第87話 セレファイスの戦い⑫浄壇使者(じょうだんししゃ)の片鱗を見せる
セラニアンの城壁を駆ける沙悟浄。その眼前に入る月は大きい。衝突までの残り時間は残り僅かであることを示していた。
悟浄は外壁に出来た亀裂から玉座の間へ飛び込む。
そこにはもうルルイエの者たちの姿は無かった。
「八戒! あ、いた!」
猪八戒は縛り上げられたケアンテリアのトトの縄を解いていた。そして床にうずくまり、両手でなにやら悪臭のする液体をかき集めている。
「八戒、何をしているの!?
手遅れだった。この城は……、月に落ちる。
早く逃げないと」
「でも……、食べ物を粗末にできないよ」
「は?」
話は沙悟浄が城外に飛び出した直後に遡る。
ゾス=オムモグの怒りにふれた猪八戒は苛烈な拷問にかけられていた。
「ルルイエを拒む者には死を!」
ゾス=オムモグの触手が猪八戒を叩きのめす。
八戒は床に倒れ、うめくことも出来ず、されるがままに体中に傷を作っていく。
いあ!いあ! くとぅるふ ふたぐん! ふたぐん!
いあ!いあ! くとぅるふ ふたぐん! ふたぐん!
その様にインスマス人たちはひざまずき、クトゥルフを称える呪文を唱える。
「何を寝ている。立て」
ゾス=オムモグは触手を八戒の腕に絡めて吊るし上げる。
「このまま叩き続ける。貴様の一番もろい場所はどこか。
腕か? 足か? それとも――」
弾力のある触手が勢いをつけて空を切る。
「その醜くたるんだ腹か?」
打撃。八戒の腹の脂肪を掻き分ける。その下には重厚な腹筋が隠されていたが、朦朧とした意識下においては弛緩していた。
豚の胃が震える。胃液につかった菩薩のタケノコが踊り、呼吸が止まる。こみ上げる嘔吐感。
耐え切れず、否、そもそも耐えるという意思が働かなかった。口から噴水のごとく汚物をぶちまける。
絶叫が響きわたった。
インスマス人の呪文の詠唱が止まった。彼らは顔を上げて、今起きていることを理解し、恐ろしい現実と向き合わねばならなくなった。
ゾス=オムモグは死んでいた。絶叫の主は彼であり、断末魔だった。
白い竜頭蓋は、タケノコ混じりの胃酸を受けて黄色くただれて溶けていた。
その頭部をささえる寸胴の軟体胴体もゆっくりと崩れ落ちる。
インスマス人たちは愕然とした。ある者は腰を抜かし、またある者はパニックのあまり玉座の間から飛び出した。
一部の勇敢な者たちが銛をふりあげた。
「この下劣な豚めっ! ゾス=オムモグ様の仇!」
「まて!」
白い手を出し、彼ら制したのは魚籃観音であった。
「これはゾス=オムモグ様の過ちである。
なぜ、ゾス=オムモグ様は数ある猪八戒の部位で腹を打ってしまったのだろうか。
腕をもげば、足をもげば、頭を砕けば……、こんなことには……。
なぜ、猪八戒の腹を? 供物をいただく神聖な器に傷をつけてしまうとは。
犯してはならない過ち。どうしてこんなことに」
その言葉には猪八戒に対する怒りや憎しみはなく、ただただ驚きと後悔の念が滲み出ていた。
しかしインスマス人たちの怒りは増すばかりだった。
「観音様、何を弱気な!
ご覧下さい、あの下品な豚はすっかり参っています。仇を討つなら今です!」
「よさないか!」
魚籃は目を見開き魚人たちを律する。
「ゾス=オムモグ様は過ちを犯した。汚れのとれた胃袋さえ狙わなければ猪八戒を殺せていたのだ。
なんということ。これが運命が」
「観音様!」
悲痛と無念をこめて、なおも食い下がる魚人らを引かせる。
「嘆くな、憤るな。これは当然の結果。
神はより強い力を持ち奇跡を起こすごとに傲慢になる。そして、人間は弱く愚かと思う。
「人間と供にある」言うは易いが、この本質を理解し体現することはどんな術よりも難しい。
ゾス=オムモグ様には重荷であった。
強き者との絆さえあれば、たとえ胃液を受けても退けることができた」
「し、しかし」
「……見よ、豚は腹の中身をぶちまけて満身創痍。
このままここに取り残せば城と供に滅ぶ。捨て置け。
それよりも我らが使命を優先させよ。
月の破滅とアルハザードのランプの奪取」
インスマスたちは完全に納得できたわけではなかったが命令に従った。
魚籃観音の金砂に乗って、月に落ちるセラニアン城から脱出した。
猪八戒はゾス=オムモグの溶けた亡骸を背にして、自らの吐瀉物を両手ですくい集めている。
沙悟浄は全てを察した。
「八戒やめて。それはあまりに汚い」
「で、でも食べ物を粗末にできないよ」
「お願いだからやめて。
それはもう食べ物じゃない」
「あぁ!」
腕を引っ張られ無理矢理立たされ猪八戒は無念そうに声をもらした。
「逃げるよ、もう城は月に落ちる。
トトもおいで」
沙悟浄たちは玉座の間の亀裂から城外を覗く。
セラニアン城はすでに月の上空を落下している。
眼下には広大な水田が広がり、端にはアルテミス神殿公園やロジャーズ博物館が映る。
あと少しもすればこの一帯は灰と化すだろう。
「ここからなら仙雲で脱出できる。
ん、あれは何!?」
沙悟浄は水田に立つ銀色の人影を指差した。
その人物はセラニアン城を睨み、手には巨大はハンマーを携えている。
よくよく見ればその人物に比べて周囲の水田は小さく見える。銀色の人物は三十メートルを超える巨人だった。
猪八戒はその正体に気付く。
「S&T社の拠点防衛兵器、鋼鉄巨人!」
鋼鉄巨人はハンマー振り上げんと下段の構えをとる。月の大地を守るためセラニアン城を破壊しようというのだ。
「ははーん。城も月も守る作戦を思いついた」
猪八戒は憔悴しきった顔に少しばかりの笑いを見せた。