お饅頭
うんざりするような夏の暑さにやられながら渚零はエアコンのない6畳一間の部屋に横になっていた。
「あっついなーー。」
地獄の6連勤を終えて、エアコンのない部屋で扇風機を強にして身体に回していると、家のインターホンが高い音を立てて部屋の中に鳴り響いた。
「あ、きた!」
零は横になっていた態勢から勢いよく身体を起こし、モニターから返事を返す。
「宅配のお荷物をお届けに参りましたー!」
はつらつとした張りのある声で配達員のお兄さんが返事を返す。
零は急いで玄関に行き扉を開けると、配送のお兄さんとの会話もほどほどに受け取りのサインをして荷物を受け取った。
玄関の扉を閉めると零は急いで部屋の中に戻り机の上に届いた段ボールの箱を置く。
丁寧にカッターナイフで段ボールを密閉しているガムテープを切る。
段ボールの中から和紙で包装された四角形の箱が現れる。
「はやくはやく!」
箱を取り出し裏を向け、セロハンテープを爪で剥がし包みを解くと、優しい香りのする木箱が中から現れる。
うだるような夏の暑さによって零の顔からは汗がこぼれる。
しかし今の零にとって重要なのは暑さではなくこの箱だ。
零は生唾をごくりと飲みこみ木箱の蓋を開ける。
そこには真っ白なお饅頭が10個並んでいた。
「むはぁー!!」
箱の中の饅頭には饅頭が痛まないための厚めのカバーがかかっていたので零はその袋の端をつまんで丁寧に縦に裂く。
その瞬間零の鼻腔に甘い匂いは漂ってくる。
「はああああーーこの時を待ってましたーーーー!!」
毎朝満員電車に揺られ、うだるような暑さの中を歩き、上司には怒られ、ただただ気絶するように薄い布団にダイブする。
そんな日々を終えた今日、自分へのご褒美にとネット通販で注文していた今村の饅頭。
厳しいグルメ達が集まりお店を評価しあう『グル旅』でも星4.8を記録している幻の饅頭が今、目の前に。
零はゆっくりと左手の人差し指を伸ばし、むき出しになっている今村の饅頭の表面にタッチする。
「あっふん♡」
なんというやわらかさだ。マシュマロなんて言うもんじゃない。
おっぱいだ。これはもうおっぱいだ。Jカップのおっぱい。
「じぇっぱいだ…。」
零は舞妓さんの肌よりも白い饅頭を一つ摘み上げると、両の手でしっかりと饅頭を支え自分の口に饅頭を運んだ。
『お母さーん!見て見て四葉のクローバー!』
『あらほんと』
『お母さんにあげる!』
『え?いいの?』
『うん!お母さんに幸せになってもらいたいから!』
『ふふふ、零ちゃんったら。』
「ふふふ、ふふふ、ふふ、ふへ…はっ!しまった!あまりのおいしさに人生で一番幸せだった瞬間がフラッシュバックしてしまった!」
恐ろしい。今村の饅頭、恐ろしい。
「それにしても。」
なんといううまさだ。お饅頭評論家のこの俺をもってしてもここまでおいしいお饅頭に出会ったことはない。
「饒舌に尽くしがたい。」
零はその後も今村のお饅頭を2個3個と食べてしまった。
「しまった。あまりにおいしすぎてもう4個も食べてしまった。」
零は余った6個のお饅頭を見つめながらあることを思い出していた。
それは今から15年ほど前の話。
零の両親は共働きだったため、零はよく祖父母の家に預けられていた。
祖母は礼儀作法に厳しく、あまりお菓子など食べさせてはくれなかった。
夕食時もテレビなどはつけずいつも静かに食卓を囲んでご飯を食べていた。
零はそんな暮らしに少しばかり窮屈な思いを感じていた。
祖父母の家の周りには友達と呼べるような子達はいなかった。
どこにいくにもまだ幼かった自分は仕方なし家の中で本を読んでいることが多かった。
そんな零にいつも優しくしてくれたのが祖父だった。
祖父は口数の多い方ではなかったが、よく零のことを散歩に誘ってくれた。
零は散歩の最中に祖父と話すことは少なかったが、不思議と祖父と二人でいる時間は苦じゃなかった。
