1-2 記憶喪失の侵略者
「着いたよ。ここが、あたしの家」
チョコミントアイスに似た甘さと爽やかさを併せ持つ声が、零一を我に返らせた。
真っ暗な廊下の壁は罅割れが目立ち、コンクリートが派手に抉れている箇所もある。暗がりの先には非常階段を示した緑色のライトが点いていて、一見ゴーストマンション風の建物でも、まだ価値は死んでいないのだと判断できる。寝起きのように暈けた意識が、緩やかに覚醒した。ここに至るまでの道筋を、じわじわと思い出していく。
目の前には六○二号室と書かれたプレートがあり、『エリカ』と下の名前だけ丸っこい字で書かれている。開いたままの玄関扉の向こうから、小さな足音が聞こえていた。零一をここまで導いたエリカが、先に入ったばかりなのだろう。
「どうしたの? 早く入りなよ」
声だけが、部屋の中から飛んでくる。零一が尻込みしていると、足音がこちらに戻ってきて、少女が扉から顔を出した。アッシュグレーの長い髪が、華奢な手に握られた懐中電灯に照らされて、毛先のパープルをほんのりと桃色に輝かせる。華やかな少女が現れただけで、暗い廊下が気の所為か明るくなった。
「大丈夫? さっきから、ぼーっとしてない?」
「……頭が、痛むんだ」
「ああ、分かるよ。〝常夜〟に来たばかりの頃って、みんなそうなるみたいだから」
この家の主は、零一の顔を無遠慮に眺め回して、肩を竦めた。「酷い顔色。早く入って」と穏やかに言って、背中をぽんと叩いてくる。
そんなふうに、かつて自分に触れた誰かがいたはずだ。追憶の残滓すらも心から零れ落ちていくのを感じながら、諦念を怠惰に噛みしめる。
零一は本当に、何もかも忘れてしまったのだ。
*
雑多なビルの寄せ集めのような市街地に流れ着く以前のことを、零一はほとんど覚えていない。外壁が剥がれて鉄骨が剥き出しになった廃駅前の噴水跡地に、気づけば手ぶらで立っていた。今までどこでどういった生活を送っていたのかも全く分からず、己の年齢すら思い出せない。やや伸ばし気味の黒髪と、瘦せ型だが背は高い身体つき、シンプルな服装のセンスから、おそらく大学生ではないかと周囲の者たちは推測したので、きっとそうなのだろうと思っている。
唯一覚えていることは、零一という名前くらい。第一発見者のエリカを始めとした住人たちの親切がなければ、とっくに孤独死していただろう。
「住処を決めるまで、零一はソファで寝たらいいよ。あたしは隣の部屋で寝るから」
エリカの手引きで、零一は仮初の寝床を手に入れた。マンションの六階にある1LDKの一室は、ほとんど家具がなく殺風景で、零一と同年代の少女の住まいには見えなかった。天井からはチューリップ型のペンダントライトがぶら下がっていたが、エリカは照明を点けようとしない。代わりに、正面のバルコニーの手すりを透かせたカーテンを、当然のように全開にした。
青い月光が窓から拡がり、ソファとフローリングを照らし出す。夜目にもうっすらと窺えた室内の風景が、月明かりで鮮明に浮かび上がる。ローテーブルには一冊のノートが開いた状態で置いてあったが、零一が目を向けた途端にエリカはノートを回収して、左側にある寝室と思しき部屋へ行ってしまった。手持ち無沙汰になった零一が、月光を頼りに壁のスイッチを探していると、「点かないよ。電球が切れてるから」と部屋から出てきたエリカが言って、扉を後ろ手に閉ざした。
「交換したくても、〝常夜〟にはお店が足りないんだ。電球や蛍光灯は、切れちゃったらおしまい。こういう物を取り扱ってくれるお店が増えたら便利だけど、そのために〝常夜〟に移住して! とは言えないし。あたしたちにとっては複雑な問題なんだよね」
「……?」
