背後からは、モンスターの気配がひたひたと、冷気を引き連れてやって来る。零一たちに、逃げ場はない。
立ち尽くす零一をよそに、ヒロはひょいと背中から降りた。腰に巻きつけたポーチから白い何かを取り出して、床にぺたんと座っている。何事かと見下ろせば、ヒロは折り紙を折っていた。存外に丁寧な手つきに毒気を抜かれた零一は、絶望を刹那忘れた。
「こんなときに、何をしてるんだ……?」
「きゅーなんしんごうだよ。アユねえちゃんに教えてもらったんだ。えいっ」
ヒロは立ち上がると、ひゅっと夜空に何かを放り投げた。出来上がったばかりの白い機体が、闇夜を切り拓いて飛んでいく。
――紙飛行機だ。零一が驚いた瞬間に、階下からぶわりと強風が吹き上げた。モンスターの息吹だ。廃ビルの壁がさらに溶けていき、重要な柱も打撃を受けたのか、激しい地鳴りとともに足元が揺れた。階段を転げ落ちかけたヒロの服を引っ掴んで抱き留めて、零一は夜空を振り仰いだ。
高度を上げた紙飛行機が、モンスターが生んだ風の煽りで、さらなる高みを目指していく。駅前広場を臨む街並みへ、希望を乗せて飛翔する。ようやく零一にもヒロの狙いが読めたとき、呆れと怒りがないまぜになった気分にさせられた。
こんなにも運を頼りにした賭けに、ヒロは零一を巻き添えにして挑んだのだ。無茶を叱るべきか、それとも僅かな救いを信じた自分を馬鹿にするべきか――決めかねているうちに、意外な早さで救いの手が差し伸べられた。
――音楽が、夜空から聞こえたのだ。
いつしか耳に馴染んだソフトロックが、力強いシンセサイザーで走り出す。ボーカルの甘い声が、この〝常夜〟に揺蕩う透明感とそっくりの哀愁を連れてくる。
哀愁の温度は、走り回って擦り傷だらけの零一の手のひらみたいに冷たいのに、お節介な誰かが勝手に繋いできた手のひらみたいに、温度を簡単に変えるのだ。ヒロがラジオに合わせて歌い出すと、女性ボーカルが紡ぐ歌詞が、零一にもはっきりと聞き取れた。
青く冴えた荒野
空っぽの部屋に注いだ怠惰
揺蕩う君は溺れたふり
折れたドライフラワーと
ネオン集めたテラリウムで
踊るのさ
最低のワルツを可惜夜に
「……〝常夜〟に来てから、何度も聴いてたのにな」
満月を見上げて、零一は独り言ちる。
〝常夜〟に来てから初めて、歌詞が耳に届いた気がした。
愛想笑いすら厭う君
思い撓んだ眼差しが好き
真価が剥落 在処が零落
綾なす夜に酔う
君が疎んだ朝が来る
どこにも行けないと嘯く
爪紅に触れた午前五時
零に零を掛け合わせてる
「僕、この歌が好きなんだ」
サビに入る直前に、ヒロが言った。零一が見下ろすと、ヒロはニカッと笑った。くりくりした丸い目からは、さっきまでの怯えの名残すら消えかけている。
「真夜中にこの音楽を聴くときは、つらいことを忘れられて、戦える気がする……って、〝常夜〟の人たちはみんな言うよ。零一にいちゃんは、違うの?」
「俺は――」
透明なネイルが
君の手に三日月を残す
いつか僕を追いかけて
さよならはまだ言わないで
水に燃えたつ蛍
ピンクの箒星さがして
目抜き通りで
眦を決した君を見てみたい
「……今はまだ、真夜中じゃなくて昼過ぎだろ」
目を逸らして答えると、ヒロはこてんと首を傾げた。またしても新種のカブトムシを見つけたような目をしているので、〝常夜〟ジョークに対するささやかな意趣返しは、全く伝わらなかったようだ。
モンスターが纏う冷気が、階下へ押し戻されていく気配を感じた。禍々しい悪寒も、音楽の温もりに圧されるように薄らいでいく。やがて蝋燭の火を吹き消したかのように負の感情の残滓すらも消失すると、ラジオの曲もフェイドアウトで締めくくられた。入れ替わりで、底抜けに明るい声が響き渡る。
『――『ユアとアユの常夜鍋』、本日の担当パーソナリティはアユです! 緊急事態でしたので、前置きなしで***さんの楽曲をお送りしました! ラジオ局からは見えませんが、リスナーの皆さんから続々と報告がありました! モンスターは、無事に討伐された模様です! 零一さん、無事ですかー? 意識があるなら、〝常夜〟の皆さんから見える場所に出てきてくださいねー! ああ、事前に曲のリクエストをしてくださっていた、ラジオネーム・MIKIさんへの感謝も、お忘れなくー! そうそう、ひー君! 救難信号は受け取りましたよー!』