むしろ、唯一安心できる時間だったかもしれない。
ある日祖父は零のことを散歩に誘い、零もいつも通りその誘いを受けた。
祖父はいつもとは少し違う散歩道を通って一軒の和菓子屋に立ち寄った。
祖父はその和菓子屋でこしあんのお饅頭を二つとお茶を2本買って零と二人で半分こした。
パキキと音を立ててペットボトルの蓋が外れると零はペットボトルの口に自分の唇をしっかり当てて、買ってもらったばかりのお茶を胃の中に流し込んだ。
それを見ていた祖父は「暑いな。」と一言言って零の顔を見ていた。
零はうなづいて、祖父もうなづいた。
二人は公園を見つけると中に入りベンチに座った。
その時はたまたま公園に誰もおらず、零と祖父の二人きりだった。
太陽の日差しが公園の地面を焼き、道路のアスファルトを焼いていた。
祖父はレジ袋からお饅頭を取り出して零に一つ差し出した。
零はそれを受け取ると丁寧に袋を外し、お饅頭を手に持った。
祖父も同じようにお饅頭の袋を外し、お饅頭を片手で握っていた。
二人はそれから一言も口を利かずにお饅頭を食べた。
思えばあの日から零にとってお饅頭は特別なものになったもののように思う。
別に、あの日食べたお饅頭がひどくおいしかったわけではない。
ただなんとなく忘れられないのだ。
あの日祖父と二人でうんざりするような夏の空の下散歩をして、祖父が立ち寄った和菓子屋でお饅頭を買い、それを公園で二人で食べたことを。
散歩からの帰り道、祖父は零に「おいしかったな。」と言って、零は無言でうなづいた。
その時のことを今、六畳一間のアパートで、一人テーブルの上の饅頭を見ながら思い出していた。
「あの日から、饅頭好きになったんだよな。」
祖父はその2年後に亡くなった。
もともと患っていた病気が悪化して、病院のベッドで息を引き取った。
零は祖父の死に目に立ち合いうことはできなかったが、祖父が亡くなったのを聞いたときは、全身の血が逆流したような気がしたのを覚えている。
「今年は、帰るか。」
8月が始まって日が浅い今日から数えて、数日も経てばお盆になる。
今年のお盆は実家に帰って。祖父の仏壇にでも手を合わせよう。
零は残ったお饅頭を木箱にしまうと、痛まないように箱を冷蔵庫の中にしまい、その日一日をのんびりと過ごした。
※
翌日になると零はいつものようにスーツを着て家を出た。
満員電車に揺られ、うだるような暑さの中取引先の人に愛想笑いを浮かべ、上司に叱られ、家に帰り横になる。
「そうだ。饅頭食べよう。」
零は冷蔵庫から饅頭を一つ取り出し、口に運ぶ。
「沁みるー!仕事終わりの饅頭沁みるー!!」
あくる日も零は仕事に向かい、疲れ切って家に帰り、饅頭を一つ食べ眠りについた。
そんな日々を4日繰り返し仕事終わりに冷蔵庫を開けると、木箱の中の饅頭は残り2個まで減っていた。
「寂しいもんだな。残り2個か。」
零は惜しみながらも残り2個まで減った饅頭の一つを持ち上げ口にほおばる。
口の中に広がるほど良い甘さが仕事に疲れた零の心を回復していく。
そのあまりのおいしさに零は最後の一個の饅頭にもつい手が伸びてしまう。
「いかんいかん。」
しかし零は最後の一個を掴む寸前でその手を静止した。
「明日で連勤も終わりだし、そのタイミングで食べよう。きっとその方が100倍おいしいぞ。」
そう言って零は一人お風呂に入りシャワーを浴びると歯磨きをしてさっさと寝てしまった
「何度間違えれば覚えられるんだお前は!!」
社内にひときわ響くその声は零の職場の上司水上の声だった。
「すみません。」
「すみませんじゃねえんだよ!何度も何度も同じミスしやがって!仕事できねえなら帰れ!!お前ひとりのせいで何人の人に迷惑がかかると思ってんだ!!」
「すみません。気を付けます。」
「失せろバカ。」