謎めいた言葉だったが、訊き返すのも億劫なほどに、零一は疲れ果てていた。初対面の少女の部屋で二人きりという状況も、何となく落ち着かない。
所在なく窓際に突っ立っていると、台所に向かったエリカは、派手なロングヘアを機嫌よく背中で揺らして、戸棚から銀色のレトルトパウチを取り出した。
「辺りは廃墟が多いけど、この六〇二号室は電気も水道も使えるよ。他のマンションやビルにも、今は三十人くらいの住人が、あたしみたいに暮らしてる。無人のラジオ局で広々と寝てる住人もいるんだよ」
暗闇に沈む台所で、ふわりと青い炎が灯る。小さな鍋で水が沸騰していく泡の音は、歌手のライブのように賑やかで、頭の奥を刺激した。零一は、額に手を当てる。頭痛は、酷くなる一方だ。
「ここに流れ着いてくる人は、職業や特技、性格とかに見合ったものを〝こちら〟に連れてくるんだ。〝現実〟で輸入食品のお店で働いていたお姉さんが来たときは、廃駅の近くに新しいお店がオープンしたから、みんなからすごく歓迎されてたなぁ」
「……〝現実〟?」
「そう。この世界は、夢みたいなものなんだろうね」
エリカはレトルトパウチを二袋分、鍋の熱湯に放り込んだ。ジャグジーのような泡に翻弄された銀色が、窓から差す月光の青を照り返す。
満月だけが煌々と輝く〝常夜〟の空に、零一はまだ太陽が昇るところを見ていない。
「ここに来る人たちは、多かれ少なかれ記憶を失くしてる。今の君みたいにね。みんなに共通しているのは、〝現実〟でつらい経験をしたということ。そんな人たちが稀に迷い込んでしまうこの場所は、朝が来ない世界だから、みんなから〝常夜〟って呼ばれてるんだ。あ、座りなよ。疲れてるでしょ?」
〝現実〟で、つらい経験をした。荒唐無稽な話をされているのに、どこかで納得している自分がいた。ともあれ〝現実〟の自分とやらに会話をフォーカスされるのはなんだか嫌で、ソファに座った零一は、無難な話題を先に選ぶ。
「夢なのに、電気も水道も使えるんだな」
「便利でしょ? さっきの話の続きだけど、インフラ関係が壊滅していないことも、その道で働いていた人たちが〝常夜〟に流れ着いた結果かな。でも、この六〇二号室みたいに、電気と水道が使える家を探すのは、けっこう大変かもね。ボロボロの空き家が多すぎて、どれが当たりかなんて分からないもん。宝探し感覚で廃墟を当たって、見つかったらラッキーくらいの気持ちでいたほうがいいと思うよ」
「食事は、どうしてるんだ?」
「普段は数軒ある飲食店に通ったり、インスタント食品で凌いでるよ。生飲食店での職務経験がある人もたまに来るから、あたしたちも食うに困らないってわけ。鮮食品は手に入らないものも多いけど、何とかやっていけてるよ。住人が極端に少ないから、経済は破綻してるけどね」
「信じたくなくても……信じるしかないみたいだな」
説明を聞き終えた零一は、重い溜息を吐いた。
夜に閉ざされた世界に迷い込んだ人間たちが、生の象徴のような文明を〝現実〟から引き連れてきて、助け合いながら暮らしている。SF小説を朗読されている気分だが、零一にも記憶がない以上、鵜吞みにするしかないのだろう。そう投げやりに納得した自分は、〝現実〟でどんな経験をしたのだろう。きっと、ろくでもないに決まっている。
「あ、どうでもいいやって顔してる」
気づけば、エリカの顔が間近にあった。びっくりして仰け反った拍子に、ソファの隅に置いてあったラジオに腕がぶつかった。
「無関心でも別にいいけど、モンスターにだけは気をつけたほうがいいよ」
エリカは、ラジオを拾い上げて操作した。モッズコートを脱がない立ち姿を見ていると、室内の寒さを思い出す。〝夢〟に違いないはずなのに、空気から痛みを与えられる。そんな不思議さも相まって、なんだか少しどきりとした。
