第80話 セレファイスの戦い⑤鶴と亀
魚籃観音は天罡刀を振りかぶった。
仏道を行く沙悟浄をルルイエに改宗させるための拷問。五つ目の傷をつけるための前動作。
悟浄は凛とし毅然として刃に向かう。気力でのみでそれを支えている。
並みの神仏であれば、激痛と逃れることも防ぐことも出来ない三十六の斬撃に心は砕けルルイエにひれ伏していた。
事実、悟浄は魚籃の動きを何一つ見切れていない。助けが無ければ切り刻まれる。
助けは来ない。来ても無駄。悟浄は確信していた。
とても受け入れられることではないが、目の前にいる魚籃観音を名乗る女神は間違いなく観世音菩薩である。
悟浄を導き、護り、助けてきたのだ。とても突破できる相手ではない。
五刀目が振り下ろされる。血の池が広がって石畳を染め上げて竹林の地下茎へとしみ込む。
地に膝をつく悟浄は小さい声で何かを言った。
「ん?」
魚籃は聞き取れず、腰をかがめて悟浄の口に耳を近づける。
「……三十六回斬りつけて、その後はどうするおつもりで?」
柄に血がこびりついた降魔宝杖で、腕だけ動かし近づいてきた魚籃に一撃を与えようとした。
奇跡は起きなかった。天罡刀が悟浄の手から宝杖をはじき飛ばし、六つ目の傷を腕につける。
魚籃は悲しみを込めた言葉を送る。
「あなたがどんなに強情でも頑固でも、三十六撃目で必ず改心します。私の気持ちを受け入れてくれます」
「ありえません。菩薩様、あなたは三十六刀目の後にどうするか今から考えたほうがいい」
「お黙りなさい。口答えは禁止です」
腹から胸にかけて七刀目が切り上げられる。
ここでついに、悟浄の膝の力は抜けて、その場に倒れる。
横で見ていたポリクロームは口を開かず、無言で悟浄の両脇をかかえて、ずるずる引きずった。
できるだけ遠くへ。魚籃観音から逃げるつもりだった。
しかし、意識こそあれ、力尽きた悟浄を運ぶことは容易ではなく、ポリクロームもまた天罡刀を防いでいたときに魔力を消耗していた。
魚籃はポリクロームに呼びかける。
「虹の娘よ。沙悟浄を連れてどこへ行くつもりですか?」
「……」
ポリクロームは返事をしない。唇を噛み締め目を赤く腫らして、無言で悟浄を引きずり続ける。
「それで逃げているつもりなら無駄ですよ」
魚籃はゆっくりした歩調で、余裕をもって追いついて、引きずられる悟浄に八刀、九刀と斬りつける。
魚籃が十本目の腕で十刀目を振りかぶったとき、東から魔犬の吠え声が轟いた。魔犬の群れが追いついたのである。
彼らは血まみれの悟浄の姿、そして優れた嗅覚で魚籃観音から底知れぬ力を感じ取る。
魔犬たちは唸りながら魚籃を取り囲みにじり寄る。
魚籃は眉をひそめる。
「私は今とても忙しいのです。あなたたちに構っている暇はないのです。立ち去りなさい」
悟浄はかすれる声、もうそれはほとんど声というよりは音で犬たちに警告する。
「逃げ……」
魚籃は天罡刀を手にした三十六の腕を広げる。さながら怒り狂う鳳凰のようであった。
「立ち去れ、犬ども。お前たちにできることなど何も無い」
百戦錬磨の魔犬たちをもってしても、魚籃観音の前では身がすくみ恐怖にのまれる。
それほどにこの敵は今までとは別格であり異質な存在であった。
しかし、ただ一匹。恐れずに立ち向かう犬がいた。
魔犬ではなく、もっとも小さく弱い犬。ドロシー・ゲイルの飼い犬、黒いケアンテリアのトトである。
トトは魚籃の足下まで駆け出し、激しく吠え立てた。
“こんな小さな犬ではひとたまりもない”
悟浄とポリクロームは同じ事を考えていた。
魚籃観音は目を見開く。
「トト? ドロシーのトト。お前は……。
どうしてこんな所に? 私は……?」
先刻までの冷徹さは消え、激しい動揺を見せる。
この変貌に魔犬たちは色めき立つ。
「おぉ、さすがトト様! 邪悪な魔女をも怯ませる存在」
「この勢いでルルイエの野望を阻止しましょう!」
トトは魚籃の足下までかけて衣の裾に噛み付く。
「あっ」
魚籃は転んで尻餅をついた。その反動で裾は破れ、三十四の腕は引っ込み、天罡刀三十六本は消滅した。
トトはまた激しく吠え唸る。
「わんっ ウゥ~!!(どうして悪い魔女のようなことをする!!)」
「……私が悪い魔女? 私はルルイエのために……」