零は水上の元を離れ自分のデスクに座る。
「大丈夫?」
零の隣のデスクから同期の佐川が心配して顔を覗かせる。
「水上上司、なんか渚に対して当たり強くない?感じ悪。」
零は佐川に大丈夫と一言告げると自分の仕事に集中した。
しかし零とて内心穏やかでないのも確かだ。
零は確かに昨日水上に頼まれた仕事を丁寧にこなし、今朝提出した。ミスのないよう先輩の立川さんにもチェックをしてもらった。
にもかかわらずミスをしていると。
零はため息をつき仕事を再開した。
結局その日零はミスの修正や山のようにある仕事のせいで定時に上がることができず残業をすることになった。
本来なら18時には上がれたはずだが実際に零が仕事を上がった時刻は23時を回っていた。
帰宅に使う電車の車内は依然混んでいて、それもまた零の神経をいらだたせた。
家に帰宅するとすぐに零は薄い布団に倒れ込んだ。
「とびきりだ。今日は飛び切り疲れた。」
零はしばらく布団から立ち上がれずにそのままの態勢でうつぶせに倒れ込んでいた。
もういっそ今日はこのまま眠ってしまおうかと思った時、頭の中に饅頭のことが思い浮かぶ。
「そうだ!今日のために昨日我慢したんだった!」
零は勢いよく立ち上がり冷蔵庫に向かうと、冷蔵庫のドアを開け中から木箱を取り出す。
零は木箱をもって自分の部屋に戻るとテーブルの上に木箱を置いて蓋を外した。
「……あれ?」
饅頭がない。
「昨日食べ切った…?」
いや、昨日零は一つ饅頭を残していた。
それは確かに記憶している。
ならばなぜ突然楽しみにとっておいた饅頭の最後の一個が無くなったのだろう。
考えられる可能性としては、昨日零が寝ぼけて最後の一個を冷蔵庫から取り出して食べたという可能性だが。
「ないだろ。これは。」
零は昨日仕事に疲れ熟睡して今朝まで目覚めなかった。
もう一つ可能性があるとすれば。
「泥棒?!」
零は部屋の中をぐるりと見渡す。
しかし物は何一つ乱れていないし、窓も割れていない。仕事に行く時に間違いなく戸締りはしたし、帰ってきたときも確かに鍵で玄関のロックを外した。
わざわざ泥棒に入った人間がカギを閉めなおして出ていったとは考えられない。
「なんか、よくわかんないな。」
零は一人部屋の中で頭をひねり立ち上がった。
「考えても仕方ないし。諦めよう。」
零はお風呂でシャワーを浴び歯磨きをすると布団に横になった。
「あ、そうだ。」
今更だが母親に明日実家に帰ることを報告しておかなきゃならない。
あまりに仕事が忙しかったのでこんな当たり前のことも忘れてしまっていた。
「明日、帰ります。」
スマホからメッセージを送るとほどなくして返信が届いた。
『かしこ』
「……かしこまりましたをかしこって略すのも気に入らないし、息子にかしこまりましたって返信するのも気に入らない。」
零は布団に横になりながら一人呟いて眠りについた。
新幹線をおりるとなじみ深い気持ちのいい空気が胸いっぱいに入り込んでくる。
「やっぱり地元だな。」
零は深く深呼吸をして歩き出すと駅から出ている市バスに乗って実家の近くまでバスに揺られていく。
車内の人数は少なくまばらで、都会の満員電車と違ってとてもゆったりと時間を過ごすことができる。
窓から見える景色のどれもが懐かしく、零の脳裏にたくさんの思い出が浮かび上がってくる。
「あそこ、じいちゃんと散歩したな。」
零はバスから降りると寄り道もせずに実家に向かって歩き出した。
前から歩いてくる女性とすれ違う。
「なぎ…?」
零は後ろを振り返る。
「やっぱりなぎだ!帰ってきたの?」
女性はブロンズの髪を後ろで一つに結んでいて白いТシャツにベージュのチノパンを履いていた。
THE普通。
「俺の知り合い?」
零は遠慮することなく女性に問いかけた。
女性は大きな目をぱちくりさせながら零のことを見た。
「わかんない?」
