惨劇ノ夜
*ホラー要素あり。
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デポトワールから六〇里離れた場所に位置する南西部の町は、篝火の仄暗い光を頼りとしていた。
四方にしておよそ二〇と数里。南部には鬱蒼とした森が広がる。
獣が出るということで、夜間は立ち入りが禁じられている場所だ。
夜の気配が大気を支配し、漠然と不安に駆られるような風景である。郊外に近いとは言え、不気味以外の何物でもない。
そんな中、一人の年若い女性が町中を息せき切って駆けていく。
顔には汗が浮かび、時折背後を気にかけながら必死で足を運んでいる。着衣が乱れるのも頓着していないかのようで、鬼気迫る表情だ。
ふと、耳を聾する咆哮が響いた。
高音域のそれは、狼の類だろうか。深夜と言うこともあってか、何処か澄みわたっているようですらある。
「──ひっ!?」
女はやっとのことで声をあげる。極端なまでに上擦ったそれは、恐怖と憔悴によるものだろう。
彼女は、狩人が何かに貪り喰われている現場を遠目から見ていたのだ。しかもそいつは人形で、二本足だった。
それだけではない。人には似つかわしくない、針のように長い体毛を全身にたくわえており、口吻も随分と長かったように映った。月明かりに照らされた輪郭と、闇夜に響く、喰われ行く人の断末魔の生々しさに、彼女は吐き気に見舞われた。人跡未踏の地なら諦めも付こうが、生活圏のすぐそばである。その上、森の中ならまだしも、よりによって町はずれで起こったことなのだ。全身が総毛立つというのも無理はない。
幸い、ソレに見付かることはなかったものの、彼女はそれ以来酷く怯えてしまっていた。安宿に移って眠る日々を余儀なくされ、そこに移動するにも全力でなければ恐ろしくて堪らなかった。
人智を越えた、常識外の存在に萎縮していると言い換えても良いのかも知れない。得体が知れないのだから尚更だ。反響して出所の分からない声であるだけだというのに、彼女の思考は纏まらず、より一層混乱するばかりであった。
「お、どうしたどうした! そんなに急いで、何を慌てているんだい、お嬢さん!?」
「おい、みろよ。この顔、真っ青だ」
少し走ると自警団とおぼしい二人と出会い、ようやく足が止まる。
最初こそ要領を得ない話であったが、落ち着いた男達の対応に女には幾ばくかの平静さが戻った。
酔っ払いの戯言だと笑っていた彼らも、彼女のただならぬ様子に、目を細める。勿論、お伽噺でもあるまいに怪物など、とは考えただろう。間抜けな猟師が、詰めを誤って喰い殺されたのだろうか、と。そこで思い描くのは人の味を覚えた獣の存在である。それらは、一度味を占めると幾度もやって来る。放置しておけばことは大きくなるだろう。
二人の間で視線が交錯する。
──警戒に当たろう。
意見は一致していた。そこは長い付き合いだ、概ねのことは気配でわかる。考えられるのは、彼女の気の動転から来る錯覚だろう。そう思うのが自然だ。
「よし来た、追加の仕事だ」
「なに、気にしなさんな。俺らも、たまには夜店で喰い漁る以外にも出張ることが無くちゃ。毎度毎度、見回りばかりしてると身体がなまっていけねえ」
余計なことを言うなと、食い意地がはった方を小突けば笑いが起こる。気のせいに見えるかも知れないが、女の顔には安堵が見て取れた。
「では、お気をつけて」
彼女はそう告げると、ゆっくりと歩いて行った。
宿に入るまで確認した後、小走りで説明した場所へ向かうと近くには端切れ屋があった。夜目で通して見ても分かるほどにくたびれ、人の気配が無かった。年季が入っていると言うよりも、手入れひとつされていないようだった。数本の蔦がのたくっていることも、その印象を強めている。
普段荘厳な空気を纏わせている教会も、今ではその鳴りを潜め、言い知れぬ不安を掻き立てる姿で屹立していた。この付近には人気がないことも一因だろう。
──咆哮が響く。
近いな、と暢気に構えていた彼らは、直後、身を強張らせる。
音の発生源は、上──教会の鐘楼付近だ。順当に考えれば、獣がそのようなところへ居るはずもない。遠吠えはしかし、そこに何かが居ると言う事実を何よりも雄弁に物語っていた。
抜剣して即座に逡巡。視界の端にそれを捉えるが、影でしかない。
──迅い!