「ワンッ! ワンッ!?(ドロシーはどこ!?)」
「……知らない。でもきっとあの娘なら無事で。
だってあの娘はあなたと同じで……」
「ぐるるるるっ(ルルイエの悪評はあちこちで聞く。どうしてそいつらに加担する?)」
「ルルイエ!? どうして? だってルルイエは……、クトゥルフ様こそが真理で……。
え、クトゥルフ様って誰? そもそも私は何なの?」
魚籃観音は誰が見ても錯乱していた。
ポリクロームは、血まみれで横たわる悟浄をはげます。
「見た? きっとあの女神は悪い魔法で操られているのよ」
しかし、悟浄の顔は晴れない。
「菩薩様に術をかけるなんて並大抵のことじゃない。
クトゥルフとやら、危険な奴」
「……」
「どうかした?」
「あなた、さっきあんなに斬られて息も絶え絶えだったのに。
どうしてもうそんなに喋れるの?」
「たった、九回斬られただけよ。まだ身体は重いけど、口ぐらい動くよ。
さすがに三十六回も斬られたら心が壊れていたと思う」
「……心配して損した気分なのだけど」
「身体だけは頑丈だからね。
それよりも菩薩様が動揺している今こそ正気に戻す好機!」
そのとき、ちょうど手で握れるほどの黒くつややかな玉が空から落ちてきた。
その玉は地につかず、魚籃観音の周りを回り、ぴたりとその身体にくっついた。と同時に観音は空へと飛んだ。
飛んだというよりは、まるで釣り上げられた魚のような動きであった。
空から別の女の声が響く。
「あらあらあらあらあら。
下が騒々しく何事かと思えば、薄汚い犬が我らの師をたぶらかしている。
見過ごすわけには参りませんわ」
悟浄たちは空を見上げ声の主を見る。
上空を旋回する海亀、その全長は四メートルを越えている。甲羅には古傷と思われる亀裂が隆起している。彼が少年時代にブリキの木こりによってつけられた傷と知る者はあまりいない。
甲羅の上に立つ若い仙女。白鶴の権化。穏やかで柔和な笑顔であるが、それをしても隠せな殺気を放っている。
右手に釣竿を持ち、左腕に魚籃観音を抱えている。
「菩薩様を釣り上げたのか」
悟浄の言葉にに仙女は返す。
「魚籃観音様は我らの偉大な師。あなたがた真理のかけらもわからぬ愚者に渡すわけにはいきませんの」
魚籃観音は仙女に尋ねる。
「あ、あなたは?」
「魚籃観音様、私です。浦島姫です。
あなたは文明国の犬の毒気にやられたのです。ここはお引き下さい。今はセラニアンより儀式を」
「え……。あぁ、そうでした。ここは任せます」
魚籃観音は冷静さを取り戻し、地上にいる悟浄やトトには目もくれず頭上のセラニアンへと飛び去る。
「待って、お待ち下さい!」
悟浄の言葉は届かない。
「あらあら、礼儀も知らぬ蛮族が魚籃観音様に声をかけるとは無礼と不遜の極みですわ。
私が礼儀というものをその身に持って教えてさしあげます」
浦島姫を甲羅に乗せた海亀が言う。
「お嬢、気持ちはわかるが地上戦はまずい。あの文明国の犬は厄介だ」
「わかってますわ通天河。しかし文明国の犬ならば空を飛ぶことはできないはず。
空から決着をつけます」
「応ッ!」
浦島姫は釣竿を構えて振る。黒い漆玉が唸りをたてて空を切る。
たくみな手さばきで釣竿を操り縦横無尽に飛翔させる。
すると漆玉を中心に白い煙幕が立ち込める。
悟浄は既に立ち上がり降魔宝杖を手にしていた。が、武器は腕に重くのしかかる。
魚籃観音から受けた傷の影響と思ったが、見ればポリクリームも魔犬らもぐったりとし、立っているのが精一杯の様子である。
この煙幕こそ、浦島太郎を老人に変えたそれである。人間に急激な老化を促し、神族には強い疲労感を与える。
トトは神族ではなく普通の犬である。しかし、老化も疲労することも無く上空の浦島姫と通天河に向かって激しく吠え掛かる。
「老化しない……」
「お嬢、やはり文明国の犬は一筋縄ではいきそうにないぜ」
「あら、ではまず飛行能力のある沙悟浄だけでも倒しましょう」
姫は釣竿を振り下ろす。漆玉が悟浄の頭めがけ飛翔。
「この程度!」
悟浄は鳳凰の頷きと呼ばれる回避の術を使う。が――、
「!?」
思ったように身体動かず膝をつく。天罡刀で切られた足が悟浄の意識に追いつかない。
「お眠りなさい、赤毛の妖魔」
浦島姫は勝利を確信し口角を上げた。