「わかんないよ。」
女性はうーんと考え込む仕草をすると何か思いついたように声を出し口を開いた。
「顔面バスケットボール。」
「みなみか。」
「当たり!」
みなみはVサインを零に突き出すと誇らしげに胸を逸らせた。
「ふふん。久しぶりに再会したみなみちゃんに何か言うことはないわけ?」
「またな。」
「違うなあ!」
しばらくの間零はみなみとその場で楽しく会話を交わした。
みなみは地元の専門を出て今は看護婦として働いているそうだ。
毎日仕事に追われて大変だろうに、とても明るく笑っている。
「なぎはお盆の間こっちにいるの?」
「その予定だよ。」
「じゃあさ!どっか遊びに行こうよ!はまやんとかこいちゃんも誘ってさ。」
零が頷くとみなみはよっしゃあ!とガッツポーズをした。
「約束だからね!」
「あいよ。」
零はそこでみなみと別れ実家に向けて歩き出した。
坂道を超えて信号を渡り、しばらく歩くと実家に着いた。
インターホンを押すとすぐに母の声がして玄関の扉があけられた。
「思っとったより早かったね。」
母が零にそういうと零は適当に返事を返して家の中に上がった。
「みなみに会ったよ。」
零がそういうと母は嬉しそうに「よかったね。」と言った。
「帰ってきてる間に一回遊びに行くかもしれん。」
「ボーリングにするのがいいわ。」
母は答えながら自分の分のお茶と零の分のお茶2つをテーブルにおいた。
零は出されたお茶を一口飲む。
「家のお茶ってやっぱコンビニと違うね。」
「そう?」
「うん。一番身体にあってる感じがする。」
「ふーん。」
母は不思議そうに生返事をして自分のお茶を飲んだ。
零はとても落ち着いた心持ちでテーブルに座っていた。
「そういえばみなみちゃん旦那さんと離婚したってね。」
「え、そうなん?」
「やっぱり看護婦さんで毎日忙しいもんで気持ちのすれ違いがあったんだと。」
「ふーん。俺は結婚してたことも知らんかったけど。」
「あれ、言ってなかった?」
「いいよ、今聞いたから。」
みなみ、結婚してたのか。
「いろいろ変わっていくもんだな。」
「そりゃ変わるよ。」
「変わらないものが一つでもあればいいのにな。」
零の言葉を聞いた母は口をぽかんと開けると急に高笑いした。
「あんた何かっこつけたこと言っとんの!お母さんのこと笑わせんといてよ!はっはっはっは!」
零は苦笑いして「うるせえ。」と言うと恥ずかしくなって椅子から立ち上がった。
「ちょっと散歩してくるわ。久しぶりに帰ってきたし。」
母はお茶を一口飲むと零に言った。
「おじいちゃんの仏壇にだけ手合わせていきなさいな。せっかくお盆で帰ってきたんやから。」
零は頷いてリビングの隣の部屋にある和室に入った。
和室には祖父の仏壇がある。
零が仏壇の前に正座して座ると、大好きだった祖父の遺影と零の目が合う。
「ただいまじいちゃん。」
零は微笑み仏壇で手を合わせる。
祖父に心の中で近況を報告し終えた零は目を開き立ち上がる。
するとふいに仏壇の前においてあるお供え物に目が吸い込まれた。
「あれ?」
饅頭だった。
今村の饅頭だった。
零は遺影の中の祖父の顔を見つめる。
母が和室に入ってくる。
「なにー、お供え物わざわざ持ってきたん!偉くなったもんやねえあんた!おじいちゃんも喜ぶわ。」
零は祖父の遺影から視線を外し母の顔を見る。
母は零の顔を見てきょとんとする。
「どうしたの?」
「いや?じいちゃん饅頭好きだったんだなって。」
「そら孫に持ってきてもらえたらなんだって嬉しいわさ。」
母はそういうと和室から出ていって家の家事に取り掛かった。
零は改めて祖父の遺影を眺めた。
「じいちゃん。最後の一個だったんだよ?それ。」
零は仏壇に供えてある今村の饅頭を一つ掴むと、手の中で半分に割って、片方をお供えに戻した。
「半分こな、じいちゃん。」
今年も暑い。