第93話 ニャルラトテップへの供物
夜、ダイラス=リーン倉庫街。常に黒コートの警備兵が巡回し、侵入者に目を光らせている。
詰め所となっている小屋で二人の警備兵がそれぞれ椅子に座り雑談をしている。
「なぁ、放送局の火事といい。なんで戌の奴は隠れおおせていられるんだ?」
「奴が出没してから犬狩りを行っているが……。捕まるのは野良犬だけ。
不気味な話だ。それに神隠しも増えている」
「そんなのここじゃ普通だろ」
「ガキや女ならな。しかし、それは奴隷市で見つけられる。
傭兵や売人なら死体になって見つかる。見せしめとしてな。
だが、ここ最近に消えた傭兵や売人は死体がでてこない」
「……」
ドンドン
誰かが外から木の扉を叩いた。
「誰だ、こんな時間に」
警備兵の一人が立ち上がり扉を開けた。
「誰もいない。ちっ、俺たちにいたずらするとはいい度胸だ。
見つけてぶちのめしてやる」
そして、外へ出た。
相方は詰め所に一人残り待つ。
「げふっ!」
外から大きなげっぷのような音が響いた。
強風がふいたかのように小屋がゆれ、壁に掛けられた鉄の拷問器具ががちゃがちゃ音をたてる。
残った男は、驚いて目を見開き、扉を凝視した。
「どうした? 何かあったのか」
小声で仲間に呼びかけるが、返事は無い。
ドンドン
再び扉が叩かれる。
残された警備兵は椅子から立ち、鉄の警棒を握り締める。
ダンッ! ダンッ! ダンッ!
小屋が大きく揺れて、壁の拷問具が次々に床に落ちて金属音を反響させる。
「だ、誰だ! 姿を見せろ!!」
警備兵は警棒を振り上げて扉を凝視する。
が、返事は無く静まり返っている。
「……」
息を殺す。
耳をすませても聞こえるのは自分の心音だけ。
こんっ こんっ
今度は小さなノックの音。何も揺れない。
彼の鼓動に比べてはるかいに小さいその音。
「……誰だっ」
すると扉の向こうから若い女の声がする。
「ごめんください、旅の者です。
暗い夜道で迷ってしまいました。
ここは人買いがいる恐ろしい所です。
どうかここに一晩かくまってください」
警備兵は警戒する。
「ここは宿屋じゃない。よそへ行け」
「そんな冷たいことをおっしゃらないでください。
このままではさらわれて慰み者にされてしまいます。
どうか開けてください」
「……」
無言を貫く。古今、この手の扉を開けて無事で済んだためし無し。
しばらくすると外から話し声がする。
例の女の声。
「あぁ、あなた様はここの方ですか?」
「そうだが」
その声は紛れも無く、外に出て行って戻らない仲間のものだった。
「お助け下さい。この街は女が一人歩きするには恐ろしい所です」
「わかった」
そして扉が叩かれる。
「おい、俺だ。開けろ」
小屋に一人の警備兵は、聞きなれた仲間の声に安堵する。
「無事だったのか!」
「馬鹿、当たり前だろ。ちょっと辺りを見てただけだ。怪しい奴なんていなかった。
なんだ怖かったのか?」
「そんなわけないだろ」
「なら、さっさと扉を開けてくれ。で、こちらのお嬢さんをかくまってやろう。
なかなかの美人だぞ」
「そ、そうか。大丈夫なんだな。わかった」
警備兵は安心して、扉を開けてしまった。
暗闇の中に仲間の顔だけだ浮かんでいる。
透明の粘液でぬらぬら濡れている。目に精気は無く、半開きの口からひゅうひゅう生暖かい空気が漏れている。
その空気が笛のように声を奏でるのだ。外に出た警備兵は既に死んでいた。
助けを求めた女の声が言う。
「開けてくれないので、お前の仲間の死体を笛にして呼びかけた」
ちゅるんと音がして死体の頭は消えた。そしてそれよりも何倍も大きい白犬の頭が現れた。
そして、犬は大きく口を開けた。ワニの口よりも裂けて、無数の牙が飛び出す。
桃太郎家来の戌。その牙で無数の悪党を引き裂き喰らってきた。
生き残った警備兵は悟った。なぜダイラス=リーンに潜伏した戌が見つからなかったのか。
目撃者は血一滴、髪の毛一本残さず、戌に食べられていた。
戌は警備室に保管されていた鍵束を口にくわえた。
「……さて、ニャルラトテップの宝物を見せてもらおうか」
戌はこの倉庫街に来るまでに、ニャルラトテップに仕える宝石商たちから情報を引き出していた。
情報が正しければ、ニャルラトテップへの献上品である財宝と奴隷に辿り付ける。その品物を台無しにしてしまえば街の面子を潰し、ニャルラトテップに恥をかかせることができる。
玄武岩を積み重ねて造られた巨大な倉庫。出入り用の扉の鍵を開けて侵入する。
一本の燭台に小さな蝋燭が立てられていた。小さな炎だったがそれで十分役割を果たしていた。
