第91話 セレファイスの戦いの後
ルルイエ軍が撤退し、猪八戒らが雨の精の助けを借りてセレファイスから東の大陸へ向かった後。
各勢力では様々な動きがあった。
クラネス王はセラニアン城が半壊したものの、自身の領土を取り戻した。
それから程なくして、トリトーン率いる大いなる深淵の軍勢が到着した。
トリトーンは、すぐにクラネス王居城にて謁見した。
「陛下、まずは領土奪還おめでとうございます。
しかし、我々は同盟を結んでいる立場をお忘れではありませんか?
我が軍の到着を待たずに戦闘を始めてしまうとは。
もちろん、戦場では咄嗟の判断が必要になる場合があることは承知していますが。
聞けば異国の者たちにそれを任せたとか」
口調こそ丁寧だが、その言葉尻には面子を潰された不満が滲み出ていた。
今、幻夢境においてもっとも勢いのある大国、大いなる深淵。
そして、生まれながらにして神であるトリトーンにとって、元人間の作った国家に侮られることは我慢ならなかった。
クラネス王は玉座にかけたまま、威厳ある態度を崩さない。
先の戦いでは終始狼狽し混乱し気絶していたが、喉元過ぎれば熱さを忘れるで今は平常心を取り戻していた。
「将軍、貴殿の言うことはもっともである。
が、事は急を要した。セレファイスだけの問題ではなかったのだ。
外部の者が活躍したおかげで、ルルイエの計画を阻止し月の滅亡を防げたと言える。
そして猪八戒がゾス=オムモグを討ち取った。クトゥルフ三柱のうち一柱が滅んだのだ。
こんなに祝福すべきことはそうない。
ところで、海はあなた方の領域のはず。周辺海域に残ったルルイエ軍はどうなったのです?」
「目下捜索中だ」
「ルルイエは元々、覚醒の世界を主な活動場所としている。
もうそちらへ逃げてしまったのではないかな?」
図星をさされたようで、トリトーンの目が血走る。
地上に残ったハイドラ率いるルルイエ軍は撤退し、その痕跡を完全に消していた。
ルルイエは時空間を移動する手段を用いて別次元に逃れたことは明白であった。
そして、それを追う手段は大いなる深淵には無かった。
“ハイドラ、あのメス蛇め。どこまで私を侮辱する気だ。……奴はこの手で必ず始末をつける”
トリトーンは腹の底で怒りの感情を沸き立たせた。
月、スミス&ティンカー社は、セラニアン城から脱落したラジウムロケットの一部を回収していた。
CEOティンカーは、ヘパイストスの研究・開発室を訪れた。
「何か分かったか?」
ヘパイストスはティンカーに目もくれず、ラジウムロケットの破片を手に取り目を凝らしている。
「……これは実に。不思議だ。
以前、ニャルラトテップが開発したラジウムロケットを見たことがあるが……」
「ルルイエとニャルラトテップは良好な関係にあるとは言い難い。
このロケットはニャルラトテップのものを見よう見まねで作ったか盗んだものだろう。
あの魚人どもに高度で複雑な機械が作れるはずがない」
「……違う。そういうことでない」
破片を机に置き、初めてティンカーへと顔を向ける。
「このロケットはニャルラトテップの技術とは別の系統だ。
これを作ったのが魚人なのか別の誰かなのかはわからない。独自の技術で作られている。
しかし、この技術に一番近いのは……」
発言をためらうヘパイストスにティンカーは焦れる。
「いったいなんだ? もったいぶらずに早く言え」
「……人間だ。魔力に頼らない手法。人間が作ったものだ」
「……お前、本気で言ってるのか?」
ヘパイストスは首をゆっくり縦にふりうなずいた。
ティンカーはしばらく真顔で口をつぐんでいたが、ついには我慢できず吹き出した。
「ぷっ、くくくく、はははははは。
いくらなんでもそれは……。人間なんぞにロケットが作れるわけがないだろう!
