1-1 零一とエリカ
年季が入ったラジオから、甘いボーカルの声が聞こえる。力強いシンセサイザーと淑やかなビートを刻むドラムの音が、マンションの一室を満たしていた。零一はソファから起き上がると、ラジオの音量を少し上げた。
ラジオ局にこの曲がリクエストされるときは、街に危機が迫ったときだ。
「モンスター?」
冷静な小声が聞こえて振り向くと、灯りが点かない部屋の台所で、小柄な人影がこちらを見ている。アッシュグレーの長い髪は、毛先がパープルに染められていて、モッズコートの上で月光を艶やかに弾いていた。背筋を伸ばした立ち姿に既視感を覚えたが、室内にいても上着を脱げないほどに冷えた空気が、刹那の感傷を忘れさせた。
「たぶんな」
零一は立ち上がると、窓に忍び足で近寄って、眼下に拡がる光景を見下ろした。
雑居ビルが林立する街並みは、あちこちが酸性雨に打たれたかのように腐食が進み、荒野のごとく廃れている。疎らに灯った電灯が、退廃に抗うレジスタンスのように鋭利な輝きを宿していて、そんな廃ビル群の一角を、雨雲と見紛う黒い瘴気が覆っていた。往来を逃げ惑う人間が、急いで手近な建物へ避難していく小さな姿を確認すると、零一の胸が痛んだ。
記憶喪失のくせに、こんな感情は鮮明に残っている。
「食われた人はいないみたいだ」
「そう、よかった」
奇抜な髪色をした同居人は、ローテーブルにカップラーメンを二つ置いた。安心した様子で鼻歌を歌いながら、薬缶の湯を注いでいる。零一は、戯れに訊いてみた。
「エリカは、モンスターを怖がらないな」
「まあね。もっと怖いことを知ってるから」
ソファに座ったエリカは、童顔によく似合う屈託のない笑みを浮かべた。
「見送りに備えて、元気を出さなきゃ。今日は〝星〟を探しに行く時間もないくらいに忙しくなりそうだし。食事しながら歌でも聞いていれば、怖いものなんて何もないよ」
そう言って歌を口ずさんだ声の甘さが、ラジオの歌声と重なった。
零一が〝常夜〟の世界に流れ着いてから、一か月が経とうとしている。