金銀宝石で作られた数々の調度品に彫刻、箱から溢れんばかりの金貨。それらが蝋燭の光を反射して昼間と変らぬ明るさを保っていた。
しかし、戌は別の物に興味を引かれていた。
彼女の鼻がこの倉庫に自分やダイラス=リーン市民とは別の誰かがいることを告げていた。
「ニャルラトテップ垂涎の奴隷。いったい何者か……」
奴隷の詳細については、宝石商たちも知らず聞き出すことはできなかった。
臭いの強いほうへと歩く。宝物庫には似つかわしくない牢屋。緑色のすだれに覆われて中は見えないが確かに誰かが閉じ込められている。
戌は牢屋に向かって声をかける。
「もし、閉じ込められている方。そのすだれを開けてください」
すだれの奥から女性の声がする。
「誰です? ニャルラトテップの手下ではないようですが」
「私は桃太郎の第一の家来で戌と申します」
「なに? あなたの噂は聞いています」
女性はすだれを開けて姿を見せた。戌はその容姿から道教神族の仙女と気付く。しかし、その顔には神々しさというよりは鬼神のような威圧感があった。
長い間、牢屋に入れられていたせいか少しやつれているが美しい女神ではある。
「私は羅刹天、ここより南の普陀山を目指しているところをニャルラトテップの手勢に捕まってしまったのです。
このままではニャルラトテップの奴隷にされてどんな酷い目に合わされるかわかりません。ここから出してください」
「もちろんですとも。そのためにここに来たのです」
戌は牢屋の錠を噛み壊して羅刹天を解放した。
すると羅刹天は逃げようともせず宝の山を探り始めた。
「何をしているのです。ここの宝を持ち逃げする余裕はありません。焼き払います」
戌が注意しても、羅刹天は宝あさりをやめない。
「きっとここに私の宝もあるのです。そもそも、あなた。どうやってこの倉庫を焼き払うのです」
「ここ照らしている蝋燭を使います」
「こんな小さな炎で? これでは焼け残るでしょう。どうせやるならこの倉庫街まるごと消し炭にしてやりましょうよ。
あなたも私もニャルラトテップが嫌いなのですから、遠慮はいりません」
「それはそうですが、そんなことができるんですか?」
「もちろん。しかし、それには私の宝が必要なのです。芭蕉扇といって芭蕉の葉のような扇なのです。
それで扇げばどんな小さな火もたちまち業火となってあらゆるものを焼き尽くすのです」
「それはそれは」
戌は感心して倉庫を見回したが、芭蕉扇はギラギラと光を放つ金銀宝石に埋もれているようで視界に入ってこない。
そこで羅刹天に鼻を近づけ臭い嗅ぐ。
この行為の意味を羅刹天は即座に理解した。
「なるほど! 犬族の鼻なら私の臭いのついた芭蕉扇を見つけ出すことができる。
私を助けに来てくれたのが、あなたで本当に良かった!」
戌は臭いを頼りに財宝の山に頭をつっこんで、埋もれた芭蕉扇を見つけ出した。
「見つけましたよ」
戌から芭蕉扇を受け取る羅刹天。
「ありがとう、ありがとう。これでこの街を火の海に……。
あっ、これじゃない!」
「え?」
「たしかにこれは私の芭蕉扇なのですが、これは火を消すほうの芭蕉扇。火勢を強める芭蕉扇がもう一つあるのです」
「つまり芭蕉扇は二つあると」
「そうなんです。もう一度探してください」
羅刹天はそう言うと、印を結んで鎮火の芭蕉扇を杏の葉くらいの大きさにすると口に含んでしまった。
「やれやれ」
戌はあきれながらも、もう一度臭いを頼りに宝の山から芭蕉扇引っ張り出す。
「これですね。しかし重さも見た目もさほど変らない。これでまったく真逆の効果を発揮するとは」
「ありがとう。芭蕉扇を見分けるには熟練が必要なのです。
さて、これで私の宝は全部です。ニャルラトテプの痴れ者に一泡吹かせてやりましょう」
羅刹天は満面の笑みを浮かべて、蝋燭を芭蕉扇で一扇ぎ。
すると、たちまち火炎が広がり財宝を燃やして溶かす。
その威力に戌は驚く。
「あつい! なんて無茶な。早くここから逃げ出さなくては。乗って!」
そして、羅刹天を背に乗せると玄武岩の壁を突き破り脱出。
戌の背の上で羅刹天は芭蕉扇を振り回す。その度に火炎がはじけて飛んで、延焼を拡大させていく。
「おほほほほほ!!! 燃えろ、燃えろ!!! ニャルラトテップの街なんざ燃えて焼けて消えうせろ!!!!
あはははははは!!!!」
必要以上に喜び舞い上がる羅刹天を、戌は不愉快に思った。
ニャルラトテップという共通の敵がいなければ叩き落としていた。
羅刹天、仏門に帰依しているとはいえ、その本性は破壊と滅亡の鬼神である。
鬼殺しの力を授かった戌が嫌悪するのも無理からぬことであった。




