第74話 セレファイスの危機 前編
太陽の陽射しがオオス=ナルガイの谷間を照らす。西に向かって進む犬の一団があった。
一軒家を改造した巨大な犬ぞりを引く十二頭の魔犬、それに護送団のごとく随伴するのもまた魔犬の群れ。
そりの窓から顔を覗かせるのは、この群れを率いる黒ケアンテリアのトト。
この一団を構成する者は犬だけではない。
仙雲に乗る猪八戒と沙悟浄。そして虹の娘ポリクローム。
ポリクロームは自力で雲を出せないので、気分次第で猪八戒や沙悟浄の雲または犬ぞりの屋根の上に落ち着き無く飛び移っていた。
なぜ落ち着きがないというと、彼女は大抵はひらひら踊っていてるからである。ときたま地面に落ちそうになり、周りの者をヒヤヒヤさせた。
「ポリーちゃん、せめてどこかでじっとしたら?」
だが、ポリクロームに八戒の意見を聞く気は無い。
「それは難しいわ。私、こうしてないと落ち着かないのよ」
そしてひらひら舞って犬ぞりの屋根に飛び移る。
八戒はため息をついた。
「こんな調子じゃ、毎回雲から落ちるのも納得だわ」
その横で沙悟浄は遠くを見つめている。
「ねぇ、あれ何かしら?」
「?」
悟浄の指差す先を全員が見る。正面から大勢の人が歩いてくる。
悟浄は目をこらす。
「……あの人たちは、セレファイスの?」
八戒は応える。
「そりゃあ、ここから一番近いのはセレファイスだけど、こんな谷間を集団でうろつく習慣は無いでしょうに」
猪八戒と沙悟浄は仙雲から降りる。犬ぞりも速度を落とした。
セレファイスの民衆とすれ違う。大行列、まるで戦争や災害で故郷を奪われた難民のようである。
事実、彼らはひどく疲れている様子だった。着の身着のまま飛び出してきたような有様である。
「ねえちょっと、あなたたち、いったい何があったの?」
猪八戒は蘭の花冠を被った神官を呼び止めた。
神官はびくりとして足を止めた。
「ルルイエが……、ルルイエの軍勢が突然攻め込んできた。
我々は逃げるしかなかった」
「え、ルルイエって、あの覚醒の世界の?」
神官はやつれた声で答える。
「そうだ。陛下(クラネス王)は常々ニャルラトテップには警戒し、大帝ノーデンスとの関係を強めていたが……。
西岸から攻め込まれたのだ。まさかルルイエが来るとは想定外だった」
「海を仕切ってるのはそのノーデンスの大いなる深淵じゃない。
セレファイスを奪れるほどのルルイエ軍勢に誰も気付かなかったの?」
「それが突然のことで……」
猪八戒は、しどろもどろになる神官に苛立った。彼女は豚に堕天する以前は、天の川水軍を率いる天蓬元帥だった。
つまり海戦での知識経験は豊富で、水軍を率いれば手足の如く操る。今話している文官は戦の知識には乏しい様子で、まったく参考にならない。
「ねぇ、誰か軍事に詳しい人はいないの?」
「ここにいるのは、ほとんど町の住民で、警護の兵が少しいるだけだ。
しかし、クラネス陛下なら街のはずれに陣を敷いて兵を展開されている」
「ふーん、なるほどね。わかったクラネス王に会いに行きましょう」
神官とわかれ、猪八戒らはセレファイスに向かいながら相談する。
八戒は深くため息をつく。
「けっこうこれは不味い状況だわ。私たちの計画じゃあセレファイスから出てる船で向こう岸に渡るはずだった。
でもこの様子じゃ、海上は封鎖されてるわ。
それにポリーちゃんだって、セレファイスの飛行ガレー船で雲の国に帰る予定だったんだから」
ポリクロームは悲しそうにうなだれる。
「街がルルイエのものにされてたらガレー船も出航させてもらえないわ。雲の上に帰れない」
魔犬たちも困惑気味。
「このままここで足止めですか、それではトト様のご友人とも合流できない」
「つまり皆が目的地に行くにはルルイエを追い払うか、彼らと交渉して通してもらうしかないわけね」
悟浄の出した結論に八戒はうなずく。
「正解。けどねー、なんかこうしっくりこないのよね。わからないのよ」
うなずきながらも、首をかしげたり身体をひねったりする。
「なんなのかなー。ルルイエがセレファイスを第一目標にして攻め落とすのがよくわかんないのよ」
八戒一行はセレファイス軍の野営地に到着した。
鎖かたびらや甲冑に身を固めた兵士たちが機敏に動き砂埃を舞い上げている。
衛兵らが弓を構える。
「貴様ら、何者だ!?」
沙悟浄が答える。
「私は沙悟浄です。クラネス王にお目通り願いたい」
「なに、悟浄だと? わかった、しばらく待て」
衛兵の一人が立ち去り、またすぐ戻って来た。
「よろしい、通れ。ただし犬ぞりは陣の外で待て。犬は代表の一頭のみ入って良い」
八戒、悟浄、ポリクローム、そしてトトが衛兵に案内されてクラネス王のいるテントに通された。
クラネス王他、セレファイスの指揮官らが机に広げられた地図を前に都市奪還作戦を協議していた。
「おぉ、悟浄よ戻ったか。早速、八戒と合流したのだな。
君はドロシーの飼い犬だな」
トトは一声吠えて返事をした。
クラネス王はポリクロームに気付く。
「ポリクロームも来ていたのか。残念だが、この状況下では君を父上の元に連れて行ってやることはできない」
「やっぱり。何かいい方法は無いかしら?」
「それはもちろん国を取り戻すことだ。今、大いなる深淵よりトリトーン率いる援軍が向かっている。
我が軍が東、トリトーンが西より攻める挟み撃ちだ。余としては是非とも君たち堕天、妖精、魔犬らの力も借りて都市を奪還したい」
「……やっぱり、そうなるんですよねぇ」
猪八戒は目を細め地図を睨む。
「不服かね?」
「陛下、あなたに協力することはやぶさかではないわ。
でもね、結局ルルイエは何がしたくてセレファイスを占拠したわけ?