風のような速さで駆けるそれに、二人は驚愕させられた。
そして、影は彼らの間をすり抜ける。呆気に取られた男が構えたまま後ろを振り向く。
だが、彼はそこで後悔することとなる。
月が、雲の切れ間から姿を現す。青い燐光が仄暗く周囲を照らし、それの姿を暴いた──暴いてしまった。
全身は硬質な黒い体毛に覆われ、節くれ立った両足で大地を踏みしめていた。人形でありながら、口吻は前に突き出しており、獣臭を伴う。狼を人の形に無理やり押し込めたような姿である。特徴的な外見に加えて巨躯であり、軽い目算でも九尺近くあるだろうと思われた。腕回り、足回りも太ましく、筋骨隆々である。
彼が恐怖を感じたのは、それ自体と言うよりも、それがくわえているものに起因する。
ぴちゃり、とした水音が彼の意識を現実へと引き戻す。
それは、あろうことか相棒ののど笛に犬歯を突き立てていた。正体不明の怪物が、つい先程まで立っていた男を捉え、瞬く間に致命傷を与えているのだ。ただただ理解不能でしかない。
湿った断末魔がこの場に在って、浮いていた。所在無さげに宙を彷徨う手先と、石畳の上をじわりと流れる血液が、いや応なしにそれを認識させようと迫るようだ。
そいつは慈悲の心を見せる素振りもなく。また、一欠片の容赦すらも持ち合わせていないのか、獲物の頸骨を噛み砕いた。
そして、それがさも当然であるかのように──彼に、食らい付いた。
「うああああああ!」
──瞬間、彼の理性は吹き飛んだ。
不意討ちに声はご法度であることも、アレの方が数段格上だと言うことも判断出来ずにいた。
恐怖に抗する手段は、敵の排除。それ以外に思い浮かばなかったのだ。
生命の危機を感じてか、彼の踏み込みは鋭く速い。技も術理もない振り下ろしは、彼が今まで振るったどの一撃より重かった。
──が、何かに阻まれて、その体表すら傷付けるに至らなかった。
「……なにっ!?」
剣を受け止めているものを確認して、目を剥く。
それは、怪物の腕である。
正確には、その手先から生えた爪と鍔競り合っているのだ。硬度も高くないはずの獣の爪と、鍛造された剣とが拮抗──否、押し返されつつあるというのは異常でしかない。
しかも怪物は、獲物に注視している。反射的な行動ではあるが、その正確さと無造作ぶりに閉口するしかなかった。
即座に気合いと共に腕の打撃を逸らし、一矢報いようとした。
しかし獲物から口を離していたそれは、もう片方の腕で薙ぎ払った。
予備動作が大きく、幸いにも避けることが叶う。紙一重で擦過した爪が、腕の皮一枚を切り裂いた。続く振り上げの風切り音に、肝を冷やしながら受けに回る。
無粋な男を追い払おうとしているのか、動き自体に精彩はない。全力ではないのだろうか。男は余裕のない思考で、戦術を見出だそうとしていた。
──受け止めて、動きが止まったところを畳み掛ける!
次の瞬間、それが悪手であると思い知らされることとなる。
続く薙ぎ払いを思わず真っ向から受け止め、予想以上の衝撃に悲鳴が漏れる。まるで大木か何かで殴り付けられたかのような膂力に、剣が真っ二つとなってしまった。更に、五間程吹き飛ばされ、塀にぶつかりようやく静止した。束の間、意識が刈り取られ、暗転した。
だが彼が目を覚ました時、声に詰まってしまう。
怪物は、彼を組み敷く形を取っていたからだ。見上げるその姿は、まさに獲物を喰らう肉食獣のそれだ。
相棒を見やれば、無惨に食い散らかされ、骨までしゃぶり尽くされているらしい。辺りには、赤や白など様々な──彼だったものが散乱していた。
考えるまでもない。次は自分だ。腐臭に満ちたその口で肉を喰い千切られるのは想像に容易い。逃げ道なぞとうに塞がれたも同然なのだから。
──生きたまま喰われる。
生理的な嫌悪と恐怖に、気が狂いそうになった。
叫べど奴は止まらないだろう。それは予感ではない。もはや確信に近かった。
──怪物が、大口を開ける。黄ばんだ乱杭歯が見えた。
「や、やめてくれ……」
意味のない命乞いと分かっていて、止められなかった。抵抗を試みた時、剣は既に手元から離れていたからである。
下肢の自由は効かない。動かすだけで激痛が走るのだから、恐らく折れているのだろう。
──ずぶ、と牙が肉を裂いた。
「ぐわぁー!」
まずは腹から頂こうという魂胆らしかった。
噴き出す血の味が怪物の嗜虐心に火を着けたのか、轟と吠え、狂ったように喰い漁る。
それと反比例するように、激しかった彼の叫びが弱っていった。そこに斬りかかった際の覇気もない。ただ喰われていく哀れな獲物である。
夜の町に、怪物の野太い声と自警団の痛切な悲鳴が響く。
抵抗していた腕が、やがて力なく地面へずり落ちた。
──遠吠えが、鬨の声のごとく冴える。
それを耳にしながら、女は一人安宿の片隅で恐怖と罪悪感に打ち震えていた。
因みに、ライカンスロープの本当の由来はご存知ですか?
正解は、この章の完結後で(笑)