花火とは違うんだぞ。
どうだ、疲れているならしばらく休暇を取っても構わんぞ」
へパイストスは憮然として答えた。
「人間は我々が思っている以上に賢い生き物だ。
崩壊戦争以来、戦後の人間との交流は失われた。我々が会えるのは戦前の人間だけだ。それも死者か夢見人だけ。
我々とは無縁の戦後の人間が自力で技術を高めた可能性だってある」
「それこそおかしな話だ。人間が神から学ばず盗まず独自に技術を開発するなど不可能な話よ。
まぁ、この話はこの辺にしておこう。大事なのはこのルルイエロケットの性能だよ。どうなのかね?」
「性能面でいえばニャルラトテップのロケットに比べて燃費が悪い。それ以外は可も無く不可も無く」
「よろしい、ならば決まりだ。こんなロケットの調査はやめてしまえ。
それよりも鋼鉄巨人の改良を進めたまえ。あわや大惨事だったがセラニアンを押し返したことで宣伝効果はあった。
ノーム族から注文が入ったぞ。拠点防衛用に一つ欲しいそうだ」
「……わかった。そちらに専念しよう」
機嫌良く立ち去るティンカー。ヘパイストスはそれを見送ると、ラジウムロケットを厳重に大型金庫に保管した。
彼自身、このロケットに対する興味が尽きなかった。独自に研究調査を進めることを決めた。
同じく月、深夜。ロジャーズ博物館では館長オラボゥナが防衛戦成功を喜び、一人『The Sacrifice to Rhan-Tegoth』の前に座り祝杯をあげていた。
カンテラの橙の灯りがラーン=テゴスを下から照らす。揺れる炎に影も揺れる、まるで生きているように見える。
「ラーン=テゴス様、ルルイエは退きました。まさに運命があなた様の味方をしております。
ルルイエは厄介ですが、メリーランドの女王もアルハザードのランプもまだ我々の手の内にあります。
月の防衛網、そしてこの博物館を要塞化すればもはや誰も手出しできません」
「お前、何言ってんの?」
カンテラの光の届かない闇の中から突然の声。
オラボゥナは立ち上がり辺りを見回す。
「誰だ!? ラーン=テゴス様の神殿に無断で踏み込み、あまつさえラーン=テゴス最高神官の私をお前呼ばわりするとは。
出て来い! ラーン=テゴス様の滋養にしてくれる!」
すると黒い闇の空間に赤く光る三眼が浮かび上がった。
「俺だよ、ニャルラトテップだよ!」
「うひゃああああ!!!!!!」
さっきまで威勢はどこへやら、オラボゥナは腰を抜かしてへたりこんだ。
「ななななっ、ルルイエの次はニャルラトテップだと!?
今日はいったいどうなってるんだ! お、お前なんか恐ろしくもなんともない。
ラーン=テゴス様に比べれば小者もいいとこ! 早く立ち去れ」
「立ち去れ? 君が僕に命令するのかい? 盗人のくせに」
「!!」
アルハザードのランプは、ニャルラトテップ所有の沈没船から盗み出した物だった。
オラボゥナは顔面を硬直させて三眼を睨んでいる。
「……君がなぜ後生大事にランプを持ってるかおよその想像はつく。
文明国の力を欲しているのだろう?」
「!!」
「そこから文明国を覗き見しているんだろう?
そして無の世界の力を我が物にしようとしている」
「……」
「いいよ、そのランプ貸してやるよ。
でもね、文明国から力を引き出そうなんてそうそう簡単にできることじゃないよ」
赤い三眼は光を失い闇に黒く溶け込み消えた。
オラボゥナはカンテラを持ち、目のあった辺りまで歩いたが壁につき当たった。
「……行ったか。
月にニャルラトテップが潜んでいるという噂は聞いていたが、本当だったか。
しかし、どうしてこのタイミングで現れた? アルハザードのランプを回収したのは最近の話ではない。
そうか、ルルイエが私の財産を狙っていることを知り、探りを入れに来たのか」
心あたりがあった。
「……まさか理事会に奴のスパイが?
エジプトのイムホテプなんか名前が似てるから一番怪しい。
ティンカーや申……、それはないか。いや裏をかいて実はということもありうる。
かぐや姫? いやいや、あの場には理事の側近たちもいた。
全員が容疑者だ……」
理事会にニャルラトテップが潜んでいると確信する。
月がノーデンス派ニャルラトテプ派に分かれていた頃、オラボゥナはやむを得ずニャルラトテップ側についていた。
しかし、その派閥争いが終焉した現状、ラーン=テゴスによる新世界を目指すオラボゥナにとって這い寄る混沌は邪魔で危険な存在でしかない。
アルハザードのランプを含むロジャーズ博物館の財産を狙ったルルイエもまた同様である。
猪八戒、沙悟浄、トト、そして魔犬たちが引く巨大犬ぞりは、雨の精の助けを借り虹の道を通って新大陸への一歩を踏み出した。
ポリクロームと黒衣仙女が見送りに来る。
「お父様の力がおよぶのはここまで」
猪八戒は地図を広げとびきりの笑顔を見せる。
「大丈夫、ここから先は陸路で行くわ。
えぇと、ここが大陸の東端で、ここから南西に進むのね。
途中にある主な都市はダイラス=リーンとウルタールか」
黒衣仙女も微笑む。
「あなたたちの旅が良いものでありますように。唐僧と無事再開できますように。
あ、私たち七仙女は孫悟空への怨みは忘れてないから。もし再会できたらよろしくね」
猪八戒は苦笑いし、天女たちに礼を述べた。
そして、冒険者たちは玄奘三蔵と臆病なライオンがいるという普陀山を目指す。