なんかそれが不可解で」
「つい先程入った情報によると月に対して何か要求をつきつけたそうだ」
「はぁ?」
セレファイスの将たちは八戒の受け答えに憤る。
「この豚め、先程からの陛下に対する無礼な態度はなんだ!」
クラネス王は片手を出して将たちを制する。
「よい。
それで、八戒よ。君が思ったことを述べたまえ」
「では。
ルルイエ軍の進軍のやり方は明らかに出鱈目で、ことごとく理を外している。
まずセレファイスの占拠。これは奇襲で奪われたのよね?」
「そうだ。余はセレファイスの最大の敵はアザトースとその眷属と想定している。
海はノーデンスの庇護下にあるため警戒は薄かった」
「なるほど、ルルイエはなかなかうまくやったわけね。
で、次の謎、奇襲はうまくいったけどノーデンスが援軍を寄こすのは明白。
そしてセレファイス軍も健在。ねぇ、ルルイエはあなたの野営地を襲ってきた?」
「いや、こちらから挑発を仕掛けはしたが、奴ら積極的にこちらを攻撃してこない」
「ふん、また謎が深まったわ。ルルイエ軍は深淵の援軍が来る前にセレファイス軍を殲滅しなければならないのよ。
でないと挟撃されるからね。奴らはセレファイスにこもって何をしているのかしら?」
クラネス王はやや言うのをためらう素振りを見せた。
「それが偵察部隊の話によると……、その、タケノコを栽培しているらしい」
八戒の腹がぐぅと鳴った。
「失礼。
えっと、ルルイエの魚人はあなたたちを無視してタケノコ作りにご執心なわけね」
「いや、偵察部隊も困惑していた。こんなときにタケノコを育てるはずがない。
きっと何かと見間違えたのかと。名状しがたい呪術を見間違えたのかも」
「わかったわ、推測はその辺りにしておきましょう。
で、次の謎。ルルイエの目的はどうやら月にあるようだけど。
セレファイスは月を攻めるのには向いていない。地図あるかしら?
そうここにあるセレファイスとコーンウォールじゃなくて、もっと広範囲の。ある? ありがと」
将の一人が世界地図を机に広げる。
八戒はセレファイスを指差し、地図上をそのまま西に向かって進める。海峡を越えてダイラス=リーンを示す。
「私が地上から月を攻略するなら、月との交易地のダイラス=リーンを押さえる。と、同時に――」
次は東に指を進めセレファイスの東側を指す。
「これもやはり月への交通路であるゴンドラ、ムーンラダー号を制圧する。
その他、月への交通路は全て封鎖して孤立させる。それが正攻法ね。
で、ルルイエ軍はそういった要所は押えたのかしら?」
「いや、それらの都市や施設は攻撃を受けていない。ルルイエが攻撃したのはセレファイスだけだ」
「なるほど、月への攻撃に向かない都市を制圧、敵の残存軍はほったらかしでタケノコ栽培、おまけに交通の要所はおさえない。
ルルイエの指揮者は?」
「クトゥルフ三柱の一つゾス=オムモグ。ハイドラ含め指揮官らしき女神三人が確認されている」
「ふぅん、深淵の援軍を待つ余裕は無いかも。敵が単なる阿呆ならいいんだけど。
もし、何か企んでるなら――」
猪八戒は顔上げる。その目は自堕落な豚ではなく水軍元帥のそれ。
「奴らの計画が何一つ見えない。だからこそ、それは順調に進んでいる。
阻止しないと取り返しのつかないことになるよ」