「モンスターは、この街に発生する黒い霧のこと。あの霧の中に居続けたら、身体を霧に取り込まれるから。この世界で身体を取られたら、もう二度と〝現実〟には帰れないよ。この界隈の人たちは、モンスターに襲われることを『喰われる』って表現してる」
「ふうん」
「それと、〝常夜〟で怪我をしたらしっかり痛いし、怪我の度合いによっては〝現実〟と同じで死ぬからね。夢だからって気が大きくなっても、廃ビルの屋上からバンジージャンプなんてしちゃだめだぞ」
「誰がするか」
「零一は、どこまでもリアクションが薄いね。生きる気ないでしょ?」
「ないかもな」
零一は束の間の動揺を鎮めると、ソファに背中を預けて嘯いた。
「生きることなんて、どうでもいい。だから、俺はここに来たんだろ?」
「そうかな」
挑戦的な声が返ってきた。ソファから見上げたエリカは勝気な笑みを浮かべていて、不遜な態度にかちんときた。頭に血が上った感覚が、なぜだか少し懐かしい。
「あたしたちの本当の身体は、今も〝現実〟で生きてるんだよ。きっと昏々《こんこん》と眠り続けて、大切な人たちを心配させてる」
エリカの声には、責めるような響きがあった。零一も、意地になって言い返す。
「俺よりも長い間、この〝常夜〟で寝てる奴に言われたくない」
「別に、ただ寝てるだけじゃないよ。この世界の住人がライフラインに影響を与えているように、あたしたちの存在だって、〝常夜〟に影響を与えてるんだから」
「じゃあ、エリカがここに来たことで、世界はどう変わったって言うんだ?」
言うや否や、鼻先にラジオを突きつけられた。零一は、鼻白む。
――ラジオからは、初めて聴くソフトロックが流れていた。シンセサイザーに乗せられた女性ボーカルの甘い声が、力強さと相反する懐かしい郷愁を運んでくる。つい聞き入る零一を見下ろしたエリカが、寂しげに笑った。
「音楽だよ。あたしが来たときから、音楽が失われたこの世界に、人間の歌声が蘇った。〝現実〟のあたしはきっと、音楽に命を捧げてたんだ」
軽い口ぶりとは裏腹に、その台詞は重かった。台所へ引き返していく後ろ姿を見ていると、ちくりと胸が微かに痛む。エリカを傷つけた気がした。けれどそんな気持ちを素直に言葉で伝えるには、おそらくはまだぎりぎり未成年だろう自分は子ども過ぎて、会話を繋ぐだけで精一杯だった。
「俺よりはマシって言いたいんだろ。……俺が〝常夜〟に来たところで、この世界には何の影響もないもんな」
ぼそりと呟くと、コンロの火を止めたエリカが、零一を振り返る。言葉が通じない宇宙人と、街のど真ん中で出くわしたような顔をしていた。
「なに言ってるの? 零一が来てから〝常夜〟はものすごく変わったよ。あんな現象、昨日までは一度も起こらなかったんだから」
「あんな現象? 俺が来たことで、世界はどう変わったって言うんだよ」
「ほら、こんなふうに」
ちょうどいいとばかりに、エリカは窓を指さした。
零一はソファに座ったまま、背後の窓を振り向き――絶句する。
真っ黒な夜空を、鮮烈なオレンジの流星群が疾走していた。波止場のナトリウム灯とよく似た橙色の閃光は、まるで大昔に参列した誰かの結婚式で見たライスシャワーのような盛大さで、〝常夜〟の市街地めがけて降り注いでいる。破砕音を伴う衝撃が、室内の床を微かに揺らした。
「あたし、隕石なんて初めて見た」
湯煎を終えたレトルトパウチを開けたエリカは、したり顔で笑った。場違いに優しいバターチキンカレーの匂いが、呆然とする零一を慰めるように、寒々しい空気を温める。
「零一は、この世界を終わらせる侵略者かもね」