第4話 アゲハチョウ【1】2018/12/8
アゲハにとって、全ての昆虫少女にとって、プレイヤーに嫌われることがどれほど残酷な意味を持つのかを、彼は知らなかったのだろう。
だから私がデータの世界に戻って一人沈みこんでいることも、きっと気付かないはずだ。
「アゲハ、雨木所長に何を言われたの?」
「ムラ姉、ノックぐらいしてよ」
「ごめんなさい。オオカマキリさんからあなたがここに閉じこもっていると聞いて、今は他の方が所長を説得に行っているわ」
「そう、でも無駄だと思うよ」
「そんなことないわ。あの方も急に私達が押しかけて来て混乱しているのよ、もう少し時が必要なだけで」
目の前で微笑みかけるこの人は、オオムラサキ姉さん。ここ「公害獣対策研究所」に配属されたのはアゲハの方が先だけど、彼女の強さと優しさに敬意を払ってムラ姉と呼んでいる。特に昆虫少女間で血の繋がりはないけれど、蝶類同士の深い絆を感じている。
「ねえムラ姉、今から話すこと、内緒にしてくれる?」
「アゲハがそう望むならそうするわ。私はいつだってあなたの味方よ」
「……本当? アゲハ、もうこれ以上耐えられそうにない! アマギンがログインしなくなって一か月、羽をもがれたような日々だった。それはここの全員が同じ気持ちで、研究所が壊れそうになって、でも向こうの世界と繋がって希望が見えたはずなのに……」
「落ち着いて、落ち着くの。そうよ希望を今掴みかけているの。雨木所長は引退を口にしているけど、私達次第で未来は良い方向に転ぶわ」
「無理だよ」
「無理じゃない! だってずっと、あの方と私達で苦楽を共にしてきたのだもの。所長が今まで新規キャラを取り逃した事があった? イベントを放棄したことがあった? 誰よりも私達を愛してくれていたわ!」
「わかってるよ、わかっているけど、でも、あの人こう言ったの。私達を嫌いだって」
「…………それが本心かは、ここでは確かめようがないわ。仮に嫌いになったからといって、こちらの大筋は変わらない、そうでしょう?」
「だって、もうアマギンにはログインする理由がないんだよ。ゲームを離れるのにも理由は色々ある、けどさ、キャラを愛してくれなくなったら、それってもう最後通牒じゃん」
「あなたらしくないわ。確かにその通りだけれども、所長を復帰させるという大筋は変わらないの。気付かないかしら、ちょっと手段が過激になるだけよ?」
「……どうするの?」
「この件は持ち帰って上の方に報告します、対応はそこで考えるわ」
「内緒にしとくって言ったじゃん!」
「ごめんなさい、でも黙っておける話じゃないのはわかるでしょう。全員のこれからを左右する話なの、あなたにも一緒に来てもらうわ」
「ムラ姉の嘘つき、アゲハが黙ってて欲しかったのは、聞いたらきっと傷つく娘がいるからで」
「聞かせるのは数人に留めるわ、それで許してね」
研究所の長い廊下を2人で歩きながら考えた、確かにいざとなったら、強硬手段に出るのも仕方ないのかもしれない。ムラ姉の言う通りだ。アゲハは、いや他の娘も勿論そうだが、このままゲーム内の時が止まり続ける事をよしとする者はいないだろう。
戦いを好む者、嫌う者、仲間のために戦う者、給料目当ての者、昆虫少女の思考は様々だ。
ただアゲハ達に一つだけ共通する意思がある。それはゲームがリリースされた時から、どのキャラにも変わらず植え付けられたもの。或いは、不変のキャッチコピーとしてプロデューサーとライター間を通して守られてきたものだろうか。
「地球が涙を流す時、昆虫少女は飛翔する」
このキャッチコピーが指し示す先は、一つの使命。昆虫少女は地球を守るために戦う。胸の奥底に眠るその使命を果たせなくなった時、つまりプレイヤーの操作がなくなり敵と永続的に交えなくなった際、使命感は行き場を失い暴走を始める。
その厄介な感情が、この一か月間と一週間、そしてこの先待ち受ける困難の全ての元凶であることは、疑いようがないことだろう。
「ねえ、ムラ姉、アゲハたち、これからどこに向かうのかな」
「よく知っている場所よ、元いた場所に戻るだけなの」
でも後ろを見たら真っ暗闇だ、夜行性なら見えるのかな。