「……助かったんだな。俺たち」
安心したら、疲労が一気に増幅した。ヒロを抱えたまま壁に寄りかかると、表面がボロボロと角砂糖のように崩れ始めたので、ぎょっとして跳ね起きた。堅固なはずの壁がウエハース同然の脆さで剥がれ、さらさらと地上に落ちていく。廃ビルの高さがまた少し縮んだことで、対面に聳える雑居ビルの屋上に、数人の人影を発見できた。
初めて見る顔ぶれもあれば、見知った四人組の姿もある。モンスターに抗うレジスタンスのリーダーよろしく集団の先頭に立つ男が、大きく手を振っていた。大工のエイジだ。体躯こそ痩せ型だが、遠目にも逞しいと分かる手には、ストラップ付きのラジオがあった。アユの声は、そこから聞こえていたのだ。――零一とヒロを救った、音楽も。
エイジの隣で腰を曲げているのは、老翁の宇佐美だ。したり顔で笑ってから、杖の先を遠くへ向けた。
指し示された建物は、ありふれた廃ビルだ。他のビル群と異なる点は、五階のオフィス跡地と思しき窓の一角だろう。青白い輝きが、満月に張り合う一番星のように、煌々《こうこう》と終末世界を照らしている。
そんな自称ヒーローの居場所を零一に教えてくれた女性は、宇佐美のそばにいた。主婦の杉原は、ロングスカートを床につけて蹲り、しきりに目元を指で拭っている。震える背中を、インチキ霊能者のミキがさすっていた。零一を駅前広場でからかってきたときとは打って変わって、笑みにはラジオの歌とよく似た哀愁が潜んでいた。ぴんときた零一は、きょとんとしているヒロを見下ろす。
そういえばアユは、ラジオで真っ先に零一の安否を気にかけた。ヒロがモンスターに狙われたことを、たった今知った者もいるのだろう。
「零一にいちゃん。……杉原さん、どうして泣いてるの?」
「それは、お前が危ない目に遭って、驚いたからで……今は、安心したからだろ」
零一は、髪をくくったヒロの頭を、適当に撫でてやった。杉原が〝現実〟で亡くした子どもは、小学生だと聞いている。ひょっとしたら、ヒロと年齢が近いのかもしれない。
『零一さんとひー君の無事が確認されました! 〝常夜〟の皆さん、ご協力ありがとうございました。それでは、また今宵のラジオでお会いしましょう。『ユアとアユの常夜鍋』、パーソナリティのアユでした!』
エイジの手の中でラジオが沈黙し、すぐに静寂を歓声が埋めていく。零一はよたつきながら立ち上がると、深く息を吸い込んで、意識して声を張り上げた。
「あのっ、ありがとうございました!」
夜空に木霊した己の声が、耳朶を打つ。頭を下げながら、零一は思う。〝常夜〟でこんなにも大きな声を出したのは、初めてだ。エイジが、声を投げ返してきた。
「あの子に感謝しろよぉ。ミキとヒロ以外にも一人、ラジオ局に救難信号を出してくれた奴のおかげで、命拾いしたんだからな。零一君たちの居場所がこの近辺だろうと当たりをつけられたのは、あの子が君を目撃してたからだぞ。そうじゃなきゃ、ヒロの救難信号は見つけられなかったからな」
「あっ、ボールを拾いに行かなきゃ!」
ヒロは立ち上がると、季節外れの夏服で、身軽に階段を下り始めた。「待て、危ないだろ。一人で行くな」と零一が呼びかけても、弾む足取りで去っていく。あんな大立ち回りを経験しても、もう怖がっていないことが救いだろうか。零一は追いかけようとしたが、ふと踏みとどまって、遠方のエイジに向き直る。
「エイジさんっ、〝あの子〟って、誰のことですか!」
「ああ、さっきまでここにいたんだがなぁ。ヒロを迎えに行ったんだろ」
「ヒロを……?」
「なんだ、やっぱりまだあの子のことを知らないのか」
エイジはがっしりとした手で顎をさすり、妙に誇らしげにニタリと笑った。
「君とヒロを除いた、もう一人の新人さ」




